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キャンガンの星  作者: 足立 和哉
11/12

十一 うず潮さわぐ淡路島北銀嶺の但馬路と(その2)

現奘が八十歳になった年に事件が起きた。私が現奘と直接関わったのはその時からになる。正確に言うならば現奘の死体と関わった時というべきだろう。平成十二年の十月十九日木曜日だった。

真田現奘の自宅は兵庫県芦屋市にあった。豪邸というに相応しい屋敷であり万全なセキュリティーシステムが施されていた。現奘は数人の家人と暮らしていたが、外界との接触はほとんど絶っていた。そんな彼が当日、ある人物をいともたやすく邸内に入れた。そして彼の自室でその訪問者と二人きりで二時間を過ごしていた。その後、訪問者はいつの間にか居なくなり、その後首を絞められて死亡している現奘が自室で発見された。

入るのに難しいシステムほど出るのはたやすいと言われるが、正にそれを証明するように、その訪問者は家人の誰にも見つからず屋敷の外に出たのである。

現奘宅から通報を受けて我々は現場に駆けつけた。現奘の自室は閑散とした部屋だった。部屋の中央にあるソファに真田現奘だった体が横たわっていた。テーブルには紅茶茶碗が二つ置かれ、さらに手帳や古いアルバム集や二名の日本兵が写った古びた一枚の写真が置かれていた。

家人によると訪問者は予め公衆電話から現奘に面会を求めてきた。

「一般の面会には一切応じられない」と家人が一旦面会を断った。

しかし、その男は「『キャンガンの星』と現奘に伝えて欲しい。伝えないとあなたはいつか彼に責任を取らされるだろう」と言い出した。

その言い方に尋常では無いものを感じた家人が仕方なく現奘に『キャンガンの星』と伝えて欲しいという訪問者が面会を希望していると伝えた。最初は現奘の顔は怪訝そうに曇ったが今度は何がうれしいのか突然笑い出し、手話で「是非ここに来てもらいなさい」と家人に伝えた。

家人の話では現奘がこれほどまでに愉快な顔をした時はここ数年無かったと言う。余程の昔からの知人ではないかとその家人は思ったようだ。

まもなくその訪問者がやってきた。野球帽を目深に被っていたが五十歳代前半のような顔立ちの男だった。現奘には黙って部屋まで通すようにと伝えられていたので家人はそのまま何も尋ねることもなく現奘の部屋にその男を案内した。

案内して間もなく家人が紅茶を持って室内に入った時には『後で呼ぶまで二人きりにしてくれ』と現奘が手話で伝えたため二人を残して部屋を出たのだという。中にいる二人の様子は現奘の態度から当初感じた昔からの知人という様子ではなく初対面のようだったと家人は言った。

ともかくセキュリティーシステムに残っていた訪問者の画像は不鮮明だったので、家人から訪問者の似顔絵も作った。『キャンガンの星』についてはそれが何であるかを家人は知らなかった。また駆けつけた後継者の勢奘にも聞いたが『キャンガンの星』の意味を知る門徒は彼自身も含めていなかった。

『キャンガンの星』とは一体何なのか。この言葉一つで大宗主の大邸宅の厳重なセキュリティーシステムが解除されてしまうほどの効果のだから最重要なキーワードと思われた。我々捜査本部は周辺付近の不審人物の捜査の他にこの『キャンガンの星』の意味を探り当てようとした。芦屋の現奘宅のある周辺は高級住宅地が多く、昼間は閑散として人通りも少ない。はっきり言って目撃者を探すのは困難を極めた。

私は部屋に残されていた古いアルバムと古い手帳に手がかりがあると思い、それらを押収して調べてみた。アルバムには現奘の若き頃の写真が収められていた。現奘が殺害された時点では私は現奘が真山嘉平なる男とは思っていなかったので、なんの疑いもなくそのアルバムの時間の流れを信じたのである。その意味では真山が現奘と入れ替わる際に施した数々のごまかしは完璧と言えた。手帳は戦争から復員してきてからの真現教再興に至る経過が書かれたものだった。フィリピンのルソン島で終戦を迎えた彼はそのルソン島で神の啓示を受けたというような意味の記載があった。


私はフィリピンのルソン島に何かキーワードが隠されていると思い立ち、県立図書館に行きフィリピンの大地図を開いた。ルソン島はフィリピンの北方に位置する大きな島である。太平洋戦争時日本海軍が全滅したフィリピンのレイテ島はすぐ近くにある。戦時中、東南アジアにおける最後の砦のような存在だったのがフィリピンのルソン島である。しかし戦況の悪化と共に日本軍は追撃してくる米軍から逃れるためルソン島南部から北部山岳地帯へと追い込まれていき、そこで終戦を迎えた。

