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キャンガンの星  作者: 足立 和哉
3/12

三 その名も清きわが宮川は吾らの胸につたふなり

(1)

「この屋敷と土地を売り払って、別の地に引っ越します」 祖母まさの四十九日法事の当日、集まってきた親戚達に向かって東光寺佐代子は一方的に宣言した。

これから自分一人で人生を送って行く上で、この屋敷は住むにはあまりにも広大であった。父親の残した財産だけで自分の残りの人生を十分に暮らしていける彼女にとって、この屋敷も、姉から預かっている甥の長太郎も不必要な存在であった。

「この屋敷や土地は兄貴が一代で築いた財産で買って改築してきた兄貴の象徴とも言える家だ。わし等がとやかく言う問題やないから佐代子の好きにしたらええやろ。この家を出た美佐子には別に同意を求める必要もあらへんわ」東光寺智彦の直ぐ下の弟で親戚達の長老格にあたる貞彦が言った。他の親戚達も屋敷や土地の売買については異論が無かった。

「長太郎はどうするがじゃ?」智彦の一番下の妹にあたる坂上淑子が濁声で聞いた。

その声に合わせるかのように一同は部屋の片隅で痺れを切らして足を崩している長太郎を一斉に見た。

「あんたは外に出ていな」佐代子は厳しい口調で長太郎に言った。

長太郎が痺れた足を引き摺りながらのろのろと部屋を出ていくや否や佐代子は続けた。

「あの子の面倒なんてもう見てられへん。なんで私があんなボンクラを育てないといけへんの。姉さんは勝手にどこかの男と幸せに暮らしてんねんし、寝たきりの母の面倒だって全部私がやってきたんよ。それってホンマに辛かったんよ?こんなん絶対不公平やわ」

佐代子のヒステリックな声が部屋に響いた。

「佐代子の苦労は大変やったと思うわ。それにしても実の母親の葬式にも満中陰にも出られへんとは美佐子も不憫な娘じゃ。長太郎はやはり実の母親の元に返すべきじゃろうのう」と淑子は佐代子に同情し助言するのだった。

長太郎の母美佐子はまさの葬儀の日も四十九日の法要の日も来なかった。

「どの面下げて、わしらに会いに来られるものか。あの娘は兄が築いた名誉や財産を総て台無しにするような東光寺家の面汚しじゃ」東光寺貞彦が冷ややかに美佐子を評した。

「わしは長太郎の父親勇太郎さんが預かるのが筋じゃと思う。今まで東光寺家に養育費を送ってきてたからな。美佐子と違って当然子供を養育する義務感も持っておるわ」

 長老格の東光寺貞彦の一言で親族会議の結論が出たようだった。もともと上泉勇太郎が東光寺家にとっての厄介者を押し付けた形であった。勇太郎の事業は配送業から宅配業という流れに乗り事業としては大成功を収めており東光寺家に莫大な利益をもたらしてもいた。美佐子を悪しざまにいう親族はいたが勇太郎を非難する者は誰もいなかった。勇太郎は直接長太郎の面倒こそみなかったが、勇太郎という存在そのものが東光寺家への無言の圧力となって長太郎に危害を及ぼさないようにしていたと言えた。しかし直接長太郎の面倒をみられる存在がいなくなった今、勇太郎の神通力も通用しなくなった。

 結局、長太郎は父上泉勇太郎の郷里である岐阜県の山あいにある小さな町で造り酒屋を営んでいる勇太郎の弟一家に引き取られることになった。母美佐子の所在は分かってはいたが既に駆け落ちした男性との間に一女を既にもうけており、今更長太郎を引き取れる環境ではなかった。

 勇太郎は東光寺家から長太郎を引き取って面倒見てもらいたいという要請を受けたが、勇太郎も仕事で各地を転々としており、自分自身で子供を育てられる状況ではなかったので勇太郎は相当額の金を弟一家に渡して解決を図ろうとした。かつての東光寺家での養育や今回の弟宅での養育決定の際にも、自分の子供の問題を金という手段で解決する勇太郎の態度からは自分の子供に対する愛情が微塵にも感じ取れなかった。

