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キャンガンの星  作者: 足立 和哉
9/12

九 丘は千里かなたこなた六甲生駒

 (1)

平成十二年七月十五日に大阪府池田市に出向き貝塚元軍曹に対して父の無念を晴らして以来、長太郎は東京へ長期出張に出かけていた。

その出張中の出来事であった。ある日、長太郎がJRの山手線の電車に乗っている時、どこの町かは分からなかったが車窓から「真現教東京支部」という看板が眼に飛び込んできた。真山については全く手がかりが無かった。試しに電話帳を見ても真山嘉平という名前は出てこなかった。しかし車窓から見た真現教の三文字が、父勇太郎の日記の昭和三十三年の記事にあった「真現教の宗主真田現奘が真山に似ている」という記載を思い起こさせた。

真現教宗主の真田現奘と真山嘉平元中尉は父が調べて既に別人であるとの結論に達していたが、真山に関するてがかりが一切ない以上、もう一度自分なりに調べてみる価値がありそうだった。根拠は何も無かったが父の遺志を既に一つ実現している以上手がかりになりそうな物にはなんでも食いついていこうという気持ちになっていた。

真現教といえば、長太郎が岐阜で工員をしていた若い時に信徒の娘の操を強引に奪った時の記憶が三十数年という歳月を経ながらも鮮やかに思い起こされた。何も言わず、何の訴えもせずに彼女は小さく念仏を唱えながら去って行った。既に彼女の名前も忘れてしまった長太郎だったが、夕暮れの暑い部屋の中の布団の上で横たわる彼女の日に焼けた顔とは対照的な白い官能的な全裸姿を思い出していた。


(2)

八月十五日。長期の出張を終え大阪に帰ってから長太郎は吹田市にある真現教本部会館を尋ねた。本部会館には旧館と新館があった。広大な敷地の周囲は高い塀で囲まれていた。さらに樹木が塀の周囲を囲み外から中を窺うことはできない。正面門は開放されており長太郎は躊躇せず中に入った。目の前にある旧館は真現教の本部をこの地に置いて以来の木造建ての建物でかなり老朽化していた。最近新築したばかりの新館は旧館の横手にあり旧館の二回りほど大きな鉄筋建築物で、その正面玄関の前では噴水が暑い盛りの青空に向かって勢いよく水を噴き上げていた。

通常の宗教活動は専ら新館の中で行われており、旧館の方は真現教の記念館として使用されていた。お盆の最中であったが、旧館の一部は一般の人にも開放されてお布施と言う名の入場料を払えば真現教の生い立ちや教え等をパネル展示や写真展示にして紹介している大広間にも入れた。

長太郎はその展示室に入った。中は外の夏の暑さとは対照的に冷房が効いて涼しかった。感心した声をあげて写真に見入っている二人連れの中年女性客がいた。熱心な真現教信徒なのであろう。その他には部屋の隅で新しいパネルを展示するための作業をしている男性職員がいるだけで閑散としていた。

しかし古い木造建てという雰囲気もあり全体として粛々とした荘厳さが保たれていた。展示室を見回りながら長太郎は自分が知る少年時代の頃の真現教から見ると格段の進歩、発展を遂げているのを感じ取った。展示室に入って正面にある壁の上には真現教の念仏文字の大きなパネルが掲示されていた。「イソホーン・ナグナイック(IsoHon-NagNaik)」とカタカナと共に外国人向けにアルファベット付きで掲示されていた。長太郎が若い頃に出逢った真現教の少女も情事が終わった後に盛んにその念仏を唱えていたのをほろ苦い気持ちで思い出した。季節も丁度この頃だった。

展示室の説明文を読んでみても念仏の言葉自体には意味はなさそうだった。太平洋戦争の最中、宗主真山現奘がフィリピン出征中に突如として啓示を受けた言葉らしい。

長太郎が真現教の存在を初めて知ってから三十数年間にもなるが、その間もこの新興宗教は細々と、しかし着実に実績を積み上げ大きくなってきたのだと思うと長太郎は時の流れの重みを改めて感じずにはいられなかった。

