恋愛相談
以前投稿したものの、焼き直しになります。
「えーと、モツ煮込みと熱燗2本ねー。銘柄? んーと、うん、それで」
さぁて、本日のご相談はなんざんしょ。
「はーい、それでは乾杯でーす。ゴチになりますー」
ぐびり。
「うまいっすねー。やっぱり冬は熱燗に限りますね。くぁー、染みるなー」
空きっ腹にはたまらない、ベストの温度の熱燗にモツ煮込み。おっさんくさいとは思うが、冬になると食べたくなってしょうがないのだ。文句あるか。
腹の虫をなだめる前に酒だけを進めてしまうと、明日がきついことになる。
そんなわけでモツ煮込みにがっつき、眼鏡を湯気で白く染めて、また一杯。たまらんねー。おごりだと思うと、特になんとも言えないわ―。
「で、佐々野課長。今回はなんですか?」
モツ煮込みと熱燗代くらいは話聞きますよ?
赤ちょうちんでさしむかい。しかも、テーブルの上にはお銚子とつまみの皿。男と女がこんなシチュエーションで酒を飲んでいたって、色っぽい話とはそうそう思われないのではないだろうか。
いや、逆に深い仲と思われるかもしれない。ぐぇ、それはちょっと。
□■□ □■□
佐々野課長と酒をたしなむようになったのは、去年の夏が初めてだった。
お盆進行って印刷関係以外でもきついよね。なんて言いながら、目の前の山をこなしていた夏。佐々野課長はあまりにも様子がおかしかった。
大きなミスこそないものの、普通だったらやらないだろうポカをたまにやる。それも、一番困るタイミングでやらかす。
おかげで、課長から稟議に回すようにと言われた書類には、何度も確認しなくてはいけない。面倒だ。
くだらん仕事を増やしやがって、呪われてしまえ。なんて思ったのが悪かったのか、長時間の残業に腹の虫が盛大に苦情を申し立てていたのを聞きつけられた。
「葛岡……キリがついたか?」
「まぁなんとか目途は立ちましたね。最終確認を明日の朝一でやってもらったら大丈夫です」
「なぁ、葛岡氏」
「………ナンデスカ?」
単純にこの人が名前に「氏」をつけるときには、ろくなことがない。今回もそうだった。
「恋愛相談乗ってくれ」
「ハァ?」
「お前さん、焼き菓子だとか珈琲豆だとかトイレットペーパーだとかで色々相談を受けてるらしいじゃないか」
「まぁなんか、話しやすいタイプらしいですけど。トイレットペーパーでは受けてないです。さすがに」
「晩飯おごる。酒も明日に響かない程度に好きに飲んでくれていい。ただし、他言無用だ」
「……拒否権は?」
「とりあえず、盆の休みがなくなる覚悟は持ってもらいたい」
「タチ悪ぃなー」
「さっさとパソコン落とせ、残業時間が多いって組合がうるさいんだよ」
「へぇへぇ」
とりあえず夏だしビールのうまい店がいいです。それに合う料理がいいですねー。などと言ってみたら、韓国料理店に連れてかれた。
夏だというのにアツアツのチゲ鍋をつつきながら、ビールを飲む。うん、辛いのとビールの苦みがね、ベストマッチだね。
「さて、課長。もう少し酒を飲んでから話しますか。それとも、素面のうちに恥をかきますか?」
「何で恥をかくって決めてかかってるんだ」
「大体において、恋愛なんぞ自己の羞恥心との闘いですよ?」
「……そのままで聞いてくれ。ただし、本当に他人に言うな。他の人間に話が回ったら、お前の来季の契約はない」
「了解しました」
やっぱり、有期契約が延長されないとお財布がきつい。ここは静かに貝になりますとも。
いい感じで熱の通ったもやしと豚肉のハーモニーを楽しみつつ、耳は傾けた。たとえ、そうは見えなくても。