 小学五年生の十月に上泉長太郎は関西のいわば都会の一角にある塚田小学校から岐阜県の山あいの田舎町にある小高山小学校に転校した。急な転校だったのでクラスの誰もが驚いた。転校のあいさつをみんなの前でするように担任の先生に言われたが長太郎は結局何を言ってよいのか分からず終始黙っていた。長太郎は心の中で思っている内容を言葉で上手に表現できない少年だった。

「長太郎君のことは忘れない、岐阜へ行っても手紙を書いて様子を知らせてください」とその時の学級委員長がしっかりと送る言葉を言ったのとは対照的であった。しかし転校した後で長太郎が手紙を出した同級生も、長太郎に手紙を出した同級生もいなかった。

 長太郎は学校を出る際に千鶴子先生を目で探していたが、結局姿を確認できないまま四年十ヶ月ほど通った塚田小学校を後にした。家に帰ると辛い思い出ばかりであったが小学校の思い出は入学式の脱糞騒動の後遺症がしばらく残ってはいたものの、長太郎なりに楽しいものにはなっていた。


 東光寺佐代子は長太郎が小学校で転校の挨拶を受けた翌日国鉄大阪駅まで長太郎を見送った。早朝、家を出る時も長太郎の荷物が意外とかさばるので大いに文句を言っていた佐代子だった。長太郎は大きめの旅行鞄を手に持ちながら伯母と一緒に阪急電車の駅に向かった。長太郎の細い腕にその旅行鞄はかなりの負担になっていたが、佐代子は次第に歩みが遅くなる長太郎に「遅い、遅い、遅刻するよ」と何度も文句を言った。ふと上を見た時に見た秋の青空が天高く広がっていたのが長太郎の慰めになった。

 国鉄大阪駅のプラットホームに着いたものの長太郎に同行して岐阜まで見送るはずの父勇太郎の姿はまだ無かった。

「実の父親だっていうのに、一体何を考えているのだか」佐代子は列車の出発間際になってもまだ姿を見せない勇太郎に一抹の不安と言いようの無い怒りを感じるのだった。

 姉の美佐子と結婚した当初から義理の兄である勇太郎とは気が合いそうになかった。姉の夫と思うからこそ色々と気を使って愛想よくしたり話しかけたりしてもいたが、それに対する勇太郎の答えはいつも素っ気無かったし、更に腹立たしい思いをしたのも一度や二度ではなかった。何を考えているのか推し測れない年の離れた義兄勇太郎を佐代子は苦手にしていた。いつしか二人の間には深い溝が出来上がっていた。

 やがて長太郎が乗車する列車が近づいてくる放送が流れ、先頭の蒸気機関車が煙を上げてプラットホームに入ってきた。その時、佐代子と長太郎が立っている場所にステッキを片手に持った一人の男性がやってきた。さほど急いで来たという雰囲気も無かったが、それが上泉勇太郎であった。こげ茶色の背広に身を固めたその姿は背が高く、口髭をはやし如何にも厳格そうな雰囲気を漂わせていた。山高帽子を被った下から出ている髪の毛には所々に白髪が混じっていた。

 叔母の佐代子が他人行儀に「お前の父親だよ」と長太郎に告げた。長太郎は最初自分の父親であるとは認識できなかった。小学校入学前のいつからか顔を見ていないのである。そして見上げるばかりの大柄な父親に言い知れぬ畏怖感を覚えるのだった。

「おはようございます」長太郎はやっとの思いであいさつをした。

 勇太郎は「うん」と返事をして長太郎の顔や体をしばらく見つめた。まるで長太郎の値踏みをするかのようにしげしげと見つめていたが、それも飽きたかの様に視線を佐代子に移した。

 佐代子は長太郎の痩せ細った体が自分の料理のせいだと思われたくなかったので「食の細い子でねえ。作ってもなかなか食べもらえないのよ」と弁解めいた口調で言った。

 二人を前にして長太郎は何をどうしてよいのか分からずただ立ちつくしていた。その時、蒸気機関車の甲高い汽笛の音がした。勇太郎は黙って佐代子に目礼をしてから荷物を受け取り自分の息子の手を引いて二等客車の中に乗り込んだ。

