4.ヒーロー、見参す
翌日、陽が中天に至る頃、アイシャはヴィレッジまでやって来ていた。
機械馬を教会の側に繋ぎ、そのたてがみを軽く撫でた。アントーニファミリーの男が乗っていた馬が、今自分をここへ運んできた。随分と皮肉な偶然もあるものだと思った。
教会の周りには十数人の悪党どもが配されている。その全ての視線がアイシャに集中した。作業用のシャツに乗馬キュロット。そんな飾り気も何もない格好でありながら、彼女には人の目を引きつける何かが湛えられていた。
扉を開けると、教会内にはファミリーどもと、ヴィレッジの人々が既に詰めている。誰もが平服のままで、パン屋の女将さんに至っては麺棒を握ったままである。おそらくは日々の暮らしの最中、仕事の最中に無理矢理連れ集められたのであろうと思われた。
つまりこれは、姉弟の牧場までもがとうとうファミリーに屈した事を告げるセレモニーでもあるのだ。
礼服に身を包みぴっちり髪を撫で付けたトニオは、アイシャの姿を見て思わず口笛を鳴らした。
一晩の慟哭を経て、少女はまるでつぼみが花開いたかのようだった。それまであった幼さは姿を消し、ただ凛と美しかった。
ヴィレッジの人々にとって、その美しさは不幸を暗示するばかりだった。皆が重苦しく俯いていた。力には、銃口には逆らえない。シティの保安局を頼ったって、こんなところに兵を派遣してくれるまでどれほどかかるか知れたものではない。
結局のところ運命という嵐には、ただ頭を垂れて耐えるしかないのだ。
神父は神の言葉が記された書の表紙を撫でて嘆息した。書は無力だと思った。
女将さんは麺棒をますます握り締めた。その手は真っ白になっていた。
気の弱い雑貨屋のご主人は、ポケットボトルを取り出して酒を呷っている。この小心者はとても素面ではいられなかった。
靴屋の旦那はといえば、しきりに荒縄で縛られたまま参列させられているエリオットの様子を窺っていた。少年の頬には殴られた痕がある。何よりもその打ちひしがれた瞳の色が気がかりだった。旦那は自分の拳に目を落とし、己の無力を嘆いた。
「素直に来たな、アイシャ。アイシャ・ブラウン。いい子だ。では婚礼の式を始めよう。何、怖がる事はない。お前は初めてかもしれないがオレは慣れてる。喜んで、あー、第何夫人かは忘れたが、お前を妻に迎え入れ、あの牧場を引き受けよう」
壇上からトニオが差し招く。
アイシャは顔を上げ、胸を張ってそこまで歩いた。毅然とした態度を崩さない事だけが、自分に出来るささやかな抵抗だと思っている。姉ちゃん、と脇から細い声がしたが、敢えて無視した。
「ついでにもうひとつ、お前を安心させてやろう。オレの妻たちとお前が、家庭内の序列で揉める事はない。お前の前の連中は、皆不幸な事故で死んじまったからな。分かるだろうアイシャ。お前も俺の機嫌を損ねるな?」
酷薄に細まったその瞳が、お前ひとりの事では済まないぞと更に告げていた。
アイシャは毒蛇の視線をじっと見返す。そこに恐怖の色がないと察して、トニオはつまらなそうに舌を打った。腕を伸ばしてアイシャの手首を掴み、引き寄せる。
「さて、オレは長ったらしい儀礼が好きじゃない。おまけに神父様もこの仕事に乗り気じゃあないようだ。だから略式で行くとしよう。今からオレが三度訊く。異議のある者は三度目までに声を上げろ。上げる者がいなけりゃこの婚礼は成立だ」
壇上からトニオが教会内を睨めると、各所に配された銃持ちたちが頷いた。既にここは神の家ではなく、蛇の棲家に変じているのだった。
「一度目だ。トニオ・アントーニとアイシャ・ブラウンの婚礼に異議のある者はいるか」
ヴィレッジの人々が地面を見た。誰も面を上げられなかった。
「二度目だ。トニオ・アントーニとアイシャ・ブラウンの婚礼に異議のある者はいるか!」
ファミリーの悪党どもが声を上げて笑った。祝う意図ではなく、ただ嘲りだけが込められていた。
「最後だ。トニオ・アントーニとアイシャ・ブラウンの婚礼に異議のある者は──」