地図には細かいアルファベットで地名が記載されていた。私は拡大鏡を持ってルソン島で日本軍兵士として現奘が移動したと見られる南部地区から北部の山岳地区に向かって地図をじっくりと追った。そして遂にルソン島北部の山岳地帯に『Kiangan』という文字を発見した。

「これだ」と私は叫んでしまった。

静かな館内だったため何人かが私の方を訝しげに視線を向ける気配を感じた。しかし私の目は眼下の文字に釘付けになっていた。スペルからは『キアンガン』と読めるが、実際には『キャンガン』と呼ぶのかもしれない。現奘が戦争中に居たであろうルソン島北部の地に違いなかった。思い出深い土地の名前を聞かされたことで現奘は自宅のセキュリティーシステムをたやすく解除させたのだろうかと私はその時思った。ただ土地の名前だけでセキュリティーシステムを解除するだろうかという疑問も同時に湧いてきた。それを解く鍵は『星』の方だろう思った。

しかし『星』とは何か?『キャンガン』は場所であると確信できたが、まだ思いつきでしかない。私は捜査本部へその事実を報告したが、フィリピンという遠隔地を言ったため突拍子も無い思い付きだとされてしまいあまり重要視されなかった。

そのうち兵庫県芦屋市で起こった事件の三ヶ月ほど前に大阪府池田市で一人暮らしの老人が何者かによって絞殺されたという事件が大阪府警から捜査本部にもたらされ関連性を検討せよとの指令が出た。私は池田事件の目撃者である堺絹代に芦屋事件の犯人の似顔絵や全体の姿絵を見せた。

彼女の証言によると容疑者は野球帽を被っていたため顔ははっきりしないが全体の雰囲気は似ているという。芦屋事件の犯人も野球帽を被った訪問者だった。さらに現奘が殺害された部屋にあった二人の日本兵が写った写真のうち一人は池田事件で殺害された貝塚元信だと分かった。もう一人の写真の主は真山と写真上に記載はあったが当時はどのような人物であるかが分からなかった。写真から貝塚の指紋が検出されたため、この写真が池田事件の現場にあったと結論付けられた。この時点で芦屋事件と池田事件は同一人物がなんらかの関与をしているとの結論が下された。

さらに芦屋の事件と池田の事件で犯人は指紋を残していた。手袋もしないで侵入すると指紋が付着して、それが動かぬ証拠になるくらい常識と思えるのだが、この犯人は何らかの理由で故意に指紋を残して自分の存在をアピールしているのかもしれなかった。しかし芦屋と池田の事件で共通して見つかった指紋は過去の事件に関わる人物の指紋とは一致しなかった。いわゆる前歴者ではなかった。

一方で真現教大宗主が殺害されたニュースはマスコミによって大きく取り上げられた。真現教自体の評価は、えせ宗教集団、詐欺宗教集団、女性の敵の宗祖など悪意に満ちた報道の方が多かった。虚実入り混じった表現であったが、センセーショナルに民衆の関心を引いていた。そして同時期に起こった殺戮宗教集団による事件と混同して報道するマスコミもあった。


手詰まり感が出てきた時に、真現教の幹部信徒の一人で遠藤園子という女性が似顔絵に似た男をこの八月に大阪府吹田市にある真現教本部会館の展示室で見たという情報が我々のもとに入ってきた。

我々は早速、遠藤園子が勤める真現教本部に出向いて彼女に会い話を聞いた。遠藤園子は肥満した体付きではあったが五十代の割には若い印象を与えた。そして真現教の幹部信徒らしく大宗主の死で喪に服している最中だった。八月に展示室を訪れた男とは三十年以上も前に出会ったと言うが氏名までは知らなかった。当時、岐阜市内にあった町工場でその男は働いており彼女が真現教への勧誘活動をした相手で、工場の場所については断片的に思い出せる場面がある程度で具体的には何も記憶に残っていなかった。

三十年前というと真現教の中で『消悦帰依の修行』が盛んに行われていた時期にあたるため私は彼女の話の歯切れの悪さの中に容疑者が彼女の修行の相手の一人ではなかったのかと疑いをもったが真相はつかめなかった。ともかく敬愛して止まない大宗主のためにと名乗り出てきたという。

