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この山は神邊家が主に山籠もりの修行のために管理している。場合によっては騒音が出たり、低級の妖怪を放して模擬的な妖怪退治などを行ったりしているため、周囲には民家や人の気配はない。
当然、メインの道路から離れると電灯も極端に少なくなり、月明かりだけではかなり心もとない。森の中とも言えば尚更だった。
しかし、今の裕也には闇夜の怖さはまるで感じられなかった。アシクレイファ粘菌は眼球機能にも作用しており、猫のようにさながら昼間と何ら変わらずに周囲の景色を視認できている。その事に妙に興奮を覚えた裕也は、頭の中に思い浮かんでくる様々な機能や能力を試したい衝動を抑えきれなくなっていた。
次に裕也はしゃがみ込んだかと思うと、垂直に跳躍した。まるで地球の引力に逆らうかのような感覚で、裕也はゆうに10メートルは飛び上がっていた。華麗に木の枝に着地した裕也は、そこから枝から枝へ飛び移りながら山の奥へと進んで行った。
無重力か、さもなくば自分の身体が羽にでもなってしまったかのように軽快で、頭の中で思い描いたアクロバティックな動きが全てそのまま実現できていた。
興奮が次の興奮を呼ぶ。これだけ山中を飛び回っているのに息は乱さなかったが、鼓動と息づかいは早まるばかりだった。
ところが裕也が調子に乗って移動していると、弱っている枝に気が付かずに飛び移ってしまった。枝は簡単に折れ、その時にバランスを崩した裕也は枝もろとも落下していった。その時、反射的に防御本能が働いた。無意識の内に全身の汗腺からアシクレイファ粘菌を体表に抽出させ、肉体をくまなくそれで覆っていたのだ。
落下の衝撃はほとんどが吸収されてしまい、10メートル以上の高さから落ちたというのに、平地で転んだ時ほどのダメージもなかった。
「痛ぅぅ」
と、大したダメージもないのに条件反射のように口ずさんだ。
だが、これは正しく怪我の功名というモノだった。
頭の中にはアシクレイファ粘菌の凄まじい衝撃吸収性能の他、耐熱耐寒性能や伸縮性能の情報が駆け巡っていた。すると裕也の中に一つの発想が生まれた。今は咄嗟に防御するため全身に粘菌を張り巡らせたのが、最初から覆った状態で動いていれば不意のアクシデントにも対応する必要すらなくなるのではないだろうか、と。
皮下に強力な粘菌があるとはいえ、皮膚自体は再生された裕也本人のソレだ。外傷を負ったなら再びナノマシンが再生してくれるとは言え、初めから傷がつかないのならそれに越したことはないはず。裕也はそう考えて四肢は勿論の事、顔面や頭皮に至るまで全ての外皮をアシクレイファ粘菌で覆ってみた。
真夜中の山林のど真ん中に、まるで全身タイツに服を着た様な、面妖な何かが立っていた。
鼻や口元は結合率を低くしてあるので、呼吸も出来る。体内にも相当量の粘菌が残っているので、運動性能が劇的に低下している事もなかった。むしろ体表に粘菌を現出させたことで、あのファストフード店での実験のように至る所に張り付いたり、離れたりが自在に行えるようになっていた。
そればかりか、やはり様々な感覚も人間の皮膚の感覚とは比べ物にならない程、鋭敏に感じ取ることができている。事実、アシクレイファ粘菌の影響で全ての神経は繋がっているのも同然なので、今の裕也は全身が目であり、鼻であり、耳であると言っても過言ではない状態なのだった。
360度のパノラマを肉眼で見て、それを脳が処理をしているのが、堪らなく不思議な感覚だった。それは他の五感にも同じことが言えた。
裕也はその感覚を最大限に楽しみつつ、再び枝から枝への散歩を始めていた。