「──ここに居る」
アイシャが下を向きかけたその時、教会の扉が音を立てて蹴り開けられた。さっと逆光が差し込み、外の風が吹き込んだ。
そこにガンスリンガーが立っていた。
荒野を旅する者が身につけるブーツとマントは、手入れこそされてはいるが汚れ切っている。黒いカウボーイハットの鍔回りはぼろぼろに破れ果てている。
しかし彼のふたつの瞳は、燃え上がる氷のようにトニオを見据えていた。
「モンド!」
荒縄で縛られたままのエリオットが、喜色満面の声を上げる。アイシャが信じられないと瞬きをした。姉弟の無事を確認して、モンドは胸を撫で下ろす。
正味な話、この状況は彼にとっての想定外だった。
あの朝、牧場を出た後。モンドは自分の姿を見せつけながらこのヴィレッジを通過した。ホルスターには前日デブから奪い取った銃を、これ見よがしに差していた。
ファミリーの目が姉弟を離れ、ただ己のみに復讐を向けるようにとの算段である。そこで痛手を与えておけば、辺境のヴィレッジを食物にするような高の知れたファミリーだ。牙を失って大人しくなり、エリオットとアイシャに害も与える事もなくなるだろう。そう考えていた。
極々短い付き合いではあるが、モンドは溌溂とした少年と静かな毅然を湛えた少女とに好感と尊敬を抱いている。自分に出来る限りはしておきたいと思っっていた。
しかし一日が過ぎてもファミリーの動きは鈍く、現れた追っ手は予想以上に少なかった。
打ちのめし捕らえたその追っ手どもを問い質してようやく、モンドはアントーニファミリーの大きさと、その首魁たるトニオの目論見とを知ったのである。
そこからはただひたすらに馬を飛ばし、ガンスリンガーは今、ここに見参が間に合った。
「なんだお前は。おい、外の連中は何をしていた!?」
予想だにしない人物の登場に、ファミリーもヴィレッジの人々も、顔を見合わせざわついている。
場を制し、掌握しようと壇上で声を荒らげるトニオを無視し、モンドは姉弟を順繰りに見て、そして笑む。
「遅くなった。だが、もう大丈夫だ」
ヴィレッジの人々はガンスリンガーを知らなかった。しかしすぐに彼が姉弟の味方だと悟った。何故ならその笑みを見ただけで、エリオットもアイシャもふっと体の力を抜いたからだ。すっかり男を信頼し切っている風情だった。
「ああ? 大丈夫? 大丈夫だ? もう大丈夫と言ったのか、お前。目は見えているか? 目が見えているのか?」
トニオが手を上げる。それを合図にさっと彼をガードする位置へと集合したのは、ファミリーの誇る6人の腕っこきだった。何れも銃持ち、熟達の技量を備えたとっておきの精鋭だちだ。
「少しは状況が理解できたろう。これだけの銃を持っているのは、この辺じゃうちくらいなもんだ。即ちこれが俺の力で、荒野では力こそが全てだ。力があれば何もかもを自由にできる。男も、女も、人の生き死にもだ。理解したら這い蹲って命を乞え」
「銃が力で、銃が全てか」
「見て分かれ。その通りだろう」
唾棄すべきものを見る目でモンドは言う。勝ち誇った顔でトニオが応じる。
そして、不意に場の空気が張り詰めた。濃密な威圧感の為す業だった。人々はただ気圧されて、ごくりと生唾を嚥下する。
「銃と自由は似通っている。誰も彼もが皆我先に欲しがるが、正しく扱えるのは極わずかだ」
ガンスリンガーの声が教会に響く。
それはよく通る、人を惹きつける声だった。
「銃とは暴力を意味せず、自由とは恣意の代名詞でない。それらは自分以外の誰かの為にこそ行使されるものだ」
「負け惜しみか? だが含蓄のある言葉だ。ならオレの銃は、お前の為に使ってやるよ」
再び、トニオの腕が上がる。精鋭たちの手がホルスターに伸びた。
「やめておけ」
一触即発の無頼どもを見渡して、ガンスリンガーは静かに告げる。
わずかに腰を落とし、軽く帽子の鍔に触れた。開け放たれたままの扉から強く乾いた風が吹き込み、マントが大きく翻る。