遠藤園子の話から、その男は真現教展示室で何らかの理由で真現教の何かを調べていたようだったが詳細は分からないという。しかし最終的に現奘大宗主の死という結果をもたらした。しかし、その後は似顔絵に似た男を見たという新たな情報も無く捜査は再び手詰まり感を残したまま数か月が過ぎた。


 平成十三年四月十四日土曜日。夜十時半過ぎに真現教幹部信徒の遠藤園子から捜査本部に電話がかかってきた。たまたま捜査本部に残っていた私が応対した。展示室で見た男を今夜のテレビ番組で見たというのだ。難波テレビが特集している『隠れた偉人』という番組で、ゲストの一人にその男が呼ばれていたと言うのである。この番組は他局が放映しているプロジェクト何某のコピー版とも言えるものだが、こちらの方は関西地方に限定して各分野で特に優れた実績を上げた人を紹介する番組だった。

卓上電子計算機の開発秘話を話す時に呼ばれたゲストがその男だというのである。名前は日光電子機器株式会社研究開発部長の上泉長太郎だった。

「私が知っている男性ですが、本当に大宗主様をあやめた犯人ならば是非捕まえて罰を与えてください」と遠藤園子は私に訴えた。

我々はすぐに行動を開始した。難波テレビ局へ事情聴取、日光電子機器株式会社への連絡、そして唯一の目撃者である芦屋の旧真田現奘宅の家人にも真夜中だったが訪問して入手した上泉長太郎の写真を見せた。

「この男性です」写真を見るやいなや家人は答えた。

これで『キャンガンの星』という言葉を手段にして真田現奘宅を訪問してきた人物は上泉長太郎だと私は確信した。チャンスは努力を惜しまない者に忽然と現れるものであることを改めて実感した瞬間だった。俄然、捜査本部は慌しくなったのであった。

 すでに兵庫県川西市にある彼の自宅には刑事と警察官の六名を張り込まさせていた。日曜日の未明、私は若い部下澤田刑事を伴って上泉長太郎の自宅を訪ねた。重要な参考人扱いとしての訪問だった。そこは丘陵地にある閑静な住宅地であった。彼は眠そうな顔をして玄関口に出てきた。私と歳はさほど変わらない印象があった。五十歳をいくつも出てはいないだろう。顔は柔和にして体つきはがっしりとしていた。しかし似顔絵の顔とは印象が違っていた。遠藤園子や現奘の家人でなければ似顔絵の本人かどうか疑いをかけることはできないと思った。

私が兵庫県警の者だと言っても特に動じる気配は無く「一人暮らしでむさ苦しいが」と断りながら応接室に我々を招き入れた。突然の訪問を詫びてから、今抱えている事件について一通り説明をしてから『キャンガンの星』について何かご存知ですかと率直に尋ねた。

意外にも彼は直ぐに「知っております。私も最近になって知ったのです」と半ば観念したかのような表情で話し始めた。

『キャンガンの星』とは自分の亡くなった父の前妻が所持していた星柄ペンダントにしまわれた金庫の鍵の意味で、戦争中フィリピンで真山達四人の日本兵が共謀して前妻から奪い取り、前妻はそこで受けた暴力が原因で亡くなった。そして日本に帰国した後、父が亡き妻の無念を晴らすために復讐をしようとしたが、二人まで復讐を果たしたものの残りの二人までには遂に行きつかなかった。そして自分が父の遺志を受け継ぎその思いを果たしたのだという。そして今は達成感というより精神が虚脱した状態が続いており、いつ警察が自分を捕まえにくるかと不安な日々を送っていたという。意外なほど素直に犯行を認める話をしたので、私達はそのまま本署に同行させて、すぐに逮捕となった。そして現奘殺害当日の日の詳細な話が続く。

芦屋にある現奘の屋敷での現奘との対談では、現奘は初対面にも関わらず何の屈託もなく話をしてくれたらしい。体こそ不自由で思うように動かせない状態になっていたが、八十歳とは思えないほどのしっかりとした「言葉使い」で鮮明なる記憶を語ったという。そう現奘は世を欺いて戦傷が原因で声を出せない状態になっていると言い続けていたのだ。それは戦争から復員した際、旧信徒達に自分が真の現奘と入れ替わった事実を知られないための手段だった。

現奘は当初「キャンガンの星」と言って家人に取り次ぐように言って来た訪問者をフィリピンで一緒だった兵隊の一人がやってきたのだと思ったようだ。しかし実際に現れたのは自分が思っていた以上に若い男性だったので現奘は驚いた。上泉をじっと見つめていた現奘は「上泉さんの身内かな?」と尋ねたという。長太郎の姿に遠い記憶の中にある上泉勇太郎の面影と共通したものを感じ取ったようだ。

