八 北摂の空 雲は白く風もさわやか
(1)
昭和五十年一月で上泉勇太郎の復讐に関する十一冊の日記は終わっていた。それは長太郎が二十七歳になる年に当り、日光電子機器に勤めて出して間もない頃だった。ある時は克明に細部に至るまでを記録し、ある時は簡潔な文章で終わっていた。父勇太郎が生きてきたそれぞれの時代での心のゆとりの有り無しが記述方法に違いを持たせていた。途中の二十年間の徒労の期間も長太郎の心にむなしく映った。最後の日記帳にはまだかなりの空白のページが残されていた。
長太郎は父の日記を読み終わり、自分が父に愛されていなかった事実を改めて知る。と同時に自分の父は最初に結婚した女性の復讐のために人生を費やしていたのだと強く感じた。日記の中では最初に結婚した女性聡子を妻と書き、長太郎の母美佐子を決して妻とは書いていない父であった。
父の運命の歯車を狂わせたのは狂気とも言える戦争そのものだった。しかし、その時代にあって直接、父の運命を狂わせたのはフィリピンの山中での四人の日本兵との出会いだった。その父の運命を狂わせた原因はすなわち長太郎の人生に影響を与えた原因でもあった。
長太郎は今や分別盛りの五十二歳となっていた。二十代から仕事一筋に駆けてきた半生を送り、今では会社の中でも重要な位置に就いている長太郎だった。しかし反面彼の心の中にはいつも満たされない空虚な部分が存在していた。それが味わった事の無い家族愛という物なのかどうかは今となっては分からなかった。幾度となく長太郎は父勇太郎の日記を抜粋しながら読み返してみた。
やがて長太郎の心の奥に封印していた遠い昔の幼い頃から少年期にかけて自分が感じた屈辱的な思いが入れ代わり立ち代り湧き出してきた。それは父や母が居なかったために生じた惨めな思いでもあった。父の居ない原因は父の復讐相手の存在であった。母の居ない原因も復讐相手を持った父の存在だった。長太郎はこの因果関係に何度も繰り返し思いを馳せた。やがてほとんど話をした覚えも無い父勇太郎の遺志を継ごうという思いに至ったのである。
しかし単に思いついただけで殺人という行為を引き起こすまで自分に憎しみが持てるかどうか疑問であり考えれば考えるほど憂鬱になった。父が彼杵重太郎に対しておこなった活かさず殺さずという手段も考えたが結論は中々だせないでいた。
父の日記の内容を信じる限り平成十二年現在で貝塚は生きているとして七十六歳になるはずだった。真山の情報は全くないが八十歳を越している可能性がある。二人とも高齢のため既に天寿を全うしているかもしれなかった。時間はそう残されてはいないはずだった。時間が限られているという事実を長太郎は初めて思い知らされた。そして父の遺志を継ぐなら今しかないと長太郎と決意した。
残された時間がもう僅かしか無いという切羽詰った状況で選ぶ判断にはその人がもつ潜在的な思いが露呈されてきやすい。その潜在的な思いはその人が経験してきた人生そのものに由来するものであろう。その判断が導く結果は改善、不変、改悪の三つのいずれかをもたらすはずである。この時、長太郎は不幸にして犯罪という改悪の選択肢を選んだ。単なる空想的な思いが遂に現実のものとなって長太郎を具体的な行動に駆り立て始めたのである。
長太郎も勇太郎と同じく一人身の気軽さもあり土曜、日曜を利用して調査を開始した。父の記録から見ても関西の闇金融業界に君臨していたという貝塚信元の手がかりが一番ありそうであった。
(2)
貝塚の居場所は予想していた通り早めに特定できた。長太郎は金融業界の知り合いを通じて知り得るだけの貝塚の周辺情報と現在の住所を知ることが出来たのである。貝塚の過去の悪行が皮肉にも長太郎に有利に働いたと言えるだろう。
ある日、長太郎は野田隆夫という男が経営するローン会社の事務所に寄った。
