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裕也と操の間には、合わせて四人の子供が生まれた。
長女の悠。
長男の夏臣。
次女の千昭。
三女の冬千佳。
四人とも裕也の子ではあるが、長女の悠を除いて子供たちの名前は全て神邊家に名付けられたし、悠以外の子に至っては抱かせてもらったことすらない。
ところで、裕也は我が子らに妖怪退治の才能がないまま生まれてくるのではないかという事を一番に心配していた。神邊家の本家にあってその才能がないとどういう立場に身を置くことになるのか、裕也が最も理解していたからだ。だが、そんな心配は杞憂に終わる。
四人の子供らは、全員が操の才能を色濃く受け継ぎ、母と同じく幼年期から類稀なる才能を発揮していた。その点において、裕也は胸をなで下ろしていた。しかし退治屋としては良かったかもしれないが、一つの家族としては決して褒められない方向に事は動いてしまったのである。
子供たちは妖怪退治の才能が欠如している父の裕也を、全く敬おうとしなかった。それどころか軽蔑すらしていた。そもそも母を除く家人全員が、裕也を蔑ろにして腫物扱いをしていたのだ。その様子を見て育った子供らは、同じく父を心の中で見下しながら成長していった。通常ならば小学校などでできる友人たちとの会話で世間とのギャップを埋められたかもしれないが、神邊家の子供にできる友人は同じく退治屋の跡取りや関係者の子供たちである。裕也の事は他家でも当然噂されており、寧ろ子供たちは、何故自分の父親は他の家と違って妖怪退治ができないのだろうと、反発を助長する結果を招いていた。
特に長女の悠の父に対する態度は酷いものがあった。
普通の子供であれば小学校を卒業し、中学生になろうかという年の頃。少女であれば誰にでも訪れる様な反抗期や思春期を迎えた悠は目に見えて父を拒絶し、反発した。箍がはずれたように、父親どころか下手をすると人としても認めていない様な態度を取っていた。それはそんな長女の様子を見ていた弟妹たちにも容易く伝播した。
操の霊力や体力は衰え知らずであったので、妖怪退治や退治人同士の会合などに出席するために家を空けることも多かったのも災いした。家の中に裕也を庇う者がいない事の方が多かったのだ。
それは悠が十七歳になった今日まで変わることはなかった。