やっと100%~彼女の予想していない1%
瞬くと、炬燵の対面で黙々と家計簿をつける柊がいた。
首だけ出してコタツガメになっている三太は、のっそりと手を出しマグカップを煽る。
「柊ちゃん。お湯沸かして」
焼酎を注ぎ足すと手を引っ込める。
そこだけは素早い。
「今日はもう三杯目ですよ」
視線も上げずに彼女は言う。
「だってもう注いじゃったもん。これで最後だから」
その言葉に柊は彼を見下ろす。
体はひと回り小さいが正座で姿勢を正している彼女と背を丸め炬燵に顎を置く三太では、彼の顔の方が低く位置していた。
ペンを置き、柊は三太に真摯な眼差しを向ける。
三太は唇を突き出してそれに気づかないふりをした。
「これが最後ですからね」
ため息交じりにコタツに手を突くと、彼女は立ち上がった。
テレビも見飽きていた三太は、ただの興味本位で目に入った家計簿を素早く手元に手繰り寄せた。
特に何を知りたいと思ったわけではない。
本当に暇をつぶすために、規則正しく書かれた収支表を眺めた。
付き合い始めて七年の月日が経っていた。
柊に財布を預けて間も無く、彼女は家計簿をつけ始めた。
一年に一度新しいノートに替えるようだから、家計簿も七冊か。
年末で分厚くなったそれを見て、三太は改めて過ぎ去った時を思う。
「俺ってちなみに、今、どのくらい貯金あるの」
特段の興味もなく訊いた言葉に、彼女は眉を顰める。
「どうしてそんなこと聞くんですか」
「どうしてって、ただ気になっただけだよ」
「また騙されてなんかいやしませんよね」
思いのほか身構える柊に憤りを感じて、三太は少しムキになる。
「なんだよそれ、自分の貯金額を訊くのがそんなにおかしいかよ」
「あなたがお金の話をする時なんて、ロクなことないですから」
割とまじめにそう告げられたものだから、
「俺の何を知っているんだよ」
と彼は一層口を尖らせた。
「もうあなたのことは99%わかっているつもりです」
当然のように彼女はそう告げる。
【あなたのことは99%わかっている】
それは最近の柊の口癖だった。
「古女房みたいだ」
棘のある言葉に柊も応戦する。
「あなたが一人だと貰った分だけ使っちゃうんで私が管理しているんでしょうが」
そう言って彼女は家計簿を取り上げた。
「わたしは今後のために、お金があるに越したことはないと思って貯めているんです」
「今後? 今後ってなに?」
三太の質問に柊は一瞬、答えを詰まらせる。
「あーやだやだ。折角の独身なのに、こんなんじゃがんじがらめの既婚者と変わらないよ」
沈黙の苦し紛れにそんなことを嘯くと、彼女は眼光鋭く彼を射抜き、焼酎のコップを炬燵に叩き置いた。
「あっちあっち! 何しやがんだ!」
顔に付いた焼酎を必死で拭うダメ男を気にするそぶりも見せず、柊は自室へ引き上げていったのだった。
★☆★☆★☆★
「———って感じなんですけど、なに膨れてんすかね」
助けを求めるように事情を説明した三太は、二人のキューピッドでもある行きつけの居酒屋の女将に訊ねた。
「それってあんた、自分でわからないの?」
「何が?」
「今後のことの意味」
「今後?」
「そう。二人の」
「え? 二人の?」
そう言われてもなお彼は思い当たる節を見つけられない。
どうしようもなく鈍い男に思わず溜息をつき、女将は温まった燗の汗を拭い、カウンターに差し出す。
三太はオートマチックにそれを持つ———。
「ぅわっちあっち! ちょっとこれ、メチャ熱いじゃないですか」
熱がる彼に女将は鋭いガンを飛ばす。
「柊ちゃんを不幸にしたら、私が承知しないからね」
そしてドスの効いた声で客を脅した。
訳がわからないまま怖がる彼を尻目に、何事もなかったように女将はコップを磨き始める。
それに透かしてどこか遠いところを見ながら、一つ溜息をする。
「あんたたち、何年付き合ってるんだっけ」
女将はわかりきった質問を向ける。
「えーっと……」
「もう七年でしょ」
「知ってるじゃないですか」
「そして今度のクリスマスイブで八年」
「そうですね」
「八年よ?」
「はい」
恐るおそる手にした燗を傾け、お猪口を啜る三太は、興味ないように受け応える。
「それについて考えたこと、ないの?」
「考えたことって?」
「……あんた、柊ちゃんのこと、都合のいい女とでも思ってるでしょ」
そう言われ、都合のいい女について頭を振り絞る。
「で、何が言いたいの?」
彼は本気でそう問い掛ける。
悪びれず。
