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キャンガンの星  作者: 足立 和哉
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七 決戦かがやく亜細亜の曙命惜しまぬ若櫻

父勇太郎が残した日記で長太郎が特に興味を示した部分をテーマ別に整理してみると次のようになった。


昭和二十二年を直前に迎えた今夜から日記をつける決意をした。ここ十年の間の様々な思い出が去来する中で、私のこれからの人生への決意表明のようなものとして残して行きたいと思う。昭和二十一年十二月三十一日火曜日(上泉勇太郎記)

【ルソン島敗走の件】    

昭和十六年十二月八日より始まった大東亜戦争は日本の敗北を以って終了した。永い戦争生活に国民は疲労し国土は相次ぐ空襲に依り焦土と化した。

私は戦前よりフィリピンに渡り、ルソン島のマニラ近郊で旅館を経営していた。フィリピンを第二の満州国化しようとする大日本帝国の政策に便乗して、一旗上げようと私は妻聡子と共に日本からマニラに移住していた。

フィリピンに商売に来る日本人達の宿となったり、日本軍の会議場やパーティ会場として利用されたりして私の経営する旅館は繁盛していた。当時は義父の反対を押し切って妻と二人してはるばるフィリピンまで来た甲斐があったと喜んだものだった。しかし大東亜戦争が始まるに至り次第に状況が悪くなった。

昭和十九年の秋頃からマニラへの米軍による空爆が激しくなり始めたので、私は旅館や土地を手放し、妻と二人で取りあえずの荷物だけを持って日本軍と共にルソン島北部の山岳地帯への敗走を余儀なくされた。我々民間人にとってそれは辛酸を舐めるような状況だった。ルソン島北部のバガバツクに着いた頃には同行した何人かの民間人は飢えやマラリアが原因で死亡していた。

敗走は長期化して生き残った私達夫婦にしても僅かな手荷物だけになり、やがて着替えも無くなり着の身着のままの状態になった。すでに6月の雨季になり蒸し暑く泥にまみれた生活を強いられていた。食べられそうな葉や根は何でも口に入れた。そして米軍の追及はますます厳しくなり、更なる山奥への退避を余儀なくされた。熱帯雨林のジャングルの中にかろうじて見える細い獣道を周りの草木をかき分けながら、日本兵の先導のもとでただ黙々と歩き続けた。その日本兵とて銃は持っていても弾はないような状態だった。敵が襲ってきても銃剣か日本刀での勝負にかけるしかなかった。

私は妻聡子の手を引っ張りながら懸命に歩き続けた。途中、乳飲み子を抱いた婦人がやせ細った乳を赤ん坊に含ませながら死んでいる姿に遭遇した。乳飲み子は弱いながらもまだ息はしていたようだが、我々にはどうすることもできなかった。成仏してくれよと心で祈るしかなかったのだ。

所々に切り開かれた道の脇には鼻を突く異臭を放つ日本兵や民間人の死体が何体も転がっていた。蛆が体中を這いずり回っておりとても正視できたものではなかった。その頃私はマラリアにかかり、多少脳も冒されていたようで、正常な思考能力も無かったと思う。

そんなある日の出来事だった。それは朝から雨が降る日だった。遠くから砲弾の炸裂する音がしていた。妻と共に私は粗末な小屋の中に居た。どうしてそこまで辿りついたかはまるで覚えがない。おそらくキャンガンの近くの山中だと思われた。四人の日本兵が小屋の中にあった兵隊の死体を外の草むらに運んで行くのは覚えていた。その後で彼らが私達を手招きしてその小屋に入れてくれたのだ。その小屋では雨をしのぐことができたので、体力を消耗した私達夫婦にとっては一時の安らぎの場であった。

私達を招き入れた四人の日本兵は私がマニラで経営していた旅館を何度か利用していた兵隊で顔見知りだったのも心強かった。真山嘉平中尉、貝塚信元軍曹、後の二名は二等兵らしいが苗字しか分からなかった。村山、彼杵という名前だった。妻は三十五歳という女盛りであったが、その時は見る影も無く栄養失調でやせ細り着衣もぼろぼろになり息も絶え絶えに横たわっていた。女という性は既に妻には無いと言ってよかった。私達は疲れきって夜を迎えた。