「その……とある筋から縁談が来ててな。まぁ、恋人もいないし付き合う分には問題がないといってもいいんだが……相手がな」
「蛇蝎のごとく嫌われましたか」
「違う。好かれてる。油断すると戸籍謄本を請求されて、いつの間にか婚姻届を出されるくらいには」
「……愛が、重たいです、ね」
「強引なのも困ると言えば困るが。とりあえずは聞きわけがいいんでどうにかなってる。問題は……相手の子が、10代でな」
「……」
「おい、何か言え」
「………」
目の前にあったチヂミをタレにくぐらせ、口に突っ込む。なんか口に入れてないと、とんでもない言葉を吐きそうだ。来月のお給料は大事。
課長の視線にあえて応えずに、ビールを飲む。あー、マッコリもいいな。だけど、この店は小さめとはいえ壷で来るから2人じゃな、5人はいないと飲みきれないしもったいないね。
「おい!」
「ロ、のつく人だと思われたんですか、課長」
「ロリでもペドでもないと思われてるはずだ。何で選ばれたかっていえば、相手の一目ぼれだとよ」
「おめでとうございます?」
「何で疑問形なんだ」
「いや、ねぇ。このまま結婚したら裏でなんて言われるかわからないけれど、よく言うじゃないですか『求められて嫁に行くほうが幸せだ』って」
「俺は男だ」
「いえ、まぁ何処の何方のお嬢さんなのかは置いときましょう。でも、わかるのは……課長が断れない程度には相手のほうが強いってことですかね。婿入りルートがぼんやりと見えるようですよね」
「……」
「最早既定路線、と言っても過言ではない気がいたしますが。まぁ、どんな相手と結婚しても、言いたいことを好きなように言う人ってのはいるもんですよ?」
「わかっちゃぁいるんだがな」
「それとも、仲のいい同期との間にヒビが入りそうなのが怖いんですか? 自分だけいい目を見るみたいで後ろめたい、とか」
「それも、ある」
ふむ。とりあえず冷め始めた鍋の具をさらい、ビールを飲み干す。ブザーを押し店員に締めのご飯とビールのお代り、ついでにタコキムチを頼む。
どうせ課長が全部持つと言ってんだ、ダイエットなんぞ忘れてしまえ。
テーブルの上に残っていた蒸し豚をチシャにくるんで、辛みそをつけて咀嚼する。ニンニクも入れたかったけど、確実に明日臭いからやめとこう。
何となく沈黙したままのテーブルの上で、鍋にご飯と卵が投入され、いい感じになっていく。焦げたのもうまそうだけど、焦げる前にまずは一口。
「あ、旨い」
「そらよかったな。俺は食欲が吹っ飛んだよ」
「それはダメですよ。私一人でこの量を食べたら、明日は一日野菜ジュースだけで過ごさなきゃならん事なります」
「過酷なダイエットで体調壊されると、仕事が回らなくなるんだがな」
「なら食べてくださいよ。早くしないとお焦げを通り越してマックロクロスケのなりそこないになりますよ」
「なりそこない。ねぇ」
「食べて食べれないことはないんでしょうけどねぇ」
「腹壊すから食うな」
「へぇ」
追加のタコキムチをつつきつつ、ビールをゆっくりと飲んでいく。
辛みが強い、これにはビールよりも韓国の焼酎のほうが合いそうだ。まぁ、それでも悪くはない。
鍋の火は止めた。粗方食べてしまったし、それに、焦げさせるのが目的ではないから。
「嫌いじゃないんだよ。でも、失うものの方がかけがえがないと思えてしまって、動けない」
「……キツイことを言わせてもらえば、友達にだって家族はいますし、いざとなればそっちを優先しますよ?」
「それでも、俺がしんどい時に支えてくれた連中と、距離ができるのは苦しくてな」
「それじゃ、断ります?」
「あ?」
