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普段、夫という立場でしか彼女を知らない裕也は蛇に睨まれた蛙よろしく動けなくなり、立っているのがやっとという有様になっている。
「それを真っ先に悪事に利用しなかったあなたの人間性は素晴らしいと思います。しかしあなたは力の使い方を知りません。何が起こるか分からない力は恐怖以外の何物でもない」
「いや違う。僕は誰かのために…」
「ほら、今の言葉が真実ですよ」
「え?」
操はきっとした視線とそれと同じくらいに鋭く裕也の事を指差した。視線と人差し指は刃物と見紛うほどに冷たく刺さる。
「あなたの言う「誰か」というのは一体誰なんですか? 誰かの為、皆の為に、世の中の為にと言うのは簡単なんです。だってそこには誰も居ないんですもの。いない人のために働くなんて何の苦労もない。そもそも人間一人がそんな大勢の為に動く事などできはしない。あなたが自分を過信して己惚れている何よりの証です」
「そ…んなことは」
「では想像してみてください。誰かのためにと言った時にあなたは誰を思い浮かべたのですか? 誰かという人がいるんですか? それともあなたのような顔のないのっぺらぼうを助けたいとでも?」
「…」
「欲張って、賞賛を得たくてなりふり構わず大勢の相手をしてもそこには誰も居ないんです」
怒涛の勢いで襲い来る言詩を受け止めながら、裕也は必死に対抗する術を模索する。そして口から野球ボールを吐き出す様な苦痛と共に「だったら」という声を出した。
「だったらあなたは誰の為に…?」
「家族ですよ」
「っ」
躊躇いのなく即答する操の姿に、裕也は辛うじて自分を支えてくれていた何かが呆気なく折れてしまったのを感じた。先ほどまで夢想していた未来と元興寺との戦いは途端に羞恥の念が込み上げてきて、忌むべき過去になり果てている。
かつてないほどの喪失感が頭の中を支配する。叫び出したくなる衝動を抑えた自分を褒めてやりたいとすら思った。
「今日は忠告に伺いました。これ以上自分勝手に力を振るい妖怪退治を続けるというのであれば、私達はあなたを正式に敵と見なします」
操は「では」と短く別れを告げると、かけらも未練を残すことなく団地の広場を去って行った。月が雲に隠れると、微かに照らされていた裕也も自分の手すら見えぬ程の闇が蔓延した。
すると自然と足の力が抜け裕也はペタンっとその場に座り込んでしまった。それから空が白んでくるまでの間、呼吸をしているかどうかも定かでない程に微動だにしなかった。
アシクレイファ粘菌に覆われた下で、彼は一体どんな顔をしていたのだろうか。