明け方であった。私はマラリアの高熱に浮かされていたが、体が引きずられているのが分かった。村山、彼杵の両名が私を小屋の隅に移動させていたのだ。私は身動きがとれなかった。しかし真山中尉と貝塚軍曹が横たわっている妻に覆いかぶさっているのがうっすらと見えた。妻は弱々しく抵抗をしていたが、さらに村山、彼杵の二名が加わった四名の男手にかかってはもう抵抗する術も無かった。服を引き裂く音が小屋に響き、妻の弱い悲鳴が聞こえてきた。ごそごそと蠢く音がひとしきり続いた。真山が離れると貝塚が覆いかぶさり、そして村山が・・・私の記憶はそこで途絶えてしまった。熱に浮かされた状態で私は意識を失った。

いつまで眠ったのだろうか、私は近くに落ちる迫撃砲弾の音で目を覚ました。熱は一時的に下がっているらしかった。太陽は中天にあり真夏の熱帯の熱い日差しが小屋に差し込んでいた。小屋の中に四人の日本兵の姿は既に居なかった。

私は妻が横たわっている所まで這って行った。「聡子」と呼びかけたが妻の息は既に絶えていた。妻の服はただでさえぼろぼろになっていたが、それさえも引き千切られており、それらが妻の裸体の上に申し訳ない程度に被せてあった。女としての風貌は既に無かった妻をあの男達が蹂躙した事実が私には信じられなかった。極限下の状態にあっても男の性欲は留まる所を知らないのだろうか。私には理解できなかった。

迫撃砲の音がさらに激しくなってきた。私は妻を小屋に残したまま、無念のうちに他の敗走してくる日本兵らと一緒に更に山の奥へと移動せざるを得なくなった。敗走途中の山道で私は掌に納まる位の小さな木像の観音像を拾った。敗走する日本兵の誰かが落としていったのかもしれなかった。私はその観音像の顔に妻聡子の面影を見出した。妻を一人山小屋に残したまま敗走せざるを得ない状況に私は罪の深さを感じ、その観音像を妻の化身として大切に保管することにした。

そして八月に入り、私は山の奥で終戦を迎えた。私の周りで生き残っている民間人はごく僅かであった。私は幸いにして生き延びられた。無念のうちに死んだ妻聡子が私を守ってくれたのだと思う。三ヶ月半ほどの抑留生活の後、私に日本へ帰国する順番がきた。そして昭和二十年十二月初頭に私は浦賀港において帰国を果たした。

戦前一財を投げ打ってフィリピンに渡ったのであるから日本に私の財産は無かった。しかし生きて行くための当面の働き口を探さねばならなかった。戦前公私にわたり世話になっていた兵庫県県会議員小栗勝利先生は、この大戦の最中空襲に遭い亡くなられていた。妻の実家は丹波の笹山にあったが、義父野村菊太郎氏とは折り合いが元々悪く、ましてや彼の反対を押し切って妻と共に日本を出た私と今更会ってもうまく行くはずがなかった。かつての関西地方のつてを頼る訳にも行かなくなっていた。

幸いにして私の実家は岐阜県の山あいの町で造り酒屋をしており、弟一家がその酒屋を継いでいた。半年間ほどそこに居候同然の形で暮らし、岐阜の町の方へ出ては職探しに明け暮れていた。そのうちに岐阜市内にある配送業者に就職が出来て、弟一家の元を出て市内の古い木造建ての平屋長屋に暮らすようになった。全くのゼロからの出直しであった。

妻を殺した四人の日本兵の名前と所属部隊名はしっかりと記録にとどめていた。彼らにはいつか復讐を果たしてやろう思い始めたのは就職も決まったこの頃からだ。自分自身の身の振り方に一応の決着が付いた途端に、愛する妻を蹂躙して死に至らしめた彼らに対しての憎しみが沸き上がってくるのを押さえ切れなかった。この日記は妻聡子を殺害した四人の元日本兵への復讐日記でもあるのだ。


【再婚の件】

昭和二十二年十月。

不本意ながら東光寺智彦氏の策略に乗せられる形で彼の長女美佐子と再婚する仕儀となった。岐阜で就職した配送業会社岐阜配送運輸では自慢ではないが、私の営業成績は優秀であった。やがて私は岐阜配送運輸から独立して自分の会社を設立し関西方面に戻ろうという意欲をもった。取引先の会社の社長で私に協力してくれる者が出来て彼の資金援助や銀行からの貸付も得て私は岐阜配送運輸から独立して自前の配送業を営むことに成功した。その事業は順調であった。そして私は営業範囲を中京地区からさらに関西方面へ拡張する計画を具体的に図り始めたのである。関西はかつて妻聡子と暮らした地でもあった。