真現教の沿革紹介のパネルによると現奘は既に現役を引退し大宗主として名誉職にあった。八十歳を迎える今も矍鑠としており、芦屋の豪邸に数人の家族と共に暮らしているようだ。現在はその息子である三十六歳の真田勢奘が若き二代目宗主となっていた。展示室にあるショーケースの中には現奘直筆の経典などが所狭しと並べられていた。

太平洋戦争での体験が彼の意識や生き様を大きく変化させた様子は経典に書かれている内容の変化からも明らかであった。戦前の経典は「真現教妙蓮歌」と言い、戦後の経典は「真現教南方赫雨」と呼び区別されていた。地方の限局された新興宗教からいわば全国区的な宗教団体にまで押し上げたパワーが戦後に彼が書いた「南方赫雨」からは伝わってくるという。

さらにショーケースの中には現奘が若き頃より所持していた物品や小物までが並べられていた。時代を感じさせる万年筆、つるの曲がった眼鏡、ひび割れた手鏡、表紙の無い手帳、米の配給票、雑嚢、錆付いた鍵、果てはそれらを入れたショーケースに並べて古い和箪笥まで置いてあった。

これまで見たかぎり真山嘉平元中尉が真田現奘であるという仮説を裏付ける証拠は何も無く、父勇太郎が思い過ごしだと判断した結論が正しかった事実を証明するに過ぎなかった。

長太郎が展示物を一通り見終わった頃に、資料室の案内役の女性が二、三人の客を連れて館内に入ってきた。見ていただけでは分からない真現教内部の事情や現奘の実像が分かるかもしれないと思い、長太郎はその一行の傍に寄り、案内役の説明を一緒に聞こうとした。案内役の女性は肥満体で右足が少し不自由そうであったが涼やかな歯切れの良い言葉で、丁寧に現奘大宗主の功績を称えながら生い立ちなどを説明していた。

長太郎は三十数年もの歳月を経ていたがその案内役の女性が若い頃に交わった女性ではないかと思い始めた。体型こそ全体に脂肪が付いてしまい若い頃の面影はなかったが、顔に特徴を見出したのである。彼女の額の真ん中にあるホクロは少年時代に見たホクロと同じだった。そしてその女性が胸に付けている名札には「展示館館長 遠藤園子」とあった。確かそのような名前だったかもしれないと長太郎は思った。

遠藤園子が説明の終わった客達を送り出した後、長太郎は「少しお話を聞きたいのですが」と園子に声をかけた。

「ずっと熱心に見ておられたので、ご信徒さんかと思いました」園子はにこやかな表情で長太郎を見つめた。園子は相手の顔を見ただけで真現教の信徒かどうかが分かるらしい。

「若い頃、一度お会いしたような気がするのですが、どうでしょうか?」長太郎は率直に聞いてみた。

1日だけの出会いだったが、お互いの顔はしっかり見ていたはずだった。強烈な印象として彼女の記憶の中に長太郎が残っていれば、自分が思い出したように彼女も思い出してくれてもおかしくはなかった。

しばらく園子は長太郎を凝視した後「覚えています」と静かに答えた。

「高校生の頃でした。私が消悦帰依の修行をしていた頃にお会いしましたわね。私にとってはほろ苦い思い出です。真現教のご信徒さん以外の男性と初めて修行をしたのがあなただったですから。あの時、あなたを入信させられなかったことが返す返すも残念でたまりませんでした」園子は淡々と話した。