「やっぱり年齢差がありすぎて、人間性を疑われそうだ。とか、仕事上の付き合いに差しさわりが出る。とか。いくつか言いわけはあるでしょう」
「簡単に言うなぁ」
ため息を誤魔化すように、ビールを口にする。がっしりした苦味は好きだ。人生みたいで。
目線を合わせる。真剣に。背中を押してほしいのなら、そうしてやろうじゃないか。崖の下まで突き飛ばしてやるよ。
「でも、ちゃんと話さないとダメですよ。俺には認知してませんが、娘が一人います。って」
――ねぇ、お父さん。
思い返すほど思い出というものはないが、私は彼の娘である。
ちなみに彼が生物学上の私の父になったのは、17歳の時である。私が大学卒業と同時に彼のいる会社で働きだしたので……あら、今年で40歳。不惑かよ。
母親は、当時17歳だった。若すぎる二人の……あれやこれは、両家に相当の動揺と嵐を巻き起こしたそうだ。
決してアヤマチではない。私は自分がアヤマチの結実であるとは、思いたくない。
ともかく母は高校を辞め出産し、働きだし。私は0歳児の時から保育園に預けられ、祖父母宅に預けられ、夜は一人で寝た。母は深夜の掃除のアルバイトまで掛け持ちしていたからである。
物心がつくころには、我が家というのは特殊なんだと実感していたものの、父親が必要であるかは全く分からなかった。
なんせ生まれた時からいないのだ。ある程度は「家族」というくくりの中に存在していてくれなければ、必要などうかすらわからない。
とりあえず母は幸せな生活をしていると思う。再婚したし。
私には「自分の子供です!」なんて言ってもいいくらい歳の離れた弟もできた。可愛いことは可愛いが、どう接していいやらよくわからない。
母の再婚した親父さまというのは、豪快な人だ。私と初めて会った時にも「親父と呼んでくれ!」とのたまった。
その背後で頭を抱える母とあちら側のご両親が見えたが、とりあえず悪い人ではなさそうという感想を持った。
まぁ、とにかく。現在というくくりで考えれば、それなりに幸せに生きている私らではある。
それとは反対なのが、課長でもある、父だ。
私を認知してないことからもわかるように、家族とはもめにもめたらしい。高校もとりあえず転校させられて、全寮制の学校に突っ込まれたとか。
もとからあまり良くなかった家族関係はその時点で断絶し、そして現在に至る。そうだ。
なんというか、金の心配がなかっただけいいんじゃない? と思ってしまう。お金は大事、とりあえずないとすごく泣ける羽目になる。
そこそこの大学を出て、それなりに名の通った会社に勤めだした……父? は、それなりに出世していた。
とはいえガツガツ仕事をしていたわけではないので、スピードはゆっくりだったようだが。
人生に膿みつつも、まぁどうにか生きていたところに私が入社したわけだが、すぐに彼は私に気付いたわけじゃなかった。
名字も違うし、そもそも生まれた私の顔すら見せてはもらえずに転校させられたそうで。
そのうえ、母と没交渉だったため私の写真すら持ってない。これで自分の娘だと一発で分かったら逆に怖い。
私は私で「あなたの娘です」なんて言う気はさらさらなかった。第一名乗ってどうする。何をしてもらいたいわけじゃない、今は血のつながり以外何も関係はないのだ。黙ってたほうがいいことだってある。
しかし、なぜだか私は彼の部署に配属された。どうやら、私の存在を知っている同期の人が手を回したらしい。そしてその人は、母とも友人だったとか。
……余計なことをしやがって、と思わなかったとは言わない。
ともあれ、上司と部下という関係性は非常に居心地がよく、このまま契約更新を重ねていくのも悪くはないかもしれないなどと思っていた。
