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とある人の遺書

作者: 藻岩 憧

 私はとても優れた人間だ。この国で最古にして、最難関の最高学府に入れた事はその証拠の一つであるし、そこでも私の才能は存分に発揮していた。もちろんそれゆえに、私にできることの全てにおいて、それぞれに対して、私よりも優れた人間が存在していることも知っているし、同時に、私にできることの全ては、一人では、しかも私と同じかそれ以上にはできない人しかいない事は、よく理解している。すなわち、この私を失ってしまう事は皆様の世界における、それなりに重大な損失である。私としても、このように自殺という形で世を去らねばならない事は、ひどく心苦しいし、私が死んだことで悲しむ人に関しては十分にお悔やみ申し上げる。とはいえ、もちろん私としてもその理由というのはあるわけなのだ。


 ここで一つ私の一人語りをしようと思う。私は、理由というのが大嫌いである。いかなる場合でも、ただ一つの理由というのは、存在しないものだ。もしも、ただ一つの理由、というのがあったとすれば、それは、理由ではなくただの条件、十分条件であるのだ。仏教用語にある因縁というのは、因が直接の原因、縁が遠い原因になっているそうだ。例えるなら、因は客が増えて桶屋が儲かる、縁は風が吹いて桶屋が儲かる、というようなものらしい。このような考えは、物理学の世界にも存在している。因というのは古典力学的、あるいは相対論的、マクロ的な考えであり、ある条件があってそこからある結果が必然的に導かれるという、ある種、運命論的なものだ。縁というのは現代物理学的、あるいは量子論的、ミクロ的な考えであり、ある条件があってそこからある結果が確率的に導かれるという、ある種、奇跡論てきなものだ。因にせよ縁にせよ、膨大な条件と甚大な論理によってのみ、ある結論が生じている以上そこに理由を説き尽くす事はおろか、見出すことさえ烏滸がましい。というわけで、私は理由は書かない。


 生活の全てが思うがままの人間なんて存在しない。ならば私も、生活に満足いかない部分があるのは論理的に仕方がない。きちんと三食食べているし、早寝早起きを心がけている。適度な運動もできている。基本は10時に寝て6時に起きる。遅くとも11時には床につき、7時には起きている。朝食は贅沢とも質素とも言わず、一杯のご飯と味噌汁、卵焼きを基本に食べる。歩いて15分ほどで駅につき電車を乗って降りて、また15分ほど歩く。一日の用事が済めば、間と同様に帰宅して、寝る一時間前からストレッチと風呂に入って床につく。週に約1時間から2時間ほどは特別に運動の時間をとっている。定期的な健康診断は欠かさずに受け、これまで異常は見つからない。


 全ての人は皆孤独である。例えばクオリア論がある。クオリアとはある意味では感覚のことである。少なくとも私には感覚があり、意識がある。誤解を恐れずにいえば、この感覚や意識がクオリアであり、これを他人に解されることはないのだ。と、いうよりはある方法によって、どこまでも、正しいらしくそれを確認できるが、完全にそれとして認識はできない。正しいらしい方法とは、卑近な例を挙げれば、言葉をはじめとしたコミュニケーションであり、より正しいらしい方法で言えば、脳や循環器などの電気信号やホルモンなどを直接確認するような方法である。これらの方法によって、かなりの高い精度で、対象が、何を感じ、何を認識し、何を思い、何を考えるのか、は解るだろう。しかしそれを用いても、そもそも相手に意識はあるのか、あるとして同じものなのかは、分かり得ないのだ。私の認識しているりんごは、私もあなたも赤だと認識しているが、その赤の感じ方は、もしかしたら、あなたが感じているのと私が感じているのは反対のクオリアかもしれない。色調反転した世界を私が感じていたとしても、それは生まれつきであり、他人と比較する事は不可能なのだ。同様の議論は、この他の全てに行なわれうる。デカルトが、「我思う故に我あり」といったように、この全ては否定しうる。それはもちろん胡蝶の夢のように自意識にさえ適応しうる。


 私は死に憧れて自死を選んだのではない。私は非不可逆を望む。そして今のところ、死は不可逆である。何らかの理論があれば死を選びうるだろう。死は救済と、死は完成と、死はクリアだと、そう謳う理論は少なくない。だとしても私はそのいずれとも関わりを持たず、自ら考えつくのは死を選ばない理論だ。であるため、死とは私の望むものではない。今自分で死なずとも、200年後には死んでいるだろう。


 私は生を嫌って自死を選んだのではない。生きていれば苦しこともあろうが、それは喜びの中にある窪みである。生も死も似たようなものだ。わざわざ変わり行こうとするものでもない。


 私は愛されている。幸福に死ぬことにならん。

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