「ふん、何のあいさつも無しかよ。礼の一つ言っても罰は当たらんわ。でもこれで私も楽になれるよ」佐代子はやっと厄介者が居なくなったという清々した顔付きでプラットホームを後にしようとした。

 その時、念仏に似た低くくぐもった声が佐代子の耳に聞こえてきた。佐代子が声の聞こえる方に目をやると一等客車に乗り込もうとしている一人の人物を取り囲むようにして黒衣を着た二、三十人の人々が合掌しながら口々に唱えていたのが見えた。その一角だけが異次元の世界になっていた。

「イソホーナグナイ、イソホーナグナイ・・・」佐代子にはそのように聞こえた。

 その中心にいる人物は紫色の頭巾を顔の大部分を隠すように被り、サングラスをかけ、紫色のトレンチコートのように長い法衣を身にまとっていた。僧侶には見えなかったが、何か特殊な新興宗教団体の一団かもしれなかった。

「縁起の良い日に、なんて陰気で縁起の悪いこと」佐代子は吐き捨てるように言って丸い体型を揺らしながら大阪駅を後にした。


(2)

 長太郎と勇太郎は汽車の中ではほとんど話をしなかった。本当は積もる話があったはずだが、途中の停車駅で昼食の駅弁を買った時に少し話をした程度で後は相手が相づちを打つような話だけで会話にはならなかった。

 長太郎は汽車の旅は初めてだったので、車窓から見える風景の移ろいがとても面白かったし、列車がカーブを走行する時に見える先頭の蒸気機関車を格好良いと思った。

 幕の内弁当にも普段食べていないおかずが入っていて楽しかった。陶器製のお茶入れも見た事がなく、湯飲み茶碗代りになる陶器製の蓋をカタカタと鳴らして音を楽しんだりもした。父親と一緒にいる喜びは無く、むしろ初めて旅の喜びを強く感じる長太郎だった。おぼろげに旅はいいなあと感じるのであった。

岐阜駅で乗り換え、さらに山間に向かって列車は走った。勇太郎の弟上泉幸次郎が住む町の駅に着いた頃には夕焼けが山の端を飾っていた。岐阜の山の中にある町はすぐに暗くなりそうだった。

 勇太郎は駅に迎えに来ていた弟の娘民子に長太郎を託すと単線の待ち合わせで待機していた列車に乗って直ぐに岐阜市内に戻る予定だった。

「叔父さん、久しぶりだから父と一緒に、うちのお酒を飲んでいけばいいのに」民子は勇太郎を労うように言った。

「いや、民ちゃん。薄情と思うかもしれんが急ぎの仕事もあるからトンボ帰りで岐阜市内に連絡をとらないといけない。幸次郎にはくれぐれもよろしく伝えて欲しい」

 会話はそれだけであった。

「長太郎君、お父さんに行ってらっしゃいのご挨拶をなさい」民子は長太郎を振り返った。

「うん」と長太郎は返事をしたが相手となるべき父親は既に客車に乗り込んでしまっていた。

 勇太郎が客車のどこにいるかは既に確認出来なかった。

「聞きしに勝る親子関係ね。ちょっと冷た過ぎないかな」民子は半ば呆れて笑ってしまった。

 初めて出会った従姉の民子の明るい笑い声を聞いて長太郎の顔がほころんだ。

「さあ、行こうか」民子は男勝りのかけ声で長太郎を促した。


 勇太郎の弟幸次郎が経営する造り酒屋は「上泉酒造」といい五代続く地元では有名な酒蔵を持っていた。居住する家屋も古い建物だったが、いくつもの部屋があった。その屋根裏部屋の一室が長太郎にあてがわれた。そこには勉強用の机とふとんが敷けるだけの空間は充分にあったので長太郎のプライベートは保たれていた。実はこの部屋は父勇太郎が太平洋戦争の戦後間もない頃に居候をしていた時に使っていた部屋でもあった。