実際にはそんなことはできないのだろうけれど。
家族だって「働き方は1つじゃないよ」だの「体を壊さない程度に働いたらいいよ、ずっとウチにいればいいじゃない」などと言ってくれている。なんとありがたい。
仕事をしている時の父はともかく、煮詰まったり追い込まれると人間としてどうよ、という状態になる。
デスクワークのみで済むようなときには、ネクタイはだらしなくない程度に緩め、そのシャツは何日目だよと言いたいくらいにはくたびれたシャツなんぞを着てくる。
おかげで、なぜだかワイシャツのクリーニングまで私の仕事だ。公私混同も甚だしい。
そんなこんなでまったりと過ごしていた日々に、「父の恋愛相談」というあまり聞かない事態が飛び込んできたわけである。
愛だの恋だの言ってられるような歳じゃないことは本人が一番わかっているはずだ。
いわゆる社会人として、この年まで独り身でいるというのは余り褒められたことじゃないだろう。
そして、実は上のほうの人にそれなりに目をかけられているのを知っている。大体そうじゃなきゃ、あんなくたびれ果てた格好でオフィスを歩けるか。
今回の縁談は、いよいよ本腰を入れて出世させるための手段の一つなのだろう。
ご愁傷さま、と言ってやりたいところだが、下手を打てば私にも火の子が飛んでこないとは限らない。
血のつながった娘が反対したとか、そんな事実がなかったとしても都合よく解釈されて、挙句の果てに契約を切られたら生きていけなくなる。家族なんかも心配するだろう。
まずもって、私の上司が血のつながった父であるとは家族に話していないので、どうやって説明をすればいいのか分からない。親父さまなんて、会社に殴りこみにいくだろう。IFの話じゃない、あの人ならきっとやる。
そこまで考えて、デザートにやってきた一口サイズのバニラアイスを口に含む。さっぱりとした甘さがなんとも言えない。辛いのを食べた後にはたまらん染みる。
「課長、食べないんですね。いただきます」
「せめて一言断りを入れろよ、誰に似たんだ」
「遺伝子上はあなたと母とのハイブリッドなはずですけどね。性格形成にあなたは関わってませんし、きっと母と親父さまに似たんだと思われます」
「……いい人か」
「底抜けに。だってそうじゃなきゃ、唐突に『なんでぐれないんだ! 俺が改心させてやるのに!』とか、酒飲んだ勢いとはいえ言いませんよ」
「規格外の人だな」
「いい人なんで。ええ」
瓶の残りのビールをコップに注いで一気に干す。
恋愛相談とは言えないほど、あいまいにあやふやに終わりそうだが、それもありだろう。
父親として、彼を呼べたのだから。それで全部チャラにしてくれよ。
それがたとえ戯れな呼びかけであったとしても、親父殿すら「お父さん」とは呼びきれていない私からすれば、圧倒的な快挙だ。
課長として彼を見ていた。
でも、心のどこかで「父親」としても見ていたのだろうか。
ささやかな仕事のフォローや叱責も、他の上司たちと同じだと思っていた。でも、それは本当なのか?
「まぁ、すぐに結果出さなくてもいいんじゃないですか?」
「そうだな……相手方も高校卒業してからの話で。とか言ってるしな」
「は?」
ちょっと待って今この人なんて言った?
「いやだから、高校卒業。言ったろ、10代だって。今高校2年だから、えーと、17歳になったんだっけか?」
うわ、まずったな、誕生祝いのプレゼント買ってないわ。などと課長はほざいている。
……昔の少女小説に奥様は17歳とかあった気がするけどさ。あれでも旦那は20代だったよな? え、ちょっと待って。子供としてもありえなくない?