女心について期待はしていなかったはずの女将だったが、目の前のあまりにもどうしようもないダメ男に開いた口がふさがらなかった。
「本当にわからないの?」
「あー、おれ、本当にわかってない」
三太は認めてニッコリ笑う。
悪い人間では決してないのだが、さすがに腹が立つ笑い方だ。
「ならはっきり言うけど、あんた、結婚について考えてはいるの」
彼の中で、結婚という言葉が店内を反響し鼓膜の奥に落ち着くまでしばらくかかった。
それが飲み込まれたのは、途端に眉間にシワを寄せ首を傾げる仕草から確認できた。
「こんなに長く付き合っていて、まさか、考えていなかったなんて言わないよね」
女将は有無を言わさず念を押す。
男の顔に、全く考えておりませんでした、という言葉が張り付いているのを知りながら。
「あんた、柊ちゃんがどんなにいい子でも、いつまでも待っててくれるなんて限らないからね」
突き放す言い方をして女将は相手の表情を窺う。
そして彼の頭が盛大に空回っていることを確認する。
「こんなこと言いたくないけど、あんたは言わないとわからないからはっきり言ってあげる」
カウンターに顔を突き出して女将は三太の胸倉をつかみ引き寄せる。
「そろそろけじめ、つけた方が良いんじゃない」
鼻先が付くくらいの距離で言ってもなお、彼は戸惑った表情を浮かべた。
「けじめ?」
「まだわからないの? じれったい。プロポーズよ、プロポーズ。いい加減、結婚しなさいって言ってるの」
女将は真正面から吐き捨てるようにそう言った。
三太は結婚という言葉が本当に突拍子もない言葉に感じ、なおうまく飲み込めない。
「彼女。ずっと不安でいるはずよ。健気に待ち続けているみたいだけど、柊ちゃんも今年でもう三十の大台だからね」
「俺はもう三十―――」
「あんたのことなんてどうでもいいのよ」
どうせ見当外れのことを言い出すだろう男の言葉は容赦なく遮られる。
「とにかく、あんたは言われた通り、柊ちゃんにプロポーズしなさい。彼女の誕生日になる前に。必ず」
有無を言わさぬ女将の凄味にサンタは思わず首を縦に振ってしまった。
そうして彼はようやく掴まれた襟首を解放してもらえたのだった。
★☆★☆★☆★
俺も男だ。
やるときはやる。
きっとプロポーズを成功させて、柊をギャフンと?言わせてやるんだ。
三太は本当にそう思っていた。
思ってはいたのだが、そうしているうちに月日は流れ———。
———クリスマスイブ。
駅前広場のベンチに座り柊の帰りを待つ三太の姿があった。
彼は彼なりにこの日のプランを考えていた。
誕生日にかこつけて彼女を誘い出し、高級レストランで雰囲気を出してから二人の思い出の場所であるこのベンチでロマンチックなプロポーズする———。
ベタベタな展開でも、考えることの苦手な彼が必死で絞り出したシナリオだった。
淡い妄想が膨らむほど、緊張しいが抱える不安も巨大化していた。
「お待たせしました」
呼び出しておいて待つのが退屈になった三太を、彼女はいとも簡単に見つけ出した。
「よくここってわかったな」
彼は立ち上がり、不愛想に歩き出す。
「もうあなたの事は99%わかってますから」
また例の口癖だ。
付き合うことになった時は確か八割だったから、ずいぶんと見透かされてしまうようになったもんだ。
2009年から続く7年の月日を男は思う。
「それで、今日はなんだってレストランなんか予約したんです?」
三歩後ろからの問いに応えず、彼はズンズンと歩いていく。
「私、女将さんに年末の挨拶したかったのに」
ここ何年かはいつもの居酒屋で誕生日を過ごしていたから、柊が文句を言うのも無理なかった。
【プロポーズするまで来店禁止!】
しかし、行くに行けない理由があるのだとは言えるはずもない。
女将の一言を思い出しながら三太は溜息をついた。
プロポーズ。
長く付き合っている認識はあったが、全く考えていなかった。
しかし、すると決めた以上はしっかりしたい。
柊を喜ばせたいと考えれば考えるほど、頭は逆上せ、体は硬直していく。
「しかし、こんな人気のお店よく予約取れましたね」
店内の席に落ち着くと、柊はどこか嬉しそうに言う。
普段は肩肘張らないお店が好きって言っているくせに、オシャレなお店も満更ではない様子だ。
「どうせ、航太さんに頼みこんだんでしょう」
レストランで働いている高校時代の友人に無理やり席を作ってもらったことを見透かされ、三太は一息にグラスに注がれた水を飲み干す。
「オススメで」