 長太郎の叔父になる幸次郎は今年五十歳であった。幸次郎は厳格そうな顔付きをした男であったが、長太郎の境遇を思ってか時折優しい声で長太郎に話しかけた。幸次郎は兄勇太郎が兄自身の家族を大切にしようとしない理由を薄々感じ取っていた。しかし、その理由は兄の心の奥にしまっておくべきものであり幸次郎もそれを察しているからこそ、家族の誰にも長太郎を預かる本当の理由を知せなかった。

 家族の者達は勇太郎の仕事がいくら忙しいと言っても自分の手の届く範囲内で子供を育てるべきではないかと主張したが、幸次郎は家族達の意見を強引に抑えて長太郎の養育を引き受けたのである。

 家には他に妻の勝子四十五歳、長男の幸広二十五歳、次男の友則二十三歳、そして駅まで迎えに来てくれた長女の民子二十歳が住んでいた。夕食は新しい同居人を歓迎するというので鍋料理が振舞われた。近くで採れた長太郎が見たことも無いキノコ類や珍しい熊の肉が鍋に入れられた。皆は好んで酒を飲んで話をし、口下手な長太郎もいつしか皆の話の中心になっていた。長太郎は初めて暖かい家族団欒の雰囲気に触れることが出来て家族の持つ温かみを感じたのである。


 翌日、長太郎は転校先の小高山小学校に行った。

「今日は私が着いて行くけど明日からは一人で行くのよ」長女の民子が言った。

 長太郎が新しく生活をする町は川に沿って出来た集落が幾つか集まった町で小高山小学校はそれらの集落を抜けて子供の足で歩いて一時間はかかる場所にあった。

「いいわね。私のことはお姉さんと呼ぶのよ」民子は明るい笑顔を長太郎に見せた。

 民子は言葉の柔らかさとは対照的に長太郎を先導しながらどんどん歩いた。十五分も歩いた頃だった。

「お姉さん、足がだるくなってきたよ」と長太郎は言った。

「都会の子はひ弱ね。私ら兄妹はみんなこの道を雨の日も雪の日も歩いて行ったのよ」民子は振り返って立ち止まり驚いた表情でそう言った。

 長太郎にはランドセルの重さが両肩に食い込んできて眼が回りそうであった。

「毎日、歩いているうちに慣れてくるよ。さあ、行くよ」

 民子は仕方ないなという表情で長太郎の手を引っ張りながら歩いた。途中、緩やかな山の斜面一杯にススキ野原があり、秋風にさわさわと音を立てていた。そこでも長太郎は一息ついた。朝日の中でススキの穂が輝いて見えたのが神々しいと感じて、息が上がっているのも忘れて見とれていた。

 小学校に着いた頃には長太郎の息は完全に上がっていた。毎日これを往復するとなると僕はいつか死んでしまう。そんな気分になった。


 転校した先の小学校の五年生のクラスは一つしかなかった。地元の子供だけで成り立つこの小学校では転校生は非常に珍しかった。クラス全員が好奇に満ちた目で長太郎を見た。最初の挨拶で長太郎は自分の名前以外は何も話せなかった。元々、自分の思いを上手く伝えられない性分の上に見知らぬクラス全員を前にして完全にあがっていた。

 国語の授業の時に長太郎が教科書を読む番がきた。長太郎は普通に声を出して読んだが、クラスのあちらこちらでクスクスと笑い声が聞こえた。

「佐伯さん、西村さん、高橋さん。そこの三人、何がおかしいの?」

 長太郎が朗読を終って席についた途端に担任の二木亮子が鋭く詰問した。

「だって上泉君の話し方面白くて、まるで関西の漫才師の話を聞いているみたいだったもの」担任の先生から指摘された三人の内の一人で、クラス一おませな佐伯清子が笑いを堪えながら担任に答えた。

 三人の他にも休み時間に長太郎が話す関西訛りの言葉を思い出して笑い転げる女の子がいた。

「そんなに可笑しいか?」長太郎が聞くと、その関西訛りでも笑い出す始末であった。

 今まで普通に話していた言葉使いが可笑しいと言われて長太郎は無性に悔しい思いをした。当時の小高山小学校では関西訛りはラジオから聞こえてくる関西芸人の印象しかなかったのだ。