脳裏では色々な言葉が渦巻くが、一向に口からは出てこない。
混乱。とはこの状態のことを言うんだろう。帰ってから風呂に入って人心地ついてから思ったが、勿論その時にはそんなことは思えなかった。
まず思ったのは。
「Mっ気でもあったんですか」
「なんでそうなる」
「だって……全くの他人が聞けば『政略結婚にしてもひどい』くらいで済みますけど、親しい人が聞いたら『変態』って思われます絶対。いやむしろ、そう思われたいとしか思えません」
「え」
「だって、その年で私が存在しているのすら微妙な出来事ですよ? その上さらにそこまで幼い娘を結婚相手にして愛していくって……ありえないというか、ロマンス小説でもコアなファン向けだと思います」
「そこまで妙か? 相手のお嬢さんってのは歳に似合わず色っぽい感じだけどな」
「……お写真などお持ちではないですか?」
「待ってろ」
確か自分撮りさせられた写真がスマホに。などと言いつつ、おぼつかない指先でスマホをいじっている上司を見て、酔いはすっ飛んで行った。
この人は……絶対的に自分がどう思われるか、なんていう部分がないんだ。
そうとしか思えなかった。
仕事が詰んでいるからと言っても、いい年をしたオヤジがくたびれた格好でオフィスを歩きまわり。
体が資本だと口にするくせに、昼ご飯はめんどくさいから食べないとか。更には夕食は酒でカロリーを取っているとか。
興味のある仕事は率先してやるくせに、めんどくさい仕事に手をつけるのは遅いとか(それでも締め切りには余裕を持って間に合わせてはいる)
全部、他人から自分がどう見られているかを少しでも考えていれば改善されるんじゃないだろうか。
つらつらとそんなことを考えながら、意地汚くコップの残りのビールをちみちみと飲んでいく。
さすがにもう1本は明日がきつい。
しかし何か口にしてないと間が持たない。
そんな相反する態度でそわそわとしていたら、課長はようやく目当ての写真を見つけたようだった。
これだ。と言わんばかりにスマホを差し出してくる。
とりあえず受け取って画面を見た。
――可愛いというより、ふけてるな。
それが第一印象だった。よくいえば大人びている。とても17歳とは思えないような女子力を感じる。
目が大きくてつけまつげの使い方が上手だ。チークも最近の子にありがちなほっぺた全体がピンクということもない、いい感じではいってる。
目元を控えめにしてあるからだろうか、唇はほんのりと赤が強い。しかし、嫌な感じはしない。グロスの具合が絶妙だ。
ぜひこの技術を教えていただけないだろうか。
そんなことを思うくらいには素晴らしい女子力だ。
……でも、待って。どこかでこの子……見たことがある?
これがギャルメイクだったりしたら私の思い違いということもあり得るのだろうけど、メイクの傾向は全く違う。
それに、彼女がしているネックレス……私、見覚えがある。
確か、高校入学のお祝いにって、買ってあげたのと同じ……そうそう、あれはそこそこいい値段がしたけど、デートの時につけていくといいかもなんて言った……
「……彩子ちゃん?」
「え、何で知ってるんだ?」
「えええ……だめですよ。ダメです、これはないわってーか。人間として失格ですって」
「ハァ?」
「いや私、この子が小さいころから知ってますけど。まだ恋とかそういうことを言いだすような子じゃないですって」
「待て待て待て、話が読めない。どういうことだ」
「どういうことも何も。この子、うちの親父さまが仕事でお世話になってる先の偉い人のお嬢さんじゃないですか」
「え。知り合いか!」
とりあえず握りしめていたスマホを空いているスペースに置いた。
ほんのりと暗くなっている画面をつついてもう一度画像を呼び出す。じっくりと見る……間違いない。
なぜか親父さま経由でうちの家族まで気にいられてしまって、年始のご挨拶だのなんだの色々と遊びに行っている。
そうだよ、この間LINEで嬉しそうに言ってたっけ。「恋人できちゃった」って。
歳が離れてるんだけど、押しの一手で行くんだ! とか言ってたから、ちょっと無責任に煽ったような、気が。
「いや、私の知ってる彩子ちゃんは恋に浮かれてるだけで、そこまで結婚とそれに伴う色々を真剣にわかってませんよ?」
