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キャンガンの星  作者: 足立 和哉
10/12

十 うず潮さわぐ淡路島北銀嶺の但馬路と(その1)

『佐々木純司兵庫県警刑事部長回顧録から:真現教大宗主殺害事件』

昭和二十年八月十五日。日本が米国連合軍に対して敗北宣言をしてからも真山嘉平中尉らはフィリピン、ルソン島北部のキャンガンの山奥に潜んでいた。その頃には米軍の迫撃砲や空爆は収まっていたが、地元ゲリラとの間での多少のトラブルがあったという。やがて九月に入り山下総司令官から最後の命令が下された。

「武装を解き、下山せよ」というものであった。

 一旦下山し集合した後、マニラの南方にある捕虜収容所に移送される。真山はキャンガンの山中の小屋で元旅館経営者上泉勇太郎の妻聡子から仲間の兵士達と共謀して奪い取った星柄ペンダントをポケットから取り出し、中に収納してあった鍵を取り出した。その鍵は上泉勇太郎の妻聡子の実家にあって多額の金が保管されているという噂のあった金庫の鍵であった。真山はなんとしてもこの鍵を持って日本に帰国したかった。真山はその鍵を靴下の下に仕舞いこんだり軍服のほつれた部分を利用して埋め込んだりしながら連合軍に見つからないような工夫した。

 トラックの荷台に乗せられ列車の駅まで移送される際に、沿道に群がる地元住民達が「ドロボウ」、「バカヤロウ」等と日本語で口々に罵り、そして石まで投げつけてきた。その一つがトラックの枠椽の間から飛び込んできて真山の顔面に命中し左目の上から出血した。

トラックから鉄道の貨物車に乗り換えた後も住民からの投石は止まなかった。わずかな隙間から飛んできた鋭角になった石にまたしても真山は当ってしまった。今度は喉の付近をえぐる様な形で投げ込まれた。以来真山はほとんど声を出せない状態になってしまう。

 収容所では山奥の小屋で鍵を奪いとった仲間の貝塚、村山、彼杵と一緒になった。将校の真山のテントは別にあったが会って話はできた。無事に日本に帰りつけば、その鍵を利用して大金を得ようと日本で会う時間と場所を決めて再会を誓いあった。真山が持っている金庫の鍵が果たしてどのような宝物を真山達に分け与えてくれるのかは全く未知であった。ただ漠然とした日本へ帰ってからの頼みの綱になりそうな、一種の安心の糧のようなものだった。しかし帰国した後、その鍵を使うためには見も知らぬ民家に侵入する犯罪行為をしなければならず、そしてその行為がどのような結果をもたらすか迄はその時彼らには思い至らなかった。

 瀕死の状況下にあった上泉夫妻はキャンガンの山小屋の中でそのまま死んだものと彼等は信じていた。そして彼らはその鍵を上泉勇太郎夫人の持っていた星柄ペンダントと山小屋のあった地名にちなんで「キャンガンの星」という合言葉で呼んだ。そして定期的に集まってはまだ見ぬ宝の話に夢を語り合った。そうやって語り合うことがただ時間を潰すだけの退屈な収容所生活の息抜きでもあった。そしてキャンガンの星は彼らの希望の星だった。

 真山の帰国が四人の中では最も遅れたが、真山は最後までその鍵を隠し通した。真山が帰国の途についたのは昭和二十一年の二月だった。輸送船の船倉は狭く、復員する元兵隊達でごった返していた。しかし戦時中フィリピンに渡航する際に不安に慄かされた敵潜水艦からの魚雷攻撃を心配せずに済んだのが、どんなに船が揺れようとも安堵できた。真山の顔にはケロイド状態になった傷跡がまだ生々しく残っていた。まともな治療がされなかった投石によって出来た顔の傷痕である。さらに喉に受けた傷のため声は相変わらず出にくかった。顔面の傷が痒くなるとどうしても掻いてしまう。掻いてしまうと又傷が出来て悪化するという悪循環を繰り返していた。