オーダーを取りに来たウェイターにメニューも見ずそう言うと、彼女は含み笑いをして見せる。
「なんだよ?」
「料理も頼んでおいたんですか?」
「なんで」
「だって、あなたが悩まないで決められるなんて、ないじゃないですか」
そう言われ、その通り過ぎてぐうの音も出ない。
【あなたのことは99%わかっている】
柊はまたそんな顔をして笑う。
だからこそ、柊の予想していない1%をしてやろうと三太は思ったのだ。
彼女はきっと、自分が煮え切らないのを半ば諦めた気持ちでいる。
もしかしたらずっとこのままでいいとさえ思っているかもしれない。
自分だって、彼女を不幸にしたいわけがない。
柊には、幸せでいてほしい。
俺がプロポーズすることで、こいつが喜んでくれるなら———
女将に脅されたからだとは口が裂けても言えないが、いい機会だと自分に言い聞かせた。
柊は出された料理を旨そうに、上品に口に運んだ。
自分に見せないだけで、彼女にはそれなりの知識と教養があった。
慣れないナイフとフォークの扱いに苦戦しながら、しなやかなその手付きに感心してしまう。
こいつは、本当は俺なんかにはもったいないのかもしれない。
今までことあるごとにそんな疑問が三太の脳裏に過っていた。
リケジョで数字に滅法強く、大抵のことはパーセンテージで表せる。
それで、その割合は大抵ピタリと当たっていたりする。
性格も大人しく、でも自分の意見はしっかりと持って、信念は曲げない。
少々お堅い嫌いはあるが、それ以外は特段、弱点のようなものは見当たらない。
見た目もよく見ると悪くないのだ。
そんな彼女が、どうして何の取り柄もない自分なんかと。
高校の先輩後輩という関係が土台なだけで良く続いたなと7年の月日を思ってしまう。
柊が自分のことを大切に想ってくれているのはわかっている。
でも、一生を添い遂げたいかなんて、三太には想像もできなかった。
それでも彼は、柊と結婚する以上に別れるというイメージがどうしても浮かばなかった。
自分の中の選択肢に彼女と離れ離れになる道がないことだけは明らかだ。
口数少なく食事をする中で、三太はそんなことを考えていた。
ない頭が空回りするばかりでせっかくの高級レストランの料理の味も満足に味わえない。
「一つ確認したいことがあるんですが」
白身魚の上にあしらわれた正体不明の葉っぱを食べるべきか悩んでいると、質問が飛んでくる。
「なに?」
思い切って口に放り込んで咀嚼すると、正体不明な味が広がった。
「借りてませんよね」
「何を?」
「お金」
「なんで」
「だって、ここ、高かったでしょう」
柊は三太が高級レストランで食事をするだけの貯えがないのではないかと疑いの目を向けた。
「ちゃんと払ったよ。先に航太にこれでやってくれって頼んだから大丈夫だよ」
それならいいですけど、という彼女の言葉に信用がないように思えてムッとする。
「信じてないだろ」
「いえ、今の言い方は嘘ではなさそうです」
正体不明の葉っぱを避けながら柊は言った。
「ごちそうさまでした。今日は無理言ってすいませんでした」
柊がウェイトレスより丁寧に頭を下げ礼を言っていると厨房から航太が顔を出してくれた。
「あれ、柊ちゃん。今日は気合入ってるね」
爽やかな笑顔を向けられ、彼女は否定もせずはにかむ。
「航太さん、お金足りました?」
言いながら財布を取り出す柊を彼は制す。
「もらった分だけきっちりサービスしといたから大丈夫だよ」
「またこの人、直前に無理言ったんでしょう?」
「さすがに一週間前にクリスマスイブの予約を取ってくれと言われたらキツイよな」
否定せずに航太は苦笑いする。
「でもサンタがここに来たいって言うことなんてそうそうないから今回は頑張ったよ」
そう言って彼は三太の肩を叩く。
「しっかしお前、びっくりするくらいスーツに着られてるな」
そして悪びれずに笑う。
「お前が着て来いっていったんだろ」
「そりゃそうだろ。じゃないとお前、下手したらジャージかなんかで来るだろ」
さすがに俺でもそれは、と言おうとしたのを尻目に、後ろで柊は深く頷いて同意していたりする。
「お前ら、俺の何がわかるって言うんだよ」
その問いに二人は顔を見合わせた後、
「大方わかってるよ」
「私は99%です。いつも言ってるじゃないですか」
と当然のように答えた。
二人のわかったような態度が腹立たしい。
だが、恐らく当たらずも遠からずで反論もできない。
「二人してわかったようなこと言いやがって」
