第一話 わくわくさん ─1─
少女は目覚める。
綿菓子のような桃色の空間。それそのものが天上の秘宝のであるかの如き七色の光が、眩く、それでいてどこか優しく彼女を包み込む暖かさを放つ、そんなとろりと甘い──そう、「世界」に、しかし僅かばかりの疑問すら持たず、目覚め時の朦朧とした意識の中で、少女はただ球上の末端を見つめていた。
思考する。「ここはどこだろう」。
こことはなんだ、どことはなんだ。
頭の中で響く、聞いた記憶すらない自分の声が、イメージとして紡がれる。
言語を知らない。自分という存在を意識すらしていない。
彼女は目覚めたばかりの赤子であり、この世界の新人“さん”であるのだから。
そんな、己の名も知らぬ、この世界において明確な異分子でありながら世界の一部として迎え入れられた、若く未熟な来訪者は、果たして、何を成し、何と成す──
☆
視界のおよそ全てが桃色から薄橙色、まるでそれだけで発光しているかのように輝く純白、そしてくっきりと際立つ漆黒に、いつの間にか侵食されていた。
目、肌、髪。
色彩の正体はそれらであって、いずれも持ち主と共にある。
「あなたは、どなた?」
透き通るようで、どこか弾んでいる。小鳥の囀りにしては少々音域が起伏に富みすぎていると言えた。
「私は──」
☆
「私は──」
おっと、言葉が出てこない。
今、“私”は何を喋ろうとしたのだろうか。
まず、“私”とはなんだ。
あれ、この問答、何度もした覚えがある。
「分からない」
分からないって、なんだ。
私は何もかも分からなくなった。
だから分からないってなんだ。
そうか、分からないってことが、分からないってことなんだ。
どういうことだ。
そうか、うん。
分からない、それでいいや。
なんでだ。
もういいんだ。
もういい。
うん、もういい。
……つまり、私は考えることをやめた。
☆
「私は、誰だろう」
「あなたは、迷子なの?」
「うーん。そうかもしれない」
「じゃあ、私がおうちに送ってあげる」
「……ほんと?」
「うん、えへへ」
「やった。ありがとさん。優しいね」
白髪の少女は、その迷子の言葉を耳にしたその時、口を開いたまま硬直した。情報を整理しよう。ぽかんとしてるのは、脳みそを使っているから。
チーン。とりあえず処理終わり。
「ありがとさん? それ、誰? どこにいるの?」
白髪は、おでこに指を揃えた右手、その人差し指の側面を垂直に密着させて、大袈裟で分かりやすく辺りを見回す。薄紅色の大気の中、人影なんてどこにもなくて、改めて身長差のある迷子を上目遣いに口を開けて眺めながら、首をかくりと傾げる。
「ありがとさんは、あなただよ」
「私、ありがとさんなんて名前じゃないよ」
「じゃあ、なんていうの?」
ポカーン。
チーン。
「わかんない」
「あ、私と一緒だ」
「ほんとだ!」
「えへへ」
「あはは」
少女は二人だけで、大層愉快に笑ったそうな。
迷子は続ける。
「ありがとさんっていうのはね、感謝された人のことを言うんだよ。ありがとうって言われる人のこと」
「そっか、それじゃあ私、ありがとさんだぁ」
「でも、ちょっと長いね」
「そうかな?」
「ありさんは?」
「ありさん? ……私、ありさん! わーい! ありさん! ありさん! 私、ありさん!」
「うふふ」
「あはは」
二人は、この上なく楽しそうに笑ったらしい。
白髪は続ける。
「じゃあ、あなたは?」
「私……迷子だから、迷子?」
「迷子さん!」
「あ、そっか、迷子さん! 私は迷子さん。あなたはありさん!」
「きゃはは」
「にゅふふ」
二人、変な声を出しけり。