 その日の放課後、運動場の片隅で長太郎は自分より二回りも体格の良い六年生のガキ大将からの洗礼を受けた。彼はいきなり長太郎に襲い掛かってきて、押し倒し体に乗りかかり喉を締め付けるようにしてきた。

「頼まれちゃったのよう」と言った後、長太郎が逃げ出そうともがいている姿をニヤニヤしながら上から見ているのである。周りには見張り役の子が何人か取り巻いていた。

「何を頼まれたんや」やっとの思いで長太郎は尋ねた。

「生意気に口答えすなよ」と言いながらガキ大将は長太郎の頭をぽかりと殴った。

 結局十分ほどだったが長太郎にとっては意味の無いやりとりがあった後に開放された。何の理由で暴力を受けなければならないのか長太郎には理解できなかった。狭い部落の大人達にはよそ者に対する排他的な風潮があった。それが子供にも直に伝わり彼等のような長太郎には意味のない行為をさせたのかもしれなかった。

 ガキ大将の洗礼を受けた長太郎は土や泥で服やズボンが真っ黒な状態になったまま帰りの道を歩いた。造り酒屋に着いた頃にはとっぷりと日が暮れていた。途中の街角まで帰りの遅い長太郎を心配した民子が迎えにきてくれていた。

「夕さ、早う暗なってまうで、ちゃっと帰って来な」と民子は長太郎が帰ってくる姿を見つけて文句を言おうとしたが汚れた服を見て驚いた。

 長太郎は民子の姿を見て、それまで我慢していた気持ちが堰を切ったように流れ出た。泣きながら民子に今日の出来事を話すのだった。

「あいつらか」と長太郎の話を聞いて民子は顔を曇らせた。

 長太郎を襲ったガキ大将のグループ自体は弱小軍団だったが、彼自身は近所で名の知れた暴れん坊だった。

 転校初日に長太郎は、言われもない言葉の暴力とガキ大将の腕力の暴力の二重の洗礼を受けたのだった。明日からの学校生活を思うと憂鬱になる長太郎であった。


(3)

 造り酒屋の朝は早かった。長太郎は居候の身分だったので店の手伝いもしなければならなかった。長太郎の役目は主に掃除だった。朝の雑巾掛けは水が冷たくあっという間に手が赤くなっていく。一仕事終り皆で朝食を済ませたら一時間かかる通学である。学校から帰っても店の後片付けなど子供でもできる仕事はすべてやらされた。毎日このような生活が続いた。

 冬が近づくにつれて朝晩の気温は急激に下がり、晩秋の朝には氷が玄関先の池に張った。長太郎はしもやけとあかぎれに悩まされた。毎日の生活自体は辛かったが家族同様の生活ができて家族の絆を感じる日々だった。そうした生活を続ける間も父勇太郎は全く店には姿を現さなかった。

「勇太郎叔父さんは運送業をやっていて、かなり忙しい人なのよ」民子がある時、長太郎を気遣って話をしてくれた。

「父さんはいつも僕の傍にいてくれなかったから、別にいなくても寂しくないよ。姉さん」

 民子はそのように平然と言ってのけられる長太郎を逆に気遣った。確かに長太郎を送りにきた勇太郎は民子に長太郎を託すとさっさと汽車に乗って去っていった。思えば父ばかりでなく母までもそばから離れて行ってしまった長太郎だった。この状況が長太郎のこれからの人間形成にどのような影響を与えるのだろうかと民子は長太郎の将来を心配した。そして、これからの数年間が長太郎にとって最も大切な思春期だと思う民子は、この家にいる限り自分が親代わりになって長太郎を面倒みてやろうと決意するのだった。