「貝塚のことはあまり思い出したくないねえ」過去の金融業界の裏事情に詳しいという野田が開口一番に言った。年齢は六十代半ばという印象の白髪の男である。
「貝塚は四十を越した辺りからめきめきと頭角を現わし出してきた男やね。それまでは兵庫県の尼崎で細々と金貸し業をやっていたちんけな男やったが、一緒に組んだ藪坂という男が良きにつけ悪しきにつけ、どんどんと仕事が舞い込みだしてね。と言ってもあくどい金儲けだっせ」と言ってから野田は「ヘヘヘ」と下品な笑い方をした。
長太郎は話を続けるようにと黙って目で野田を促した。
「やがて関西の闇金融業界で頂点を極めるような所まで行ったわけや。しかし、あんた、例のバブルの崩壊のあおりをまともに受けたと思ってえや。すると不動産関係に過剰な投資をしていたのがほとんど駄目になって莫大な負債を抱えるようになったわけや。ほんで自己破産に追い込まれよったんや。それでも何度か復活を試みていたみたいやったが、そのうち藪坂は死んでしもうておらんかったせいか全くうまく行かずですわ」と言いながら野田は煙草を一本取り出した。
長太郎は野田が煙草に火をつけるのを見ながら、野田が口にした『あくどい金儲けだっせ』という言葉で自分の記憶の中にあった貝塚を思い出していた。
長太郎が十代の頃、岐阜から尼崎に移って間もなくの頃だった。貝塚というのは同僚の男が騒動に巻き込まれた時に長太郎を助けてくれた女の夫だった。あの女は確かに「夫はあくどい金貸しだ」と言っていた。思えばあの時は貝塚が自分の全盛期を迎える直前だったわけだ。長太郎は不思議な運命の巡り合わせを感じずにはいられなかった。復讐の対象となる相手に偶然にも若い頃に一度会っていたのだ。しかし遠い昔一度だけ会ったサングラス姿の男というだけで詳しい顔を覚えているわけではなかった。
「わしも奴にはひどい目にあったが、その後はわしが気の毒になるくらいに悲惨な状態になりましたな。結局、藪坂がおらへんと彼一人の実力では全然大した仕事はできんかったいう訳ですわ。おまけに若い頃からの不摂生が祟って、血圧は高くなるわ、心臓の発作も出るやら、さらにリウマチに冒されて足も不自由になってまともに歩けない状態になっている噂やね。まあ年も年やから仕方ないわな」煙草の煙を吐きながら野田は話を続けた。
「今じゃ、生活保護を受けて大阪の池田市の古い長屋に一人で暮らしているそうや」
「その詳しい住所は分かるかな?」それまで黙って聞いていた長太郎が突然聞いた。
「もちろんや」野田は携帯電話を取り出すとどこかに連絡を取り、そして相手の言う住所をメモに書き取った。野田はその住所を書いたメモ用紙を長太郎に渡した。
長太郎はメモを受け取り胸ポケットにしまいこんだ。そして野田に厚みのある茶封筒を渡した。野田はその封筒の中身を確認してから驚きの声をあげた。
「こんなに!どうしてや?」
「あんたへの投資だ」長太郎は険しい顔をして答えると『訳が分からない』という表情をした野田の事務所を足早に立ち去るのだった。
(3)
平成十二年七月十五日。梅雨明けが待ち遠しい蒸し暑い七月の夕暮れだった。長太郎は野球帽を目深に被り、阪急電車の池田駅に降りた。阪急電車沿線を川西市に向かって十分ほど歩いた所に古い住宅街が時代に取り残されたように数件残っていた。
両側に古い木造二階建ての長屋がある狭い小路を長太郎は歩いていた。太平洋戦争が始まった頃には既にその長屋はあったというから築六十年は経っているはずだった。玄関先のかろうじて確保された地面に盛りを過ぎた紫陽花の木が植わっている家の前で長太郎は立ち止まった。
「ここかな」長太郎はつぶやいた。
表札らしき物も無い玄関の脇にある前世代的な変色した白いブザーのボタンを押した。単調なブザー音が家の中に鳴り響いていた。