 輸送船の中で少し傷口が膿んできて熱ももっていた。真山は船倉の一角でひたすら体を休ませていた。治療の手段を知らぬ傷ついた野生動物が敵から身を潜めながらひたすら眠る事で傷の回復を待つように真山は静かに横たわり続けた。

 真山の隣にもやはり苦しそうに寝ている男がいた。マラリア熱と船酔いによるものらしい。それよりも体全体の衰弱が著しい状態であった。瀕死の容態と言ってよかった。

「大丈夫か」あまりに苦しむその男をみて真山が思わずかすれた声で話しかけたほどだ。

 その男は弱々しい手振りで自分の雑嚢を指差し「中から経典を取ってくれ」と言った。

真山は「真現教妙蓮歌」と書かれた薄手だが、かなり読み込まれた小冊子を取り出してその男に渡した。 彼は自分は真現教という宗教を主宰している創始者で真田現奘だと名乗った。まだ小さな集団であるがいずれは全国に行脚して人々を救世していきたいと真山にしてみれば夢のような話をし出した。そして静かに妙蓮歌に記載してあるお経を読み始めた。苦しいのかその声は弱く途切れがちであった。真山には現奘がマラリアによる高熱にうなされ忘我の世界をさ迷っているようにも感じた。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と合間合間につぶやいているので真現教とは浄土宗系の他力本願の一派であろうと真山は思った。

 現奘は日に日に衰弱した。日本近海に近づくにつれて激しい冬の荒波を船は受けるようになり揺れが一段と大きくなった。その波の衝撃が与える影響は大きく現奘に最期の決断をさせた。

「念仏を唱えるだけで人は救われます」現奘はある夜、真山に言った。

「私はもうだめかもしれない。故郷で待つ私の信徒達に私の状況を伝えてください。そしてこの妙蓮歌を渡してください。そこには戦争中に私が悟った様々なものを書き残してあります」

確かにその妙蓮歌と題した小冊子には印刷された文章の余白のあちらこちらに現奘の筆跡でびっしりと書き込みがされていた。

 真山に後を託した現奘は静かに目を閉じた。眠るというよりも意識が無くなってしまったようだ。そして翌早朝には船倉で息を引き取っていたのであった。

 真山は現奘と会話をするうちに体格も顔立ちも自分が現奘に似ていると思っていた。ただ声の質だけが明らかに違っていた。真山は帰国しても帰るあてがなかった。故郷の広島は原子爆弾により焦土と化しているとも聞いた。両親、兄弟とも広島市内に住んでいたので、恐らく生きてはいないであろう。手には「キャンガンの星」と呼んでいた鍵があった。何か生まれ変わった気でやってやろうと漠然と真山は考えていた。そして瀕死の現奘と人生を入れ替わる計画を思いついたのだった。

 現奘が最後の言葉を発した後、意識を失っている夜中の内に真山は自分の雑嚢や名前の書いてあるものを上着やズボンも現奘のものとそっくり入れ替えた。誰もが寝静まっている時間にその行為は慎重にかつ大胆に行われた。

翌日昼には現奘の遺体は水葬とされて海の底深く沈んで行った。しかし、それは真山嘉平元中尉として水葬された。輸送船の中の人員確認はかなり混乱しており、それも真山に幸いした。

 かくして真山嘉平は真田現奘として復員した。そして彼はマニラ時代に聞いていた丹波笹山にある上泉聡子の実家、野村家に向かった。貝塚ら三人は既に帰国しているはずであったが、彼等との約束は無視したのである。彼らとの再会の約束はこの年の十二月まだ十カ月もの猶予があった。

 現奘と入れ替わって生きていくと決めた以上、真山にはそれなりの資金が絶対に必要だと思った。真山はどれだけあるか分からない資産の独り占めを謀った。夕方に列車は到着したが、町はすでに暗くなっていた。二月の風が骨身にこたえた。野村家は駅から一時間近くも歩かねばならなかった。当時復員兵が大勢いたとは言え、田舎道を夜暗い中一人で歩いているような復員兵はいない。人通りはないとは言え、一旦見つかると村中の評判になってしまうだろう。真山は足音すら立てないように慎重に歩みを進めた。夜間行軍はフィリピンにいた時に何度も経験していたのでお手のものだった。