現奘はキャンガンの山奥の小屋での出来事については決して長太郎の父の前妻聡子を暴行しようとしたのではなく前妻の実家の金庫の鍵が付いていた星柄のペンダントを奪いとるのが目的だったと主張した。

「お父上は私達を強姦魔のように思っていらしたのか」と言ったまま現奘は絶句したという。やがて「しかし結果的にご夫人の服を破損してしまい瀕死の状態の彼女に屈辱的な行為をしたのは事実です。戦争中の混乱していた時期の出来事とは言え、誠にすまないことをしました」と長太郎に素直に詫びた。さらに現奘は次のように付け加えた。

「私が創作した『イソホーン・ナグナイック』という念仏は『キャンガンの星』を持っていた上泉聡子さんを追悼する思いを込めて作ったものなのです。そしてその『キャンガンの星』の鍵は今でも本部の展示室で大切に保管してあります」

長太郎はかつて父がその日記の中で「『イソホーン・ナグナイック』と念ずれば救われるという教義が世の中を小馬鹿にしていて腹立たしい」という感想を書いていたのを思い出した。その念仏言葉が実は父が愛した妻聡子を追悼する意味があったのだから運命の悪戯として片付けるには悲し過ぎる父の感想だったと述懐した。

その一方で今は誰も証明しようのない父が愛してやまなかった妻聡子への真山達の本当の行為が巧みに隠ぺいされている疑念を払拭できなかったとも言っていた。

上泉長太郎は真田現奘が実は真山嘉平であると判断した理由については一切語らなかったが、代わりに意味ありげにメモ用紙に「キャンガンの星→Kiangan no hosi」と書いた。そして我々捜査官に見せながら「これを逆から読んでみて下さい」とだけ言った。我々は彼が言うように逆から読んでみた。そして初めて長太郎が真田現奘は真山嘉平であると確信した理由を理解できた。それはあまりにも単純すぎて、何故長年に渡って信者の間で念仏として利用され続けたのかと驚かざるを得なかった。

 真山嘉平は勇太郎夫婦との経緯を上泉長太郎に話し終えると自分の終戦後の収容所生活から帰国の船の中での真田現奘との出会い、そして彼との入れ替わりについて語り始めた。更に帰国後キャンガンの星の鍵を使って野村家の金庫から勇太郎の妻聡子のためにと残されていた財産を持ち去った話や自分が如何にして真現教を全国区的に発展せしめたかの長い話を始めた。伝えておきたい内容をあらかた話し終えるとかなり疲れたのか現奘こと真山嘉平はウトウトと眠り始めた。その時に上泉長太郎は犯行に及んだという。


長太郎にとって父の前妻聡子は見たことも無ければ聞いたことも無い存在だった。それにも関わらず何故彼は父の遺志を受け継いで犯行に及ぶ気になったのであろうか?

それは自分の受けた幼少期から青年期にかけての不遇の人生体験と唯一家庭を夢見させてくれた女性との別離の元凶がまさに真田現奘こと真山嘉平なる男とその仲間達だったからではないだろうか。

愛する妻を殺害された父親の勇太郎の復讐は一人を死に至らしめたが一人はその家族を思いやって命までは奪わなかった。そして老いた現奘こと真山の懺悔を聞けば勇太郎であれば真山の命も奪う気持ちは失せていたかもしれない。それに引き換え長太郎は残った二人を、それも余命幾ばくも無い老人二人を殺害するという最も罪深い手段で復讐を遂げた。長太郎には自分の父の遺志を受け継ぐという理由より自分の恨みを晴らす意味の方が強かったのではないだろうか。

それにしても不遇であったからこそ築き上げてきたはずの今の地位を無に帰するような決心を敢えて何故したのか私には理解できないでいる。

彼は人の命の重みを五十余年の人生の中でどのように捉えていたのであろうか。私は「眼には眼を、死には死を」という復讐の構図を心情的には理解しようとはするが、それを解決の手段として使うのには断固として反対する立場をとる人間である。

 私は犯罪者を見るたびに、何が彼をそこまで思い募らせたのかをとことん突き詰めて考えるようにしている。そしてその度に出てくる言葉が因果応報という言葉である。この事件はまさにそれであったろう。

<回顧録:真現教大宗主殺害事件終わり>


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