 やがて歳月が流れ長太郎は中学生になった。中学校がある場所はさすがに歩いて行くには無理なほど遠い場所にあり自転車で通学しなければならなかった。雨の日はバスを利用したが、朝、バスの時間に合わせて家を出るのも慌しい上に、一日に走る本数が少ないので夕方の一本のバスを逃すと最終便で午後八時過ぎにしか家に帰られないような状態だった。体つきも次第に大人びた体型になり、声変わりも迎えたが大人達と話すのが一層億劫になり始めていた時期だった。学校から帰っても家の者と余計な話をしないで直ぐに屋根裏部屋に閉じこもるようになっていた。

 長太郎が中学二年生の時に、幸次郎は長男の幸広を自分の跡継ぎとして正式に宣言した。そして隣町に住む二十歳になったばかりの千勢という名の女性と見合結婚をした。千勢は周囲に気を使うまめな女性であったので、姑の勝子や小姑の民子ともうまく共同生活ができていた。また次男の友則はしばらく実家を手伝っていたが岐阜市内の紡績会社への就職が決まり岐阜市内のアパートで暮らし始めたため滅多に故郷には帰ってこなくなった。

 叔父の幸次郎は頑固者で昔気質の職人であった。そして叔母の勝子は物静かな女性であった。そのような家族構成の中で口下手な長太郎は民子以外とは心を割って話ができずにいた。ともすれば同居しづらい気持ちになる時もあった。

 新婚の長男夫婦が同居しているのも長太郎には居づらい原因の一つになっていた。新婚の幸広長男夫婦の部屋から時折り聞こえてくる夜の閨の声が若い長太郎の体を熱くさせ、心中穏やかならざる気持ちにさせるからだった。最初は事情の分からない長太郎は家族の誰かが病気で苦しんでいる声だと思っていた。長太郎が寝起きしている屋根裏部屋とそれほど離れていない所から苦しむ声が聞こえてくるので、その声のする方向に足を忍ばせて行くのはごく自然の行為だった。そこは長男夫婦の部屋であった。苦しむ声は明らかに女性の声だったので新妻の千勢だろうと思った。しかし傍にいるはずの従兄の幸広が何故苦しむ千勢を介抱していないのか気になった。そっと襖を開けてみて初めて長太郎はこれがかつて友人から聞いた男と女との儀式だと納得したのだった。

 長太郎が悩ましい声を聞きながら眠れぬ夜を過ごした後の朝に幸広の新妻千勢と顔を合わすのはとても恥ずかしく、千勢が朝の挨拶を長太郎にしてもついつい顔を逸らすようになった。そのような態度をとる長太郎を千勢はいつしか少しおびえたような目で見るようになっていた。


 中学校のある町は近隣では最も大きな町で小さな映画館もあった。わずかな小遣いをためては学校帰りに映画を見るのも長太郎の楽しみの一つになっていた。その内、同じ行動をとる仲間も出来てきた。自然に仲間と一緒にいる時間が長くなり、家に帰る時間も次第に遅くなった。行動範囲も広がり学校をさぼってさらに遠くの町まで行くようになってきた。日曜日には簡単なアルバイトをして小銭稼ぎをしたり、その金で遊びに行ったりを繰り返すようになった。

「上泉屋の居候の自転車が上の町の映画館の前によく停めてあるで」という噂がちらほらと長太郎の住む町にも流れ出していた。


 長太郎が中学三年生の時、民子は岐阜県高山市にある室野呉服屋に嫁ぐことになった。上泉家とは先々代より付き合いのあった古い商家である。相手の男性も時々商用で小高山地区まで来ており顔見知りの間柄であったが、まさか子供同士が結婚にまで至るとは両家の親とも思って居なかったらしい。ところが室野呉服の店主が息子に見合いをして、身を固めて呉服屋を継げと言った時に息子の口から出た名前が図らずも上泉民子だった。

 これは良縁と考えた室野家は幸次郎に縁談の話を持ちかけた。幸次郎も結婚相手がまだ見つからない民子を心配していたので早速民子に話を持ちかけた。すると民子も室野家の息子を気に入っていたらしく瞬く間に結婚が成立した。