私の事業が関西へ進出し軌道に乗せるためにも、当時、関西の経済界で実力者であった東光寺智彦氏の後押しは是非とも必要であった。何度か関西へ行き、やがて知人を通じて智彦氏と接触を図ることに成功した。一方智彦氏自身も仕事上の岐路に立たされている事実も知った。結果的に彼も私の事業の将来性に頼る部分が大いにあったのだ。私の将来性と彼の地元での信頼性が融合すると大きな力となる。それは私にとっても彼にとっても価値のある連携であった。

 しかし智彦氏は私との連携を実現させるために自分の娘を私と結婚させるという手段に出てきた。彼としては私という存在、つまりこれから発展するであろう自動車産業を利用した配送産業を確保すべく、かなり強引な手段に打ってでたのだ。彼との連携に婚姻という手段は決して私が望んだ形では無かったが、それを受けなければ智彦氏との連携ができない状態でもあった。その意味では智彦氏は海千山千のしたたかさを持っていた。関西人特有の商売強さを持っていたと言える。東光寺智彦氏の娘との婚姻を受けることは私にとっても苦肉の策だった。美佐子との婚姻は智彦氏自身の業界生残りと私の関西進出の足場作りという打算の産物に過ぎなかったのだ。

 私の妻は生涯、聡子一人である。聡子の復讐を果たすためにも経済的基盤がどうしても必要だった。そう美佐子との婚姻は単なる政略結婚に過ぎないのだ。


昭和二十五年十一月。

 美佐子と結婚してから長男長太郎と次男純司が相次いで生まれた。妻聡子との間には子供は出来なかった。環境が悪かったのか、元々聡子が子供を産める体で無かったのかは今となっては分からない。単なる政略結婚のはずの美佐子との間に二人も子供を成してしまった結果については聡子に大変申し訳ない気持ちだ。

 聡子との間に子供が生まれていれば私の人生も違う方向へ行ったはずだ。しかし、たとえ子供が生まれていたとしてもあのフィリピンの戦火の中では無念の死を遂げていたに違いない。何人もの邦人の子供の屍骸が敗走途中の道端に放置されているのを私は見ていた。生死の関頭にあったあの時代では子供はいないほうが寧ろ幸せだったのかもしれない。

 私は自分の仕事と四名の旧日本兵探しのためほとんど家には帰らず、各地を飛び回っている状態だ。子供にはほとんど会う時間が無く愛情も感じられないままでいる。

おまけに次男純司が生まれて半年経った頃から美佐子の私に対する態度がおかしくなってきた。どうも外に男ができたようだった。

 ある日の昼、当然家に美佐子と子供らがいると思って昼間家に立ち寄ると三人ともいない時があった。後で問い質すと尼崎の実家に遊びに行っていたと言う。その時は納得していたが、その後、義母がうっかり「美佐子は何度も子供らを私に預けて外出している」という話を私に漏らした。

義母の話から類推するとどうやら私と結婚する前に付き合っていた男と会っているらしかった。その男も美佐子を忘れられ難く未だに結婚していないらしい。美佐子も三十三歳で女盛りには違いない。私との夜の生活も無い今、自分の欲求を満たしてくれる男が出来ても不思議ではない。好きにさせておこうと思う。


【村山憲一の件】

昭和二十九年七月。

 昨年から今年にかけて村山と彼杵の両名を発見した。結果論だが彼らは意外と私の近くに居た。私は主に中京地方と関西地方を行ったり来たりする仕事であったが、村山を名古屋で、彼杵を大阪でそれぞれ見つけることが出来た。戦時中フィリピンで会った時の顔とは別人のようになっていて一瞬それとは分からなかった。村山は三十六歳、彼杵は三十九歳になっていた。

 村山は元々銀行員であったらしく復員してからは元の銀行に復帰して働いていた。ある日、名古屋市内の酒屋で彼は一人で飲んでいた。不摂生が続いているのか肥満した体をもてあます様に椅子に腰掛けていた。私は彼の横に席をとり飲み始め、いつしか彼と話をし始めていた。三十六歳にもなってまだ結婚できないでいるという話で両親が色々と結婚を勧めるのだが踏ん切りがつかないでいるのだという。そのうち戦争時代の話になる。私の正体についてはまるで分かっていないようであった。しかしフィリピンのルソン島に同じ時期にいたという事実が分かった段階で彼は私に心を開かせていった。