「勢いだろうとは思うんだが……若いって、アレだ。怖いんだよ」
「ちなみに、どのような……」
「聞きたいなら言うが、一歩踏み外せばストーカーだ」
「わぁ」
げに恐ろしきは若さゆえの強引さ。と言ったところか。
課長から聞いたエピソードに、私は正直ドン引いた。むしろ、この人の貞操が守られていることを神に感謝したくなった。
まず、おはようからお休みのメールは当然。電話だって、2日に1回は昼休みにしておかないと鬼のようにかかってくる(ただし、20時ごろ)。
忙しくて課長からかけられなかったとき、2分おきの着信履歴に思わず背後を伺ってしまったとか。
出来る限り会いたいらしく、定時帰りの日なんか会社近くの喫茶店で出待ちされていて、そこのマスターには常連さん扱いをされているとか。
携帯のチェックとかはしないらしい。仕事内容に目を通すのを避けるためだとかで、そこは評価できるけど。
でもさー。
課長の隙をついて合い鍵を作って、家の中の掃除とか洗濯ものとかを勝手にやってるってのはいかがなものかな彩子ちゃん。
お姉さんが言ったのは「さりげないフォローがいいらしい」ってことであって、通い妻をしろといった記憶はない。
保存食を作ってたりはしてないらしい。ただいま修行中らしいので、目途が立ったらやりだすだろうけど。
「課長。家の中の物の配置が変わったりとか、彩子ちゃんとの話の中で誰にも話してない事柄が話題になったりとかしてませんよね? あと、最近何だか視線を感じてしょうがないとか」
「掃除してもらってるからなぁ、そこそこ変わってるが……話題ねぇ、そういえば死ぬほど忙しかった時に『コーンスープお好きなんですね。粒コーン入ってなくっても、美味しいのもありますよ?』って言われたなぁ。家では飲まないのに何で知ってるんだろうって思ったけど」
「ハイ課長、明日早出しますから机周りを大掃除させてくださいね!」
「なんでだよ」
「なんでわからないのかそっちの方がわかりませんよ!!」
これで家に大量のスープの袋が転がっていれば嗜好として分かったのだろうと思うけれど、会社でしか飲んでないのに何で知ってるんだ。しかも粒コーン入りじゃないと飲まないって。
私はお使いを頼まれるから知ってるけどね。
盗聴器調べるキットって、まだ電源ユニットの部分は生きてたっけ? もうとにかく、コンセントまで調べ倒すしかない。
そしてもしも、コンセントから何か検出されたら……ウチの課員の中に手下がいる。
ということを滔々と述べてみたところ、課長は鷹揚に頷いた。
「よきにはからえ。お前に一任する」
「なんで自分のことなのにそんなやる気がないんですか」
「俺にとって結婚なんてよく分からん。掃除も洗濯もやってもらってラッキーって感じだしな。ついでに言えば、こっちの趣味嗜好に合わせて行動してくれるのも、意志のすり合わせをしないでいいぶん楽だと思う」
「人間として最低限の危機感を持つべきだと思いますが」
「……一応、何の関係もなかった女に『あなたとの子供なの』って言われた時は弁護士を頼んだが」
「それは当然です。なんでまぁ、そこまでされないと動かないんですか?」
「めんどくさい」
阿呆か。思わずすべての気遣いを投げ出したくなるような、あまりにもあまりな一言に湧いて出た感想はそれだけだった。
なんだろう、ここまでこっちを心配させといてアンタなんでそんな……
この交際がうまくいっているとしたならば、それはすべて彩子ちゃんの献身(行き過ぎつつあるが)のおかげだろうと私は思った。
そして、ここまでの話を聞いていてぼんやりと思う。
ああ、母がこの人とお付き合いするきっかけが何となく読めてきた。
「結婚とか本当にめんどくさいんだよ。子どもだったら認知してないけど、お前がいるし?」
「………なんで母さんはアンタに惚れたのかすっごく分かりました。あの人のおせっかいの精神がさく裂したんでしょうね」
母のおせっかいはすごい。今は共働きだからまだマシだが、これが専業主婦だったら行き過ぎた過保護になってしまうだろうと確信できるほどだ。
ここまで徹底しためんどくさがり屋と、とことんおせっかい焼き。なんて言ったらいいんだろう、これこそまさに破れ鍋に綴じ蓋?