 長太郎は民子が嫁いでいくまでのあまりの速さに驚いた。民子がいなくなってしまうのも寂しかったが、今まで何かと居候同然の身分だった長太郎をかばってくれた存在がいなくなるのが不安だった。他の家族からの風当たりが強くなりそうな気がしたのだ。

 長太郎の不安を察した民子は長太郎を励ますつもりで嫁ぐ一週間前に長太郎を連れて外に散歩に出た。

「もう中学三年生だし、もう少し大人の気分になって頑張りなよ」家の近くを流れる小川の淵にある石垣に腰掛けながら民子は長太郎に話しかけた。

「姉さんがいなくなると叔父さんや従兄さん達が僕につらく当りそうな気がするなあ。僕はみんなから結構嫌がられている気がするし」

「長太郎が心を開いていないじゃないかな。私と話をする時みたいにさ、他のみんなにも心を開けばいいんだよ。同じ血がどこかに通っている親戚だよ」民子は両手を上げて大きく伸びをした。

 長太郎は民子の少し大胆な男っぽい言葉使いや仕草が好きだったし、それを頼もしいと思っていた。

「そうそう、千勢義姉さんがね、長太郎が怖いと言っていたぞ。なにか悪いことしたのか」民子は悪戯っ子のような表情をして長太郎を覗き込んだ。

「そんな、怖がられることなんかした覚えはないけど」

 長太郎は何日かに一度夜中に聞こえてくる千勢の声を思い出して口ごもってしまった。そういえば最近あの声がほとんどしなくなったような気がする。それと何か関係があるのかどうか長太郎には分からなかった。

「義姉さんがあいさつしても顔を合わせようとしないで、ぼそぼそと答えるだけだし、何を考えているのか分からないって言っていたよ。だからさ、心を開くんだよ。今のままだと、それこそみんなの心が離れていくよ」長太郎の心の中を知ってか知らずか民子は長太郎の背中をぽんと叩いた。

「ここだけしかいる所が無いし、なんとかやるよ。姉さんも正夫さんと幸せになってよ」

「私は幸せになるに決まっているわよ。長太郎の方が問題なんだから」民子は愉快そうに笑った。

 その一週間後、高山市内にある結婚式場から上泉民子は室野民子としての人生が始まった。


(4)

 民子が上泉家から嫁いで間もなく長太郎に事件が起こった。同じ中学に通う一年生の男子が不良グループの一団に恐喝され金を脅し取られたという事件が発生した。不良グループの何人かが、いつも長太郎と一緒に行動を共にしている中学生だっため、長太郎にも疑いがかかってきたのである。実際には長太郎はその恐喝事件には全く関与していなかったがグループの一人が長太郎も恐喝した現場に居たと嘘の証言をしたために長太郎は窮地に陥ってしまった。

「飯を食わせてもらっている恩を仇で返す気か?」当主の幸次郎の語気は荒かった。

 学校をサボって映画館に入り浸っているという噂も幸次郎の耳には入っていたが、若い頃はやんちゃも必要だと今までは黙認していた。しかし今回の件は犯罪行為だった。幸次郎には許すべからざる行為だった。

 長太郎の口下手は中学生になっても相変わらずで、うまく弁解できないでいた。民子ならうまく取り成してくれたかもしれないが、嫁いでしまってこの家には居ない。

「上泉酒造から不良者を出すとは近所の笑いものだ。どうしてこんな風に育ってしまったのだ」幸次郎は慙愧に耐えない顔をして長太郎を罵った。

 職人気質の幸次郎の怒りは相当激しかった。さらに跡継ぎの幸広も執拗に長太郎を責めた。幸広はつい一週間前に妻の千勢から聞いた「最近、長太郎さんの私を見る眼がいやらしい」という言葉が耳から離れなかった。

 長太郎は中学三年生になってから体格もがっしりして小学五年生の秋にここに来た時のがりがりに痩せていた姿とは見違えるほどに成長していた。急に色気づいてきた年の離れた若い従弟の長太郎に幸広は嫉妬に近い気持ちも抱いていた。ましてや同じ屋根の下にいる新婚間もない妻に何か悪さをするのではないかという猜疑心も心の中に渦巻いていた。