 私はマニラで旅館を経営していた事実は伏せて、貿易商社に勤めて主にサトウキビ等の食料品関係の売買の仕事をしていたとだけ伝えた。そして、一方的に私と意気投合した彼は私をなじみのバーへ連れて行った。独身だけあって、夜の遊び場はよく知っているようだった。

バー「ナルシス」には三十歳そこそこのマダムと呼ばれる女性がいた。

「あら、ケンちゃん珍しい。今日は二人連れ?」と彼女は我々を迎え入れた。

 ケンちゃんとは村山の名前憲一から来ているこの店での愛称であった。いつも一人きりで来るらしく、マダムは私のことを村山の先輩か、上司か、取引先の相手かと盛んに気にしていた。村山は彼女のリップサービスに単純に喜び、卑猥な冗談も彼女と交わしていた。

 どのような話の流れでそうなったかは今となっては覚えていないが、フィリピンのマニラに駐屯していた時代に知り合った夫婦が持っていた鍵を手に入れたという話を村山がし始めた。

 その夫婦の妻の実家が資産家で、実家に置いてある金庫の鍵だというのである。その妻は鍵を色とりどりの星をちりばめたペンダントの中の空間に入れて肌身離さず持っていた。やがて日本軍の敗色が濃厚になりルソン島北部へと敗走を余儀なくされるようになったある日、山中にある小屋の中でその夫婦二人連れが死んでいたのに偶然遭遇したという。

 彼らはもし幸いにして日本に帰国できた時の助けになるかもしれないと話し合い、妻が身に着けていた星柄ペンダントを拝借した。マニラ時代の彼らの仲間内では、資産家の親が一人娘であるその妻のため実家に娘用の金庫を設置し、その中に相当額の金を保管しているという噂があった。

村山達はその星柄ペンダントの中にある鍵を入手した地名キャンガンにちなんで「キャンガンの星」と呼ぶことに決めた。戦況次第で死ぬかも知れぬ運命だが、運良く日本に帰ることができたら、四人でその財産を奪って一事業でもやろうと夢を語るのが唯一の生き抜く糧になっていた。そして一番位の高い真山中尉がそのペンダントを所持する役を担った。

 その後、四人はルソン島北部の山中で終戦を迎えた。米軍の収容所に入らねばならなくなった。収容所に入る際に全裸になって身体検査を受けるのだが、星柄ペンダントの発覚を恐れた真山中尉はペンダントの中の鍵を取り出して自分の軍服の中のわずかなすき間に埋め込んだ。なんとか鍵の存在は知られず、四人だけの秘密は維持された。復員時期は四人ともバラバラだった。将校の真山が一番遅れて復員する事になったらしい。

 最初の復員は村山だった。別れに際して彼らは約一年後にあたる昭和二十二年十二月の第一日曜日の正午丁度に東京上野駅の中央改札口で落ち合おうと約束して、離れ離れになった。しかし誰かが抜け駆けで金を手に入れてしまう恐れはあった。それを防ぐために四人は互いの日本での住所やその死んだ夫婦の妻の実家先を確認しあって別れたのだという。

 村山はフィリピンでの口約束を忘れないでいた。そして約束の昭和二十二年十二月七日正午に東京駅の改札口にいた。そこで待っていたのは貝塚元軍曹と彼杵元二等兵の二人だった。村山自身は元の銀行員に戻っており、彼杵も元々左官屋であったのでその職に就いたが、貝塚の生活は苦しそうであった。闇市の仲介人のような仕事で日々の暮らしを送っていたらしい。しかし鍵を持っているはずの真山だけは約束の時間を過ぎても来なかった。

 さらに二時間近く待ったが真山は現れなかった。村山も彼杵も既に自分の仕事を持ち、それなりに安定した生活を送り始めていたので真山が来なかったことに対してはそれ以上追求しようという思いもなかったという。ただ、貝塚だけは山中で死んでいた妻の資産に異常に固執し、今から真山の実家に乗り込もうと二人を誘ったが、村山と彼杵の両名は結局貝塚には同行せずに東京駅で別れ、その後数年経ったが四人が揃って会うことは無かったという。真山の実家が原子爆弾の直撃を受けた広島だった事実も二人の決意を鈍らせていた。