居たたまれなくなった三太は精一杯の強がりを吐いて店を飛び出したのだった。
★☆★☆★☆★
怒りとやるせなさが綯い交ぜになって三太の頭の中を堂々巡りしていた。
わざと速足で歩く。
柊はそれを咎めず、時折小走りをしてついてくる。
街路樹にクリスマスのイルミネーションが今朝降った雨露に滲み、柔かに灯っている。
気が立って荒くなっていた歩幅も、色とりどりの光を見ていると落ち着いてきた。
どうして俺は、こんなんなんだろう。
三太は悲しくなってきた。
すれ違う若いカップルみたいに、歩く姿が様になるような背丈が欲しかった。
キザな言葉を言っても笑われないくらいの顔が欲しかった。
柊を喜ばすことができる甲斐性が欲しかった。
「あー、やめたやめた」
三太は駅前広場に着くと例のベンチに座り、ネクタイを外す。
「やっぱり、俺には堅苦しいところは向いてないわ」
ネクタイを手渡しながら柊に笑いかける。
無理やり笑顔を作ることくらい俺にだってできる。
それでも彼は、彼女の真摯な視線を受け止めきれずに俯いた。
「ごめんな、こんな男で」
そう言った傍から広間の時計台の時報が鳴った。
「———あ、ちょっと待ってて、すぐ戻るから」
三太は思い出したように駆けていき、言う通りすぐに戻ってきた。
「これ」
その手には、束ねられたカスミソウが握られていた。
「予約してあったんだよ。八時には閉まっちゃうって言われてたから、焦ったけど間に合った」
「どうして?」
「お前、昔、この花が好きって言ってたんだぜ?」
三太は照れ隠しにそっぽを向く。
「付き合って七年経ったから、七本」
そしてその本数を数えてから、柊の前に差し出した。
「というのは建前で、レストランで金が尽きてこれしか用意できなかった」
一見華やかさに欠けるその花束を、彼女は抱きかかえるように大切に受け取った。
「ついでに言っちまえば、金がなくて指輪の一つも用意できなかった」
すまん。
そう言って彼はベンチにストンと腰を下ろす。
気の抜けた三太とは裏腹に、はっと柊は息を飲んだ。
「……今のって、もしかしてプロポーズですか」
言われて初めて自分が核心に触れていたことに気付いた。
彼はなんと応えていいかわからず狼狽する。
そしてどこまでもダメな自分に嫌気が差して、肩を落とした。
「すまん」
その一言を絞り出すだけで精一杯だった。
プロポーズが聞いて呆れる。
自分にはそんな甲斐性なんてないのに。
うまくやろうと思ったバチが当たったんだ。
三太は不甲斐ない自分を弱々しく笑った。
すると彼女は三太の隣に座り、徐にピアスを外し始めた。
「あー疲れた」
柊は起伏を抑えた平坦な声色を出した。
そう言えば航太も今日の柊は気合が入っていると言っていた。
よく見ると普段より化粧も濃いような。
アイラインを吸った黒い涙が流れるなんてよっぽどだ。
「背伸びするのってやっぱり疲れますね」
彼女は無理に笑って大袈裟に伸びをする。
そして鼻水を流し、ボロボロになった顔を三太に向ける。
「私やっぱり、普段どおりが一番いいです」
その声色は、確固たる響きをしていた。
「あなたといるのが楽なんです」
彼女はそう言って、カスミソウの花束を抱いた体を三太の方へ向け直した。
「先輩?」
「ん?」
「サンタさん」
「はい」
「あなたは私を、ずっとありのままでいさせてくれますか」
そして柊はそう問うたのだった———。
☆★☆★☆★☆
「———やっと100%になりました」
帰り道、三太のコートのポケットに繋いだ手を入れた柊は言う。
「なに? ついに俺の考えていること全部わかるようになっちゃったわけ?」
彼は半ば本気で怯えながらそう尋ねる。
「そんなワケないじゃないですか。さすがに全てわかるわけじゃないですよ」
笑って答える柊は、彼女に似合わず、どこか夢見心地に頬を緩めている。
「じゃあ、何が100%になったの」
何の気なしに三太は訊く。
すると彼女は握る手に力を込め、空を仰ぐ。
「幸せ」
柊は応えながら、昇っていく白い吐息を見守る。
「幸せ?」
「そう。幸せが100%になりました」
そして噛み締めるように呟いた。
三太は身を寄せる柊を受け止め、一緒になって夜空を眺める。
「ちなみに今までは!?」
ふとした疑問を疑問のまま口にしてしまう。
「訊くんですか? 幸せ80、不安80……」
「不安80!?」
二人はそうやっていつも通りの軽口を叩きあいながら、僅かになった特別な時間を共有したのだった。