ともあれ、話はここら辺で切り上げたい。
段々と恋愛相談というよりもストーカー被害者に現実を理解させるような状況になってきてるし。
そして、一つ分かったことがある。
「課長、彩子ちゃんの恋愛からは逃げられないでしょうから。とっととご挨拶に伺った方がいいですよ」
「そうかぁ?」
「ええ。ご両親が反対したとしても、彩子ちゃんが課長を追い掛け回すのは止まらないと思いますし」
「でも、お前のことを話したら……それなりに反対されるんじゃないか?」
「そりゃぁそうでしょうよ。そこはうまく『家族に引き裂かれて、彼女がどうしてるかも知らなかった』とかうまく言っといてください」
「いやでもあの子だって、こんなオッサンに人生を賭けることはないと思うんだけどなぁ」
「本人がいいって言ってるんだからいいんですよ多分」
「そうかね」
そして課長はすっかり気の抜けたビールを飲み干して、勘定書きを手に取った。
約束通り奢ってはくれるらしい。結構飲んだから、いくらか持てと言われたら困るところだったので、助かった。
しかし、ひとつ問題が。
先ほどから目の前の課長の携帯が震えているんだけどね?
震えては止まり、また震えって……うん、どう考えてもアレだ。
課長ってば愛されてるんだな。うん、きっとそうだね。
「課長、お支払いの前に携帯に出られた方がいいですよ」
ええ、是非とも私の心の平穏のために。
こちらの促しでようやくスマホが震えていることに気付いたのか、立ち上がりつつ課長は電話に出た。
漏れ聞こえる声は、非常に穏やかで感情の荒ぶったところなど全く感じさせない。
こんな声で子守唄でも歌われたら、さぞや寝つきはいいだろう。
しかしそれも、課長の一言で崩壊した。
「ああ、娘と飲んでたんだ」
……今世紀最大の愚か者が、ここにいた。
とっさにカバンと上着を掴んで、靴に片足を突っ込んだ。これ以上は付き合いきれない。
きっと今晩のうちにLINEには彼女の絶叫が響くだろう。
そしてそれを見なかったことになんて絶対にできない。
そこまで覚悟を決めた私に、課長がスマホを差し出してきた。
中途半端に履いた靴の踵を踏みながら、大きく首を振る。――断る、絶対に出るもんか。
しかし目の前でスマホはゆらゆらと揺さぶられ、ついでに勘定書きも揺れ出した。
あーもー!
叫べることならば叫びたかったけれど、とりあえずスマホを手に取る。
適当なことを言って誤魔化したいけれど、それは無理だろうから覚悟を決めなくては。
「もしもし」
『初めまして。娘さんですか?』
「そうなります……生まれてからつい何年前までは没交渉でしたが」
『あの……本当に?』
「いずれ佐々野がお話しすることになると思いますので詳細は避けますが、わたくし、本当に佐々野の娘です」
『そうなんですか……』
気落ちしたような声がする。
いきなりの娘の登場にどうするべきか考えているのだろう。ここは思い切り突き放すしかない。
ここでうまく話を切らないと、そのうち会って話したいなんて言われたら……
「とにかく、詳しいことは佐々野に聞いてください。私は、あなたと佐々野の関係を反対も賛成もしませんので」
それだけ言って課長に返す。ここからは課長に労を取ってもらおう。
いい加減「めんどくさい」ことにも積極的になってもらわねば困る。血のつながりだけの父親の尻拭いなんて、絶対にお断りだ。
スマホを返された課長は何事かを話していた。日程が出ていたところからして、説明をする日を決めたのだろう。
私に火の粉が飛んでこなければそれでいい。
そう割り切って靴を履きなおした。
「葛岡」
「同席はしませんよ」
「ああ、それはいい。本人にはタイミングを見て話すから、それまでお前さんは知らない顔してろ」
「そうさせていただきます」
「……それにしても、結婚するってめんどくせぇなぁ」
瞬間、脳みそが沸騰するかと思った。
この人は。
「私ができたときにも、同じことを思ったでしょう? めんどくさいな、って」
「……わかるか」