消悦帰依の修行とは自らの体を男性に捧げることによって自分の存在を無くし性的快楽を消滅させて、あらゆる欲に捉われない自己を確立するための修行という。当時の真現教の中ではある条件を備えた女性だけに許された特殊な修行であったらしいが、二十数年前からその修行は真現教内部でも禁じられているという。禁欲的生活を余儀なくされた一部男性信徒の態の良い性のはけ口の手段になっていたような気がして長太郎は眉を曇らせた。そして園子の表情と話し方から長太郎との出来事は彼女にとっては男女間の汚点というよりも自分の真現教への帰依に対する最大の汚点と感じているようであった。


(3)

「今日はどうしてここへ来られたのですか?入信なさりに来られたのですか?」長太郎の心を知ってか知らずか園子は少し皮肉っぽい表情で尋ねた。

「どうしてかな。私にも分からない。何となくあなたに会えそうな予感がしたからかな」長太郎にしては珍しく軽口を言った。

 園子は静かに笑みを浮かべた。

「相変わらず宗教には興味が無さそうですわね。いい事を教えましょうか?二代目宗主は実は私が産んだ子なんですよ」園子は二代目宗主勢奘の写真パネルを見ながら言った。

「彼は今三十六歳です」園子は長太郎を見つめ直して少しいたずらっぽい笑みが浮かべながら付け加えた。

「あなたと大宗主では随分年齢が離れているようですが、ひょっとして大宗主の子供では無いのですか?」長太郎は園子と現奘との歳の差を考えて不思議に思い聞いた。

「自分の血筋には拘られない方なのです。確かに当時の私は大宗主様にも修行して頂きましたが、その他に何人もの男性と修行をいたしました。大宗主様自らが選ばれた子であれば誰の子かは関係ないのです。宗主に選ばれた以上、自分が産んだ子でありながら私は母親とは名乗れず、こうして離れた場所で生活をしているのです」

遠藤園子の真現教における立場は幹部信徒だったが、母親と名乗れない以上、現在より高い地位は望めないのであろう。真現教における女性信徒の立場がどのようなものであるのかを長太郎は知らなかったが、恐らく今まで誰にも話していないような自分と現宗主の関係を長太郎に話すことで園子は何かしらのメッセージを伝えたいのだろうかと長太郎は考えた。

「まさか私の」と言って長太郎は園子を見つめ直して絶句した。園子と関係を持った日と現宗主の年齢を考えるとあり得ない話ではなかった。

「いえ、大宗主様は私の命です。私は今でもそう信じています」と静かに園子は長太郎の考えを否定した。自分の言い過ぎた言動に少し後悔をしているような表情にも見えた。

 彼女の言う通り現奘の子供であれば、園子は現在の真現教にとって聖母と敬われて然るべき女性である。そうさせないのはやはり現奘と血のつながった子供では無いからだろうと長太郎は思った。

その時、記念館の入り口に新たな客が入って来た。

「ごゆっくりご覧ください」園子はそう言うと足早に展示室の入り口に向かった。

長太郎は改めて現宗主の真田勢奘の写真パネルを見た。今度は自分に似ている所があるか確かめながら見た。自分に似ているようでもあり、似ていないようでもあり判然としなかった。園子自身でさえも自らが行っきた消悦帰依の修行のために、勢奘の父親が果たして誰なのかは分からないのだと思った。

名状しがたい不思議な思いが重く長太郎の頭の中を支配し始めてきていた。何かが弾けて一気に真相が分かりそうなそんな不思議な気分であった。

そして、展示室を出る時に左回りに振り返りながら天井近くに掲げてある「イソホーン・ナグナイック」の大きなパネルを再び見た時、長太郎はついに真田現奘が真山嘉平だと確信した。その確信はさながら一条の光と共に突如として長太郎の頭の中に飛び込んでくるが如きであった。


 その年の十月に上泉長太郎は真田現奘こと真山嘉平に対して、父勇太郎の遺志を継いで遂に復讐を果たすことができた。父勇太郎が復讐を決意してから実に五十四年という歳月が過ぎていた。そして半年後の翌平成十三年四月に長太郎は二件の殺人容疑で兵庫県警により逮捕された。


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