 野村家は大きな敷地であったので、真山はなんなくその敷地内に入り込んだ。そして床下に潜り込んで作戦を練ることにした。ともかく今日一日疲れてしまったので床下で復員直後に手渡された毛布一枚にくるまり、ぐっすりと寝入った。

 翌日、真山は夜明け頃に目が醒めた。寒さが体に染み渡っていた。真山は床下から家の中の音をじっと聞いていた。そのうちに日も明るくなり始め朝餉の用意の始まる音がした。やがて何人かの声と外に出かける音がした。

 更にじっと佇んでいると野村家の中は閑散とした。主だった家人は外に出かけて家の中は留守になっていると判断した真山はその隙を狙って家に入り込んだ。縁側が開けっ放しになっていたのでいつ家人が帰ってくるか分からなかった。土足のまま縁側に上がり、家の中の間取りや調度品などを確認して回った。

 真山は台所に残っていた朝餉の具のほとんどない味噌汁を一気に飲み干し、お櫃にわずかに残った飯をしゃもじですくって夢中で食べた。少しは飢餓が満たされた状態になった。

奥の和室に入った時はさすがに驚いて足がすくんだ。薄暗い部屋に布団が敷かれており老婆が寝ていたのである。熟睡しているようだった。おそらく寝たきり状態になっているのであろう。真山はそっとその部屋の襖を閉めて、次の部屋に進んだ。家屋はかなり広く、途中もし家人が帰宅したとしても真山一人が隠れるには十分だった。やがて、北側の納戸に入ると、そこには嫁に行った娘の写真などが飾られていた。木目込み人形もたくさん置いてあった。ここの主人が愛娘を偲ぶ部屋だろう、そして真山はこの納戸に金庫があるに違いないと思い戸棚や床下を慎重に探した。戸棚の奥に隠すように小型の金庫が見つかった。これが上泉勇太郎の妻が言っていた金庫だと直感した。

 小型の金庫ではあったが持ち運ぶには真山一人では無理であった。嫁に行った娘がいつでも取り出せるようにとの配慮からかダイアル付き金庫ではなかった。真山は「キャンガンの星」と呼んでいた鍵をその金庫の鍵穴に合わせてみた。難なく鍵は回り、金庫の重めの扉が開いた。真山は中を覗くと固まりのようになった大きな茶封筒が二つと小さな箱が一つ入っていた。茶封筒の中には紙幣が小箱の中には宝石が数十個入っていた。真山はその輝きからみてダイヤモンドであろうと思った。真山は雑嚢の中にそれらを仕舞い込み、屋敷を後にした。結局、真山は野村家の家人の誰とも遭遇せずに金庫の中身を盗み出すことに成功した。必要の無くなった鍵だったが真山は自分の大切なお守りとして「キャンガンの星」も大切に持って出た。野村家から逃走した真山の行方はその後しばらく修行の時代を迎える。

 昭和二十五年の春、突如、真山は真田現奘として表舞台に現れた。戦前は摂北の能勢の山中に真現教の道場があったが、真山が戦後そこを訪れた時は既に廃虚と化していた。そこは全国に布教する根拠地とするには全くふさわしくない場所だった。真山がどのような形で旧門徒達に自分を真田現奘であると信じ込ませたのかは今となっては謎だが、真山には彼自身も知らなかった宗教家としての素質が潜んでいたようである。