 この事件以来、長太郎は上泉家の中では更に疎外感を味わうようになった。


 中学卒業が近くなった頃、卒業後の長太郎をどうするかという問題が長太郎不在のまま幸次郎一家で話し合われた。幸広は最近岐阜県の山間部に広まり出している新興宗教集団の修練道場へ入れてはどうかと提案した。

「確か四十歳そこそこの宗主が主宰している真現教とか言う宗教だ。二十代で悟りを開いて関西の方で道場を開いたらしい。しかし太平洋戦争で海外に出征したため戦地で顔面に傷を負って声が満足に出せない状態で復員したそうだ。しばらく鳴りを潜めていたが、三十歳近くになって活動を再開させたらしい。今、密かなブームになっているようだよ。念仏を唱えるだけで人は罪を許され、安楽を得る等と言っているらしい」幸広は一息ついた。

「宗教が長太郎に必ずしも良いとは思ってないが、俺が勧めたいと思っているのはそこが運営する修練道場へ入ると厳しい修行で人間が鍛えられるところだ。何を考えているか分からんような長太郎にはそこで修練するのがお似合いではなかろうか?」幸広には従弟である長太郎を特殊な隔離された環境に封じ込めてしまいたいという思いがあった。

 妻千勢の讒言とも言うべき話がいつまでも尾を引いて冷静な判断をさせないでいるのであった。

 幸次郎もその新興宗教の話は町内の寄り合い等で人伝に聞いていた。信徒の家で行う町単位の念仏行とは別に、特に集中的な修行を希望する信徒に対して行われる修練道場での修業があった。その修練道場に非行少年少女を入門させると半年から一年後にはりっぱに社会復帰できて帰ってくるという評判もあった。しかし町内の寄り合いでの結論はこの宗教がもし町に入ってくるならば絶対阻止しようというものであった。少なくともこの町内の住人は真現教は各地でトラブルを引き起している悪い新興宗教集団という印象を持っていた。

「わしもその話は聞いているが、そこまでやる程でもないような気がする。その新興宗教も何か胡散臭い。それに長太郎の行く末については兄の意見も聞かねばならない」幸次郎は長太郎を真現教の道場に入れるのには否定的であった。

「でも勇太郎叔父さんは長太郎がこの家に来てから何年も経つのに一度も顔を見せてないぜ。ずっと長太郎の面倒を見ているのは僕達なんだから叔父さんの意見など聞かないで、勝手にやればいいんだ」幸広の意見は感情的であった。 

 幸次郎は兄勇太郎から半年毎に長太郎の養育費として多額の金を振り込んでもらっていた。長太郎の養育費以上のその額は兄の弟に対する慰謝料の意味も含んでいると幸次郎は思っていた。そして家業の資金繰りにもそれを充てていた。だからこそ兄の意見を無視してまで長太郎の将来を決める訳には行かなかった。

「法律的に言っても長太郎の親権は兄勇太郎にあるからな」幸次郎は幸広にそれ以上の意見を差し挟まさないよう厳しい顔をしながら言った。

「まあ、法律がそうなら仕方が無いな」幸広も父親の気持ちを察したように答えた。

 幸次郎の妻の勝子は夫の影に隠れて生活するような地味な女性であった。ましてや自分の意見を前面に立てて主張するなどできない女性であった。その勝子が長男の提案に反対する発言をした。

「長太郎は宗教の信徒という柄じゃないでしょう。岐阜の町工場に勤めに出させてはどうでしょうか?私の兄が経営する工場だけど、つい最近も人が辞めて人手を欲しがっていたから。幸い長次郎は話をするのは下手だけど体格も良いし動きは良さそうだからあそこの仕事に合っているのではないかしら」勝子は周りの家族を伺い見るように眼を見開いて皆の意見を待った。

 幸次郎は妻の兄の近藤宗佑が承知ならば、それに越したことは無いと賛成した。幸広も母を見直したような眼で見て賛成した。

「工場には住み込みのための部屋もあるから、宿の心配もする必要が無いし」と勝子は付け加えた。


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