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◇
「悠」
裕也は家から十分程歩いたところにある遊歩道へ来ていた。簡単なハイキングができるような造りになっているのだが、途中で脇にそれる獣道がある。その先はぽっかりとした空間ができていて、林の向こうには真鈴の町が展望できるように広がっていた。
地元の者でも一体何人が知っているかわからないほどに隠れ家的に機能している。そんな広場に悠は佇んでいた。まさか人が、しかも忌み嫌っている父親の裕也がくるとは想像だにしていなかったは悠はビクりと身体を振るわせて十代の女子に違わぬ驚き方をした。
しかし、それも束の間。すぐに侮蔑の表情を取り戻す。
「…何しに来たの、てか何でここが分かったの?」
冷たい態度の中にあって、それでも解消したい疑問をぶつけてきた。
裕也が悠のお気に入りのこの場所を知っていたのには訳がある。
裕也と操が半ば強制的に神邊の屋敷に連れ戻された頃。今よりも風当たりが辛くなかった裕也は悠を連れて散歩に出かけるくらいの自由は許されていた。二人で出かけているうちに偶然この場所を見つけて秘密基地にしようと笑いあったのは今でも裕也の記憶に残っている。
悠が神邊の仕事を覚えるに従って、裕也と過ごす時間は次第に無くなり今に至ってしまうが、ある日悠が遊歩道を折れこの広場に入って行くところを裕也は偶然見ていたのだ。
今でも悠にとって何かしら思いのある場所になってくれていた事がとても嬉しかった。
だからこそ裕也は今日まで、ここの事を知らないふりをして過ごしてきた。もしも悠が裕也の気持ちに気付きでもしたらきっと反発をして二度と寄り付かなくなってしまうだろうと思っていたからだ。
ただ、今はそんな事は些細なことだった。
裕也は適当に答えをはぐらかし、微笑みながら返事をする。
「出て行くのが見えたからね。迎えに来た」
「ほっておいて…」
悠はそっけなく言い放つと森の奥へと進もうとする。その先が行き止まりになっているのは、当然の如く知っていたが裕也は黙って歩き始めた。
「ついてくんなよ!」
「駄目だ。今の悠を一人にできない」
「うざ…」
またしても悠は踵を返して、今度は元の遊歩道に戻ろうとした。いつものように鋭く睨みつけて胸を軽く押した。そうすればいつものように弱々しく謝りながら道を譲ると思っていた。けれども、まるで地中深くに根を張った巨木のように微動だにしない父に少したじろいでしまった。
そんな驚きを強気で覆い隠し、もう一度裕也を押す。だがやはり動かすことができなかった。
「なんなの? いきなり父親面すんなよ。一人にさせて」
「悠」
裕也はそっと悠の肩に手を伸ばすと、そのまま優しく抱き寄せた。少しの間、目を丸くしていた悠だったが事態を飲み込むと渾身の力で父親から離れようとする。
「何してんの。放せよ!」
ぽっかりと空いた広場に悠の悪態がこだまする。
悠は心底自分が情けないと思った。よりにも寄ってこんな父親に慰められているのだから。けれども悠は、自分の抵抗が次第に弱まってきている事に自分の事ながら気が付かないでいる。
それは決して、疲れたからでも嫌がるのを諦めたからでもない。
自分の身体をしっかりと支える二の腕の力強さに安心感を覚えているからだ。それはさながら、まだまだ遊び足らない赤ん坊が寝かしつける父親の拘束から逃れようとしている内に、眠りに落ちてしまうようでもあった。
激しい罵詈雑言はいつの間にか何とか噛み殺した三度きりの嗚咽に成り代わった。
悠は最後の意地で自分の涙顔だけは父親に見せないように顔を伏せたままにか細い声を漏らした。
「…もう訳わかんないよ」
「大丈夫だから」
大丈夫だから。
その言葉を聞いた途端、悠の中に張っていた糸のようなものがハラハラと解け落ちてしまった。絶対に見せたくないぐちゃぐちゃな顔を見上げると、もう何年もまともに見ていなかった父の顔がある。
「お父さん……」
しっかりとした眼差しで自分を見る父親を見ると、悠はぼそりと彼の事を呼んだ。
裕也は生まれて初めて、自分の子供に父と呼ばれた様な気分になった。すると勝手に娘を抱く手に力が入ってしまった。
「大丈夫だよ」
何と言っていいのかまるで分からない裕也は同じ言葉をもう一度繰り返す。悠にとってはそれで十分すぎる程だった。
やがて裕也が手を離すと、悠は黙ったまま森の奥に見える景色を見つめた。どれくらいの時間そこにいたのだろうか。一瞬にも思えたし、とても長い時間にも思えた。
それまでは耳に何の音も届いていなかったのに、不意に木の葉が風にざわめく気配が鼓膜を掠めると起きたままに目を覚ます。いよいよ本家に悠を連れて戻る覚悟を決めた裕也が声を掛けようとすると、
「帰ろっか」
と、悠から申し出てきたのだった。
落ち着きを取り戻したその表情には決意の色がとても濃く出ている。悠はこの後、自分がどういう立場に身を置かなければならないのかを察しているのだ。しかしそれは自暴自棄に受けれたのでも、自分の運命を呪ったりしているモノでないことは重々知っている。
覚悟を決めた凛とした娘の顔を見ると、誇らしい気持ちと言い得ぬ物悲しさが一度に裕也の胸中に広がった。