 村山は小屋の中で死んでいる夫婦連れからペンダントを拝借したような言い方をしたが、それは明らかに詭弁であり生きている妻から奪い取ったものだ。しかし、私は村山から妻のペンダントの話を聞くまですっかりその金庫の存在を忘れていた。確かに妻の実家にある金庫の一つは妻専用の金庫であり、妻の父親である野村菊太郎氏が娘を溺愛するあまりに置いた金庫だった。その中には家一軒が立つ位の金が仕舞われていると妻は聞いていた。いわば生前遺産分けのようなものであった。

 妻の実家は丹波笹山にあり、大地主をしていた。聞くところによると戦後の農地改革のあおりを受けて、その土地のほとんどを没収された菊太郎氏は現在では養蚕とわずかな農地でほそぼそと生計を立てているようだ。


 私は戦前、生家である岐阜の山あいの部落から抜け出し、関西に飛び出してきた。私の家は五代続く造り酒屋であったが、片田舎で埋もれてしまう生活に我慢できず、また都会への憧れもあって家を出たのだ。そして同時に家業を継ぐ義務と権利を放棄したのだった。その当時、私は兵庫県の愛国派に属する県会議員小栗勝利先生の下に転がり込んでいた。そして先生の付き人をやり、やがて秘書として活動するようになっていった。着の身着のままの私を拾ってくれた小栗先生は私にとっては恩師とも第二の父とも言える立場の人であった。その後、私は先生の代理として先生の地元でもある丹波笹山地区には何度も足を運ぶようになり、地元の有力者であった野村菊太郎氏とも幾度か会見した。そして彼の一人娘の聡子と出会ったのだ。

 私と聡子は初めて会った時からお互いに惹かれあった。そして何度か会って話をするうちに生涯を共に生きる間柄であると感じた。しかし聡子の父菊太郎氏は元々愛国派自体を快く思っていなかった。そのため私と聡子の結婚には否定的だった。私は小栗先生になんとか聡子と一緒になりたいと訴えた。

小栗先生は「よし、よし。任せておけ」と私に言って、聡子の父野村菊太郎氏を説得してくれたのだ。どのような手段で説得したか詳しい話は聞かされていなかったが、菊太郎氏にとっては決して納得いくものではなかったようだった。

 聡子と結婚してからも義父菊太郎氏との関係はうまく行かなかったが、政治家と資産家の付き合いとしてなんとか均衡は保たれていた。

 そのような折、満州へ渡って一財産を築いている商人の話が話題になった。私も政界の一角にいたので政府の方針などがよく聞こえてきた。政府はフィリピンを第二の満州国にして植民地化を狙っているというのだ。当時、私はただ漠然とした外国への憧れのようなものがあり、フィリピンに移住して一旗上げたいと思い始めていた。狭い日本を飛び出して海外で活躍したいという思いは、かつて岐阜の山あいにある実家を飛び出して関西に来た時の思いと同じだったが更に思いを発展させたかった。

 小栗先生は高齢であったが若い私の計画を支持してくれた。そして私は日本にあった自分の財産を全て投げ打ち、妻聡子を連れて夢と希望を胸にフィリピンのルソン島マニラへと出航した。フィリピンにおける我々の生活の変遷は以前に書いた通りである。

私はフィリピンから復員後すぐに義父野村菊太郎氏の家を訪れ、妻の聡子が亡くなった事実を伝えた。しかし我々の結婚には元々反対し、私が一旗上げるためにフィリピンへ行く計画に対しても断固として反対していた義父であったため、私が訪問した際も門前払いのような感じで彼自身は私に会おうともしてくれなかった。

 妻の実家と私の関係は戦前より冷めたものになっていたので、妻への生前遺産分けの金庫の件は村山が私に話をするまで思い出すこともなかった。

 フィリピンのマニラにて旅館を経営していた際に、贔屓になった客に星柄ペンダントの話を話題作りのために妻が時々していたような気もするが、まさかそれを奪い取って日本で一事業を上げようと考える輩がいたとは意外だった。しかし私は妻が強姦される姿をマラリアに冒されていた頭とは言え、この眼にしっかりと焼き付けている。断固として彼ら四人を許すわけにはいかない。さらに妻の財産まで奪おうとした彼らは万死に値する。