 野村家から奪い取った金品を資金として様々な活動を展開して、やがて象徴的な本部道場を大阪の吹田市に移転新築した。当初は信徒も金の力を借りて集めていた。

 さらに復員直前に死亡した真田現奘が戦前に作成した「真現教妙蓮歌」とは別に真山は現奘が戦争中に書き記した手記、帰国の船中にて現奘が真山に手渡した妙蓮歌に書き込まれていたものを基にして真現教の新教典として「南方赫雨」を作り上げた。基本は念仏を唱えれば人々は救われるという他力本願の念仏教の一種であり、死んだ現奘の理念とそう変わるものではなかった。「真現教妙蓮歌」では「南無阿弥陀仏」の文字が随所に出てくるが「南方赫雨」では「イソホーン・ナグナイック」という言葉で置き換えられている。

 この念仏言葉は現奘が太平洋戦争中フィリピンで突如として啓示を受けたとされているが、実際は真山が真現教の新体系を作り上げる際に真山自身が象徴とした物をイメージして作り上げたものだった。 

彼の宗教活動自体には違法性は認められなかった。ただ信徒の家で数名が集まり、黒衣を着た儀式を行い、他人からみると訳の分からぬお経を唱えていたために周辺住民からは薄気味悪がられていた。さらに全国展開するにつれて周辺住民とのトラブルも表面化し、住民運動に発展した地域もあった。

 さらに女性信徒の一部が妊娠堕胎を繰り返しているという噂が立った。昭和三十年代後半から約十年に渡り「消悦帰依の修行」と称してある条件を満たした女性信徒に禁欲修行に明け暮れる男性信徒の性のはけ口としての役割を果たさせていたり、男性信徒を入信させるための手段として性的行為をさせていたりした。社会的には大いに問題ではあったが、閉鎖的な宗教団体社会の中で行われたその行為は洗脳された女性信徒自身が修行として納得して実行していたため犯罪としての立証は成り立たなかった。世間的な批判から宗教団体のイメージダウンにつながるとして自主的に消悦帰依の修行はある時点で無くなった。

 怪しげな宗教集団ではあったが一部の人々の感性を虜にしたのも事実で一定の規模を保ちながらその宗教団体は現在に至っている。

 真田現奘こと真山嘉平は敗戦直後の捕虜収容所への移送の際に地元住民から受けた悪意の投石で喉を潰してしまったため言葉を発することは出来なかった。最初の頃は彼の講話は手話もしくは筆談で行われていた。やがて「語り部」と呼ばれる真現教内の職種が出来た。語り部は現奘の声無き声をしっかり聞き分けてそれをはっきりとした言葉に置き換える事ができる限られた人々であった。語り部の存在が真現教の全国布教の弾みとなったのは言うまでもない。彼の行く先々に語り部の二、三人が常に随行していた。

 また現奘は生来のアイディアマンであった。資金調達の手段として様々な業種に手を出し、宗教活動外でも営業成績を上げ莫大な利潤を得ていた。ハンバーガーや牛丼のファストフードの全国チェーン展開、コンビニエンスストアの展開、健康食品や一般用医薬品販売業、更には病院経営など外食産業から医療業界に至るまで幅広い分野に手を染めていった。熱狂的信徒がいるため真現教の宗教団体としての基盤は磐石に思われた。しかし平成大不況の影響を受けて、大きな負債も抱えるようになりいくつかの業種から撤退せざるを得なくなった。丁度その頃にあたるが平成七年七十五歳の時に現奘は宗主の座を後継の勢奘に譲った。 

 そして自らを大宗主と名乗るようになる。大宗主となっても真現教の経営や運営に口を挟むものと思われていたが、完全に自宅に引きこもった生活を始め第一線からは身を引いてしまった。

第二代宗主となった勢奘は現奘の実子ではなく養子という噂がある。勢奘は現奘の引いた路線を引き継いで宗教活動を進めていたが、その頃から真現教信徒による霊感商法が始まり出した。バブル崩壊後に負債を抱えるようになった真現教の苦肉の策であったのかもしれない。それは勢奘の直接の指示によるものらしく勢奘のしたたかな人間性が顔を出し始めていた。

 以上の話は次に記載する現奘殺しの真犯人上泉長太郎からの事情聴取の結果と我々の調査した内容を合わせてまとめたものである。


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