「お前たちが握るのは地獄への切符だ。放り捨てれば命は助かる」
悪漢どもの顔面が朱に染まった。
自らの拠り所である暴力をそよ風のように受け流されて、それをこの上ない侮辱と感じた。
「お前が何しにここへ来たかはもう訊かねぇ。よく分かった。死にに来たんだろう? ならとっとと死ね」
トニオは上げていた手でフィンガースナップ。同時に精鋭たちがオートマチックピストルを抜き放つ。
ぱっと血の花が咲いた。
銃声はひとつきりだった。しかし6人が同時に倒れた。モンドの銃は既にホルスターに戻っている。眉間を撃ち抜かれた6人の指は、まだ引き金にすら届いていなかった。
「な、え、なっ!?」
恐慌に陥りかけたトニオだが、しかし彼とて伊達でファミリーのボスを張ってはいない。狼狽は一瞬、邪魔な神父を蹴り飛ばしながら祭壇裏に駆け込んで遮蔽を取る。ひとまずの安全を確保したところで、どっと冷や汗が出た。
なんだあれは。なんなんだあれは。6発の銃声がひとつに聞こえるだと? そんなクイックドロウ、見た事どころか聞いた事もない。
だが蛇の知恵は冷静だった。即座に次善の策を打ち立てる。
「ゴンズ!」
顔は出さぬまま呼ばわった。こんな事もあろうかと、あの大男にはエリオットの縄を持たせて、その傍らに配してある。
「ガキを人質にしろ!」
エリオットは逃げようとしたが、遅かった。細い首が巨漢の手のひらに掴まれる。ゴンズにはそこからひと捻りで少年を殺せる怪力がある。
が、その鼻頭に分厚い聖書がクリーンヒットした。神父が咄嗟に投げたものだった。たまらずよろめく股間をエリオットが蹴り上げ、更に後頭部に重い衝撃が追い打ちとして炸裂する。のたうつゴンズの後ろで、パン屋の女将さんが鼻息荒く麺棒を構えていた。
神父はエリオットに駆け寄り、荒縄を解きながら思う。書も、まったく無力というわけではないようだ。
そして場は、一息に混乱の坩堝と化した。
トニオ・アントーニは考える。6人を倒されたのは痛かった。しかし所詮は6人だ。こっちの銃使いは自分も含め、まだその三倍近くがいる。
垣間見えたあのガンスリンガーの銃はリボルバーだった。形状からして装弾数は6発。あの早撃ちには驚かされたが、人数には対抗できまい。弾込めの隙に十分片付けられる。そう計算し、結論した。
しかしそれ至極あっさりと覆される。
ガンスリンガーの手にはオートマチックピストルが握られていた。あのデブの、そしてモンドへの追っ手に持たせた銃だった。発掘されたばかりのそれと同じ銃を、かつては24丁、ファミリーは所持していた。
立て続けに銃声が轟き、葦でも薙ぎ払うかのように、ばたばたと構成員たちは撃ち倒されていく。数は用を為さなかった。ファミリーの銃使いはたちは銃弾をただの一発も放てない。
ガンスリンガーには背中にも目があるようだった。前後左右、どこからであろうと彼を狙えば即ち撃たれる。銃とはまさに、地獄への片道切符に他ならなかった。
モンドただひとりの為に、ファミリーの士気は瓦解しつつあった。
そして誤算は、ガンスリンガーの凄腕と銃を奪われた事だけに留まらない。
村落の連中をかき集めたのが仇になっていた。数十人からいたファミリーは、既にその半数が撃ち倒されている。お陰でファミリーよりもヴィレッジの住人たちの数が多くなり、それを好機と見た彼らが一斉に反旗を翻したのだ。
しかもガンスリンガーが銃持ちばかりを優先して狙っていく。数の暴力を覆す武器は次々に失われ、ファミリーにとっての悪循環は更に勢いを増して回転する。
雑貨屋の主人はすっかり出来上がっていた。酔いで恐怖を忘れてから使うつもりだった卵の殻を、次々に悪党どもの顔面へ投げつけていく。それは硝石と塩胡椒を詰めた目潰しだった。酒の勢いは天井知らずで、勇壮な鼻歌までが出る。
そんな彼に掴みかかろうとした悪漢が、雑貨屋の旦那に殴り飛ばされた。殴られた男は床に伸び、それきりぴくりとも動かない。綺麗な右ストレートだった。