「キャンガンの星」の話を聞いてからも私は数回村山と飲みに出かけ、やがて彼のアパートで酒を酌み交わす仲になった。

 ある夜、彼の自宅で泥酔状態になった彼を前にして、ついに私は自分の素性を明かした。酩酊している彼にどれだけのことが理解できたか今となっては分からない。妻を陵辱し、死に至らしめたことを追及し、死が唯一の罪滅ぼしと伝え、彼の手首を包丁で切り裂いた。酒に酔って足腰の立たなくなった村山に対していとも簡単な作業であった。幸いにして私が彼のアパートを出入りする所は誰にも見られなかったらしく、その後村山の死は自殺として片付けられていた。


【彼杵重太郎の件】

昭和三十年一月。

 彼杵は左官業を営んでいた。四十歳を迎えた彼には妻子がいた。大阪堺市にある二階建て長屋の一角が彼の住居だった。戦前より左官業を営んでいたとは言え、不惑の年を迎えても棟梁に成りきれずに細々と暮らしていた。村山と違い彼杵は精悍な顔立ちと均整の取れた体格をしていた。その彼杵はまずいことに私の顔を覚えていた。何気なく顔を見ながら彼の前を通ったのだが、意外にも彼の方から声をかけてきた。

「あんた、確か上泉さんじゃあないですか?なつかしいですなあ」

 彼杵はさも懐かしそうに私に声をかけてきたのである。十年前の出来事を忘れてしまったのだろうか?と思った位である。しかし彼は覚えていた。私がキャンガンの山奥にあった山小屋での出来事を一部始終話してやると、当時私がマラリアにやられていたのでその時の記憶が無いだろうと思って話しかけたのだと言ったのである。通りで話しているのも人目があるため、近くの公園のベンチに腰掛けて話をした。

「上泉さん。あの時は真山中尉と貝塚軍曹がいけなかったんですぜ。彼らは上泉さんの奥さんの実家にあるという金庫の鍵を奪おうとしたのです。私は決してそれに参加したわけじゃない。寧ろ彼らを止めたくらいだ」

 彼杵はそのように弁解したが村山から既に四人の共謀を聞いていた私はただ一言「キャンガンの星」と言ってやった。

 すると彼は顔を曇らせ「何故あんたがその合言葉を知っている?」と聞いてきた。

「それは私の妻が持っていた星柄のペンダントだそうだね。それで結局、金は見つかったのかね」と聞いた。

「とんでもない。あれは一番後にフィリピンから復員する真山中尉が持っていて、日本に帰った時に四人が出会う場所と時間まで決めていたが、真山中尉だけが来なかった。だから、自分も含めて真山中尉以外は誰も金には手をだしていないはずだ」慌てて彼杵は弁解した。

「私の妻を君達は乱暴していたろう?それが原因で妻は衰弱して死んでしまった。君達が私の妻を殺したのだ。しかも妻のペンダントの鍵まで盗んだ罪は重い」と私は彼を責め立てた。

しかし、彼杵はあくまでしらを切り通そうとした。

「ちょっと待ってくれ、上泉さん。俺達はペンダントを取っただけだ。確かに無理矢理取ろうとした時に奥さんは少し抵抗したが、もう抵抗するだけの十分な力も残ってはいなかった。それに乱暴などしていない。あの時の奥さんが乱暴できる状態ではないことくらい、あんたにも分かるだろう?それは上泉さんの誤解だ。確かに俺達のやったことは悪いと思うが、もうあんた達夫婦が助かる見込みが無いと思って残される金を有効に使おうと決心しただけなんだ。まさか上泉さんが生きているなんて思いもしなかった。あんな状態で小屋に放置してきたからてっきり死んだと思っていた。だから、さっき道で見かけた時は幽霊かと思って内心ぞーっとしたよ。奥さんの実家の財産もどうなったかは今となっては分からない。村山も中尉も軍曹も今の俺とは何のかかわりも無いし会ってもいないんだ」

「分かりました」と言って私はベンチから立ち上がった。

「上泉さん、お願いだ。あんまり事を荒立てないでやってくれんですか。もう戦争は終わったんだ。あれは戦争が生んだ悲劇だ。今は俺にも妻子がいる。曲がりなりにもまっとうに暮らしているんだ」彼杵は哀願するように私を見上げて言うのだった。