「想像はつきます。だから母はあなたに何も言わなかったんでしょうね。あなたが私という存在をめんどくさいとしか思っていないと、感じたから」
母はおせっかいだ。そのせいか不思議と人脈が広い。世話した人と定期的にやり取りを繰り返しているからかもしれない。
そんな彼女が、たとえ生活が大変でも実父になるこの人に何も伝えようとしなかったというのは不自然だった。
私が彼のことを、彼がどんな学生だったのかも、どんな人柄だったのかも、そういうことを何一つ知らないのは母が話さなかったからだ。
おせっかい焼きではあるが、割り切りも早い母のことだ。めんどくさい、という言葉を聞いて彼を見限ったのだろう。
――彼をもう、愛せないと。
正しいかどうかなんてわからないが、なんとなくそこまで一気に思考が走った。
仕事人としての課長は尊敬に値する。
でも、彼を父親というポジションに据え付けることは、もうできそうになかった。
「いくらでも相談に乗りますよ。恋愛でも、結婚式でも」
「どうした、急に」
「でも」
大きく息を吸った。
目の奥がジンジンと痛くなって、うるんできそうなのがよく分かる。
それでも意地でも泣くもんか。
「もうあなたを、父とは呼ばない。娘として表舞台に立つのも御免です。それだけは分かってください」
「……」
「めんどくさい。ってあなたが言った生き物は、今日まで生きてるんです。生かしたのは母で、親父どので、弟で。とにかくあなたじゃない。そうやっていつまでもめんどくさがってればいい。何もかもが、あなたに添わなくなるまで、ずっと」
「それがお前の本音か」
「今まで、あなたという生き物を知らなかったから今日まで父親と見れました。でも、明日からはきっと無理です」
「わかった。お前は表舞台には出さない……転属願い、出すか?」
「くいっぱぐれるのは御免ですので、しばらくは出しません。ともかく。あなたはめんどくさいと切り捨ててきたことに、いい加減向き合うべきだと思います」
喋りながら、いつの間にか床を見ていた。
彼の目を、見ることはできなかった。
「切り捨てる方は簡単かもしれませんが。切り捨ててばっかりじゃ、何も残りませんよ」
それだけを最後に言って、深く頭を下げて背を向けた。
何がどうしてこんな愁嘆場を演じなければならないのだろう。
ひどく疲れていた。もう、帰ったら化粧を落として寝てしまおう。
そう思うのに、足はなぜか止まっていた。
店の明かりがまだかろうじて届くその場所から、私はそっと振り返る。
暖簾をくぐって出てきた課長は、私に目を留めると軽く片手をあげて去って行った。
――なぜだろうか、涙が出た。
□■□ □■□
次の日は気合で仕事に行った。
泣きじゃくるほどに泣いていたわけではないので、目の腫れもそんなになく、周囲には気づかれてはいないようだった。
単調な仕事をただこなしていく。
明日私がこの会社を辞めたって、きっとこの部署は回っていくんだろう。そんなことを考えた。
「課長、こちらの書類をお願いします」
喫煙室の中には課長が一人だけ。換気扇の力はおぼつかないのか、若干空気が煙たい。
差し出した書類にざっと目を通した彼は、一つ頷いて私に返す。
「このままで進めていい。それから、昨日の件だけど」
「私には関係ないと思いますが」
「本人連れてこいとは言われてないから安心しろ。その代り、どっかでコンタクトを取ってくる可能性はあるからな」
「承知しました。ただ、私は……」
「いざとなったら、俺を切り捨ててくれて構わんよ」
「ありがとうございます」
「また、相談に乗ってくれ……久しぶりに、しっかり目が覚めた気がするから」
会釈をしてその場を後にする。
あの涙の理由はまだ、判らない。
分からないうちからプライベートで飲みたいとは思わない。それでも、どこかでまた飲むことになるんだろうなとぼんやりと思った。
それでも、数週間もしないうちにまた相談会が開かれて、私はかなり彼の性格を引き継いでいると思ったりすることを、この時の私は知らなかった。