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皆に発破をかけた悠は獲物に襲い掛かる猫のように飛び出すと、英単語帳のようにまとめられた札の束を放り投げ呪文を詠唱する。
『怒を緩く、さすれば彼も言を容る。柔らかな舌は骨を折る』
札の束は瞬時にばらけるとそれぞれが意思を持っているかのように操と鵺に襲い掛かった。数百数千の符はまるで扇状に隙間なく広がり逃げ道を塞ぐ。
しかし操に逃げ道は必要ない。
『愚者の痴に従いて之に答えよ、彼は己が目に自ずから智者と見ん』
操は淀みなくつらつらと言の葉の紡ぐと、右腕を一文字に振り払った。途端に悠の放った札の全ては散り散りに飛散してしまう。
「嘘だろ…」
紙吹雪のように風に煽られて流されていく札の残骸の奥から絶望に染まる夏臣の顔が見えた。彼がそう呟いた言葉の中には、悠の切り札たる呪文があっさりと敗れた事、母から明確な敵意を向けられている事、母が鵺に跨り恍惚の表情でソレを撫でている事に対しての嫌悪感などなど様々な心情が込められていた。
あっさりと防がれたとはいえ、操の術は無駄だった訳ではない。
四散した悠の札の紙切れは隠れ蓑となり、一門の精鋭たちが隙をついて鵺に近づくチャンスを生み出したからだ。
操が絆魂したという疑いがある以上、彼らに鵺退治はできない。ともすれば逃げ出すか、もしくは封印するしか取れる手段はない。そして相手が操であるなら逃げ出すという選択肢は考えるまでもなく消えてしまった。
この実力では操にも鵺にも敵わない事は全員が理解していた。けれどもこちらに分がある要素が一つある。
人数だ。
誰か一人でも成功すれば最悪の事態だけは避けられると全員が全力で多種多様な封印術を施した。これなら操の妨害も分散せざるを得なくなるので、妨げられたとしても他の誰かの術の成功率を上げることに貢献できる。
しかし。
「やめなさい!」
操は鋭く一喝した。それだけで若干名が竦みあがって術を途中放棄してしまった。操の怒声に堪えた連中もその様子に焦り、自分だけは成功させなければと変に力んでしまっている。おかげで操の妨害は容易く決まってしまった。
『人の口の得に寄りて腹を明け、その口唇の特によりて飽くべし』
これは術師同士が戦わなければならない時に使用される呪文であり、数分の間、術にかかった人間の声を奪いさる。封印術を施そうとしていた全員が喉から声を出すことができなくなり、水槽の中の金魚のように口をパクパクさせ言葉にならないうめき声を出すばかりになっている。
「お願い…追わないで」
辛うじて見せた母親らしい声音と表情で短く悠に告げる。
行かないで、という悠の言葉は操の術に阻まれ喉から出すことができない。代わりに出てくるのは嗚咽に似た潰れた声だけだった。
悠は無我夢中で鵺に向かって行った。無謀だと頭に過ぎる余裕もない程に切羽詰まっていた。声が出ずとも体が動くなら止められる。もうそんな短絡的な事しか考えられなかった。
その思考停止は反って幸運だったかもしれない。
母の錫杖で乱暴に薙ぎ払われ、まるでくだらないモノを見る眼を向けられた痛みとショックが入り込む隙間を埋めてくれていたのだから。
冷たいコンクリートに腹ばいになり、薄れ行く意識の中でも悠は最後まで手を伸ばした。
「誰か…助けて……」
術の効果が残った蚊の鳴くような声で、ほとんど生まれて初めてかも知れない弱音を吐いたが、それは誰の耳にも届かない。
そう、自分の耳にも届かなかった。
代わりとばかりに彼女の耳に入ってきたのは、母と引き離すためにMr.Facelessが正拳を鵺に叩き込む轟音だったのだ。