「また会う機会があるかもしれませんね」

 やや謎めいた言葉を私は残してそこを離れた。これが彼杵と戦後初めて会った時の大まかな状況である。


昭和三十年二月十二日土曜日

 この日の朝刊の片隅に電車事故の記事が載っていた。

『南海電車の難波駅で朝のラッシュ時に左官業彼杵重太郎氏(四〇)がプラットホームから転落し、減速してきた列車と接触した。軽い負傷をしたが命に別状は無かった。事故と事件の両面から警察は捜査をしている』というような内容であった。

 これは無論事故などではない。朝のラッシュの人ごみにまぎれて私は彼杵の背後にいた。軽傷と記事にあったが、実は右腕の神経線維を切断されており、実質左官業が出来ない状態になった。それでも私は彼杵の哀願を受け入れたつもりだ。これ以上の彼への復讐は止めにする。彼の残された家族の思いが私と同じになるからだ。

 妻は遠い異郷のフィリピンの山中に眠っている。どのように朽ち果てているのか最早想像も出来ない。遺品とて無い。無論、墓に埋めてやる骨も無い。あるのは敗走の途中で拾った妻の化身ともいえる小さな観音像のみである。

 村山と彼杵に対して復讐を果たせたため妻が受けた屈辱と私の無念は少し晴らされたような気がする。私は私自身の行為を敢えて正当化する決意である。

 しかし、真山嘉平中尉と貝塚元信軍曹の行方が杳として分からない。配送業の傍ら色々な情報の提供者にも会ったが、はっきりしない。村山からはフィリピン時代にもらったという真山と貝塚の日本での住所のメモを書き取っていたが、そこには該当する人物はいなかった。

貝塚は復員して間もなく闇市の仲買人をしていたというので、闇市関係者から何らかの情報を探り出そうとしたが今もってはっきりしない。

 真山は将校であったから軍人会の線からも追ってみたが真山家自体が広島に投下された原爆で崩壊した状態となっており、戦後真山が広島に戻ったという痕跡も見当たらなかった。しかし、彼らを見つけ出し、怨念を晴らすことのみが私の妻への生涯をかけた供養であり、私の宿命なのである。


【真山嘉平の影の件】

昭和三十三年十月

 美佐子との間に生まれた長男長太郎が岐阜の私の実家に預けられることになった。すでに四年前に美佐子は次男純司を連れて結婚前に付き合っていた男の元へと去っていた。残された長男は美佐子の実家に預けていたのだが、東光寺の義母が亡くなり急に面倒が見られなくなったというのだ。普段から仕事で家に居ないような私が子供を引き取れるはずは無かった。そこで岐阜にいる私の弟に相談した。弟は私の真意を不承不承ながらも認めてくれ、長男を引き受けてくれることになった。

 考えてみれば不憫な子供である。母親は不倫に走り、昔の男の元に次男を連れて去って行った。そして、私自身も自分の思いを果たすために親としては無責任だと謗りを受けても仕方がないと思っている。

長太郎は小学校五年生になっていた。私の幼い頃の面影に少し似ている感じがあったが、栄養状態が悪いのか背の高さの割にかなり貧弱な体付きであった。

 岐阜へ同行する最中も特に話はしなかった。自分の子供という実感が沸いて来ないのは自分自身不幸なことだと思う。

 それよりも国鉄大阪駅で少し気になる人物を見た。その人物は近頃流行りだした真現教という新興宗教の集団の中にいた。二、三十人の信徒が宗主を見送っているような風景に見えた。その宗主は紫色の長めの法衣を身にまとい、サングラスまでかけて顔をひたすら隠すような素振りをしていた。どうやら顔に大きな傷があるようだった。

 大阪駅で彼を見た時、ふと真山の姿を思い出した。フィリピン時代の真山に何となく体型や歩き方が似ている印象を感じたのである。そんな彼をしばらく観察していたために、子供の受け渡しにはぎりぎりの時間になってしまった。

 後にその集団を調べてみると中心にいた人物は真現教宗主で真田現奘という男だった。戦争中同じ時期にフィリピン、ルソン島に兵隊としていたというから驚きだった。しかし彼の経歴を見てみると真山とは似ても似つかぬ経歴であった。真山は中尉という将校でありその出身も広島県であったが、真田は一兵士に過ぎず出身は兵庫県であった。ひょっとしたら真山かも知れぬというほのかな期待も完璧に崩れ去ってしまったのである。

