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キャンガンの星  作者: 足立 和哉
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一 プロローグ

 平成十二年七月十五日(土曜日)。梅雨明けが待ち遠しい蒸し暑い七月の夕暮れだった。両側に古い木造二階建ての長屋がある狭い小路を男は歩いていた。太平洋戦争が始まった頃には既にその長屋はあったというから築六十年は経っているはずだった。玄関先のかろうじて確保された地面に盛りを過ぎた紫陽花の木が植わっている家の前で男は立ち止まった。

「ここかな」男はつぶやいた。

 表札らしき物も無い玄関の脇にある前世代的な変色した白いブザーのボタンを押した。単調なブザー音が家の中に鳴り響いていた。しばらく待ったが返事は無かった。隣の家からは魚を焼く煙と香ばしい匂いが漂ってきた。斜め向かいの長屋の台所の窓から六十代ほどの女性が眼を細めながら叫ぶように言った。

「そこの家は耳がよう聞こえんから、待っても無駄だよ。戸を開けて中に入って声かけたらええわ」

 男は野球帽の庇を下げた。その女性に礼をするような素振りにも見えた。

「確かに耳は悪くなっているかもしれんな」そうつぶやくと男は玄関の戸を開けた。

 古い戸の割には意外なくらいに軽く開いた。そして後ろ手で静かに戸を閉めると中をうかがった。上がり框から短い廊下があり、奥に畳の部屋が二部屋くらいありそうだった。

 直ぐ左脇に便所があった。空き家であるかのような静けさが漂っていた。男は履いていた靴を脱がずに廊下に上がった。右手にある台所は殺風景な風景だった。小さな冷蔵庫と流し台の傍にガスコンロが置いてあるだけで、食器棚すら無かった。物のすえたような匂いが漂っていた。排泄物の匂いも少し混じっているようだった。

 一番奥の和室に入ると薄汚れた敷き布団の上で老人が男を背にするようにして寝転んでいた。歳の頃は八十歳前後という雰囲気だ。男は老人の傍に腰を下ろして顔をのぞき見た。

初めて人の気配を感じた老人はゆっくりとその男の顔を見て「おおー」と突然の訪問者に驚きの声を上げた。そして布団から起き上がり片足を伸ばした形で胡坐をかいた。足が相当不自由そうであった。

「貝塚さん。私の顔を見て誰だか分かるかな?昔一度会っているのだが」男は老人の名前を大きな声で呼んで話しかけた。

「どなたさんかな。最近は耳も遠くなったし、物覚えも悪くなってな」不思議そうに老人は男の顔を見た。

男はそれには答えず、和室の奥にある小さな仏壇を見た。その中に二枚の写真があった。男は立ち上がると仏壇の前に行き、合掌をしてからその内の一枚を手に取った。そこには軍服を着た若い男が色褪せて写っていた。

「これは貝塚軍曹、で、す、ね?」

 男はその写真を老人に見せながら、ゆっくりと老人に問いかけた。

「わしの若い頃の写真だ。出征する前に撮ったものだ」枯れた表情で老人は答えた。

「キャンガンの星」と男は老人に向かって言った。

 明らかに老人の顔が曇った。男はその表情を見て貝塚が何かを覚えていると思った。

「キャンガンの星を覚えていますか?貝塚軍曹」さらに男は問いかけた。

「何十年振りかに聞く言葉だ。懐かしい言葉だったか、忘れたい言葉だったか」

 老人は呆けたような顔をしながら何かを思い出そうとしていたが、やがて俯き加減の姿勢のまま低い声で話し始めた。

「大東亜戦争でフィリピンに居た頃だった。雨の日が続いていたが、夜の山中で雲の間から星が瞬いている時があった。熱帯雨林の葉陰の中でそれはきらきらと瞬いていた。あれが南十字星だと誰かが言っていたな。きれいだったが、わしらは敵から逃げるのに精一杯だった。ゲリラもわしらを悩ませていた。わしらは戦う気力はもう無かった。使える武器すらもう無かったからなあ」苦しい思い出だったのか老人の目は潤み始めていた。

「ある日、落合大佐から命令を受けたわしらは獣道のような山道を連隊本部のある小屋まで歩いて行かねばならなくなった。途中、日本兵や民間の邦人の死体がごろごろと転がっておった。鼻をつく死臭が周囲に漂っていたな。今でもその臭いが鼻の奥底の方でへばりついておる」老人は近くにあったティッシュペーパーに痰を吐いて包んだ。

「そのうちに樹林に囲まれた山の斜面に窪地を利用した草葺の小屋があるのを見つけた。夕方になり雨も降っていたので、わしらはその小屋で一夜を過ごそうと考えた。そこには敵の追及から日本軍と一緒に逃れてきた邦人もいたな。薄汚れた姿の夫婦連れだった。確かマニラ郊外にあった日本旅館で働いていた夫婦だったはずだ」老人はもう一度思いにふけった。

「そうだ。キャンガンの星というのはその女が持っていた指輪に付いていた宝石のことだったかもしれん。それともペンダントだった?」

 その時、男は老人の話の腰を折るようにゆっくりと、しかし大きな声で二名の人物の名前を言った。

「上泉勇太郎、上泉聡子」

 老人はゆっくりとその男の方を向いた。

「そうだ。それはその夫婦の名前だ。あんた、一体誰だな?」

 老人は明らかにその二人の人物を思い出したようだった。二人の間に長い沈黙の時が流れた。男にとっては次の行為の決断を確信に変えるための、そして老人にとってはその男と二人の名前の人物との関係を考えるための時間であった。

 俄かに周囲が暗くなりだし、雷鳴と共に激しい夕立が降り出した。それを合図とするかのように男は両手を上げた。夕立の音はその男の行為から発せられる音を完全に消し去っていた。

開け放した窓から雨が吹き込み、見る見る畳を濡らして行く光景を男はしばらく眺めていた。そして急に思い出したかのように貝塚軍曹の写真の奥に立てかけてあったもう一枚の古ぼけた写真を手に取った。そこには貝塚軍曹ともう一人の軍服を着た男が写っていた。その男の軍服には中尉の階級章が付いており、その写真の下には「真山」という文字が色褪せたインキで書き込まれていた。

 男は真山と書き込みのある写真を胸のポケットに仕舞い込むと、布団の上で全く動かなくなった貝塚元軍曹に合掌をしてから部屋を出た。そして、野球帽を更に目深にかぶり直し、玄関にあった傘を手に取ってから激しい夕立の中を走り去っていった。


 翌日、元軍曹貝塚信元が自室で死んでいるのを斜め向かいに住んでいる老婦人が発見した。彼女は昨日、貝塚の家の訪問者に声をかけた唯一の人物だった。

「私ははっきりこの目で見ましたよ。野球帽を目深にかぶった体格の良い男やった。でも歳は五十は越してたみたいやね。決して若くは無かったよ。近所じゃ見かけない人やね、顔ははっきり見なかったがね。あんな雰囲気の人は近所にはいないよ」

 堺絹代と名乗ったその老婦人は警察の事情聴取で開口一番にそう言った。結局、未確認の指紋が幾つか出た以外は何の物的証拠もなく、また堺絹代以外に目撃者も見つからず、さらに貝塚自身に身寄りも無く本人の状況も掴み切れないまま事件は未解決のまま経過しそうな状況になっていた。

 都会の片隅にある古い長屋の中で行われた高齢独居老人の殺人事件は、直ぐに人々の記憶からは忘れ去られてしまった。


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