旦那には拳闘の心得があった。ファミリーは銃に頼りきり、それ以外で武装している者はいなかった。それが旦那には幸いし、悪党どもには災いした。無力ではなかった自分の拳に、旦那は久方ぶりに血が湧き立つのを感じていた。
エリオットがはしこく落ちていた銃を拾い、巨漢の鼻先に突きつけた。そのまま姉を振り返り、もう大丈夫だと親指を立ててみせる。
その全てを、壇上からアイシャは目の当たりにしていた。どこにもないと思っていた希望がそこかしこから立ち現れるのを見て、ぼろぼろと涙が零れた。
御伽話じゃなかった。物語の中だけの事じゃなかった。今ここに、きっと善なるものはある。
その感動が、しかし致命的な隙だった。
彼女があっと気づいた時には遅かった。忍び寄ってきていたトニオに腕を後ろにひねり上げられ、こめかみに銃口を突きつけられていた。
「動くな!」
しんと教会内が静まり返る。
「動くんじゃねぇ、クソッタレども。この女の頭の中身を見たいってんなら別だがな」
恫喝しつつも、トニオの背には冷たい汗が伝っている。
何がどうしてこんな事になった。そう叫び出したかった。今日は何もかもが手に入る、記念すべき日だったはずだ。オレの力が証明される日だったはずだ。それがどうしてこんな有様になっている。
とにかくこの場は逃げの一手だ。状況が不合理で不可解過ぎる。
それでもオレなら出来るはずだ。オレになら逃走は可能なはずだ。奴らが抗うのはこの女を助ける為だ。アイシャ・ブラウンが無事でなければ何もかもがご破算なのだ。今、一切の騒動が静止しているのがその何よりの証拠だ。
そうとも。こいつが手の内に居れば、オレはまだ──。
そんなトニオの思惑をまたしても踏み砕き、男が進み出た。ガンスリンガーだった。
その目はトニオを見ていない。真っ直ぐに娘に注がれていた。
「俺を、信じられるか?」
「はい」
一瞬の遅滞もなくアイシャは頷き、そして笑った。それは花がほころぶような笑顔だった。
トニオの膝が絶望に震える。そのやりとりだけで、ガンスリンガーが止まらないと、止められないと分かってしまった。
だが。
だが、とトニオは考える。まだ勝算はあるはずだ。
ヤツの銃はまたホルスターに戻っている。あの男のクイックドロウは大したものだが、しかしアイシャの体がオレの体の殆どを遮蔽している。あの殺気がハッタリでなかったとしても、ただ早さだけを意識して撃つわけにはいくまい。対して、こちらは相手のどこでも狙い放題だ。
「死ねクソが!」
銃口をアイシャから外し、モンドへと標的を切り替える。ほんの一瞬のはずの動作は、しかし永遠に完了しない。
銃声が轟いた。やはり、一発だけ。
稲妻の如きクイックドロウ。トニオの手から銃が弾き飛ばされた。愕然とするその顎を、アイシャの肘鉄が思い切り跳ね上げる。拘束を逃れた彼女はたっとモンドに駆け寄り、ガンスリンガーは少女の手を取りその背に庇う。
最早手など何一つなかった。何も残されてはいなかった。
情けなくも尻からへたり込み、トニオは必死で両手を前に突き出した。それが壁になってくれるとでもいうかのようだった。
「ま、待て。待てよガンスリンガー。話をしよう。お前は何が欲しいんだ? 金か? 名声か? この街に居ればなんだってくれてやる。その女だって譲る。そうだ、うちのファミリーに入るといい。お前の腕なら大歓迎だ。それこそ手に入らないものはなくなるぞ。どうだ、いい話──」
口上を遮って、モンドはゆっくり首を振る。
「生憎、俺の両手はもう塞がっている」
彼の右手には銃があった。左手にはアイシャの手のひらがあった。
それだけしかないのに、ガンスリンガーはそれだけで十分なのだった。ファミリーのボスには、到底理解できない価値観だった。
数秒の沈黙の後、トニオがまた口を開きかけた。
何を言おうとしたかは分からない。言葉のその前に、ガンスリンガーの銃口が彼を照準していた。
続けざまに二発。
それが、その日最後の銃声だった。