 真現教宗主の現奘がフィリピンでの戦争中に啓示を受けたという「イソホーン・ナグナイック」という言葉を繰り返し念じているだけで幸せになれるという教義も世の中を小馬鹿にしているようで腹立たしい。


<途中、特筆すべき事も無く、勇太郎の日記は約十六年間続いていた>


【貝塚信元の件】

昭和五十年一月

 今年で私は七十歳を迎える。ここ十年ばかり高血圧の薬を飲む生活が続いている。体も衰えてきて一人で旅行もできなくなりつつある。満足に身体を動かせなくなってきた以上、非常に残念だが私は妻聡子の復讐を断念せざるを得ない時期にきたと判断した。

 村山、彼杵という二人の男に恨みを晴らして以来残った二人に対して二十年間復讐を果たせずにいたのは実に口惜しい。この残った真山、貝塚の二人こそが最初に妻に手をかけていたのを私は見ていたからだ。ただ、今までに分かった事実をまとめておきたい。

 実は貝塚信元軍曹の消息は最近になってやっと掴めた。貝塚は戦後闇市の世界で生き抜き、昭和四十年頃から闇金融業つまり不当な高利の金貸し業に転じ、かなりあくどい稼ぎをしたらしい。紆余曲折はあったにせよ、その世界で貝塚の名前を知らないものはいないようだ。

 五十歳そこそこの彼は今も大阪ミナミの闇金融業界に君臨している。現在、飛ぶ鳥を落とす勢いの彼を今の老いた私がどうこうできる立場ではない。もう少し若い時に探し出せていたらば何とか仕様もあったのかもしれない。とても残念でならないが、今となっては貝塚に対する復讐は断念せざるをえない。

 真山嘉平中尉は全く行方が知れない。復員したかどうかも定かではない。実は一部の復員者からの話として復員する際の船の中で死亡したという情報もあったのだ。情報が混乱していた時期のこととて確証を得るまでには至っていない。真山は妻の鍵を持つ唯一の人物であるので、真山が実際に妻の実家に行った痕跡があるかもう一度妻の実家を訪れて確認しようとした。先月の初めであった。戦後、妻の実家とは縁が絶えてしまったままであったので、実に三十年ぶりの訪問となった。

かつては大きな古い屋敷であったが、今では旧家の面影はどこにもなく、代が変わって家も近代的な建物に変わってしまっていた。義父の野村菊太郎氏は十二年前に老衰で死んでいたので、その孫に当るという野村政伸氏が会ってくれた。私のことは野村家の昔話として聞いていたようであったが、「最悪・最低の男」という悪意に満ちた表現を菊太郎氏はしていたという。

「あなたが噂の男性ですか」と好奇に満ちた目で政伸氏は私を見ていた。

 聡子つまり政伸氏にとっての叔母の金庫については、彼は父や祖父らからも全く知らされておらず自分自身もそれを見たことも無いと驚いていた。彼の父、菊太郎氏の長男であり、聡子の兄は癌で数年前に他界し、その妻も病気で早くに亡くなっている。昔のものは祖父の菊太郎が亡くなった後、家を建て替えた際にすべてを処分してしまったという。

 唯一金庫の鍵を持っていた真山が果たして妻の金庫の中身を盗んでいったかどうかは今となっては知る術も無かった。しかし菊太郎氏の私に対する悪評は誇張しているのかもしれないが、そこ迄言われる程の悪行を自分がしていたとは私には思えなかった。あくまで可能性の一つだが、妻の金庫の中が戦後間もない頃に真山によって盗まれており、その犯人を菊太郎氏は金庫の秘密を知っている私だと思い込んでいたからこそ、「最悪・最低の男」なる称号を私に与えたのではないだろうか。とすれば真山は日本に復員していたことになるが・・・

 ともあれ真山嘉平はフィリピン、ルソン島の山中の山小屋で私と最後に会って以来、彼が日本に復員して生存しているという僅かな証拠さえも残していないのである。

 私の行動力もここらが限界のようである。正直言って復讐という行為すら今の私にはどうでも良いような気になっている。たとえどんなに恨みがあろうとも人の生死を決めるのは一個人の判断で決めてはいけないと思うようになってきた。

 ただ、自分の命が果てるまで私は妻聡子の供養をし続けるであろう。そして私の遺品は妻の化身である小さな観音像だけになるだろう。(合掌)


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