8話
宿の中は明るかった。
どうやら、左手の窓から太陽の光が入ってきているようだ。
窓の手前にはテーブルと椅子がいくつも並んでおり、食堂なんだろうという事が見て取れる。
「カケルさーん、こっち来てくださーい」
「あ、はい、今行きます」
モモがに呼ばれ、正面のカウンターまで進む。
カウンターは随分と横に長く、カウンター左奥の棚には色んな種類のお酒が置いてある。
「それじゃ、ちょっとオーナーを呼んできますのでー、ここで少しだけ待ってて下さいー」
そういうと、彼女は奥へと向かっていった。
彼女がオーナーを連れて戻ってくるまでの間、宿の中を眺めて待つ事にする。
左にはさっきも見たように、テーブルと椅子がいくつか。見る限り清潔に保たれており、何処か上品さを感じさせる。右には、大学にあるような掲示板が並んでおり、板には紙がいくつか貼られていた。
あの紙はなんだろうか。掲示板に近づくと、紙には字が書かれていた。英語で。
うーん、俺、英語は苦手なんだよな。だがまぁ、少しくらいなら読める。一番上に書かれてるでかい文字はクエスト、だろう。つまりこれはクエストの依頼書って事かな。
「でもなんで英語なんだろう。宿の名前は日本語だったのに」
まぁ、このゲームの運営であるWCDは多国籍企業だし、外国人も大勢いるゲームだから英語が使われてても全然おかしくないんだが。でも、それなら宿の名前だって英語にした方が良いんじゃないだろうか。
暇つぶしに、依頼書を斜め読みしながら待つ。
しかし静かだ。モモが静かなところだとは言っていたが、ここまで静かだとは思わなかった。
まだ日も高いし、人がいてもよさそうなものだが。
「ってちょっと待て。日が高いだって?」
おかしい、俺は今日起きたのが昼、そこから時間をかけてユーザー登録し、VRダイブした頃にはもう夕方だったはずだ。更に時間をかけたキャラメイクと、鬼灯さんの訓練、船を降りてからここまでくるのにかかった時間。どう考えても夜中になっているはず。筈なのだが。
「さっき、絶対昼だったよなぁ。どうなってんだ?」
太陽の位置を確認するべく、窓の外を見ようと振り向くと、そこには人が居た。
男だ。身長は俺が少し見上げる程であり、短く刈り込んだ白髪交じりの金髪、と灰色の瞳は男によく似合っており、西洋風な顔も相まって日本のおばさん達に大人気になりそうだ。最も、無愛想な顔つきが全てを台無しにしているが。服装は白い半袖のシャツに茶色いズボンと素朴である。
っていうか、そんな事よりも、
「えっと、どちら様でしょうか?」
「…」
質問には答えず、こちらをじっと見てくる男。誰だ。
そもそも、いつの間に背後に来たんだろう。全然気付かなかった。
「…」
なんで何も言わないんだろう。こちらも戸惑いながら見返すと、その耳が長い事に気付く。
どうやら、この人は妖精人らしい。確か山桜さんが、妖精人は線が細くなる、みたいな事を言っていたが、この人はそんな様子は無い。よっぽど元の線が濃かったんだな。
「あの、俺はここに部屋を借りに来ただけでして、怪しいものじゃないです!」
「…」
俺の言葉を聞いても、男は何も言わず、カウンターの方へと歩いていった。
一体何なんだ。ここの客だろうか。
男はカウンターにたどり着くと、そのまま裏側へと周り、こちらを向いて俺の方を見た。
「…」
「…」
なんだろう。俺の方をずっと見ている。
俺も、蛇に睨まれた蛙のように動く事ができない。頼む、誰か何とかしてくれ。
「カケルさーん、ごめんなさいー。オーナー、どこかに出かけてるみたいでー」
凍った空気をぶちこわすように、モモが奥から戻ってきた。
ありがとうモモさん、あなたは女神だ。
「どうしたんですかー、そんなところで固まってー」
「いや、何と言えばいいか…その、とりあえず、なんで今昼なんですか?」
「あー、そういえば、日本は今頃夜ですものねー。まぁ、理由は単純でしてー、この世界の時間は、世界標準時間に合わせられてるんですー。イギリスのグリニッジ天文台ですねー。だから、日本とは9時間ぐらいの時差があるんですよー」
「なるほど…そうだったんですか」
さすが、世界中で流行ってるだけあるな。時間も世界基準とは。
ってそうじゃないだろ俺!
「あの!時間についてはよく分かりました。それで、ですね。あの方はどちらさんなのでしょうか?」
そういって、手を男の方へ向けると、彼女はそちらを見て驚いた様子で、
「ライオットさん!何処行ってたんですかー!探したんですよー!」
「…」
モモが話しかけても無言を貫く男。どうやら誰に対してもああらしい。
良かった、俺に対するいじめではなかったか。
しかし、探してたということは、もしかして、
「モモさん、ひょっとしてその人が…?」
「はいー、この人がこの宿のオーナー、ライオットさんですよー」
「…」
ライオットはこちらを見やり、本当にかすかだが、会釈したように見えた。
「ライオットさん、こちらカケルさんですー。このたびウチの宿に泊まってもらえる事になりましたー」
「え、あの、まだ泊まると決めたわけでは…」
「…」
「ライオットさん、そんな目で見ないで下さいー。これから!これからウチの説明して決めてもらうんですよー!」
こほん、と彼女はかわいらしい咳をし、
「この静謐なる雫亭はー、見ての通り靜かで雰囲気のある宿でしてー、オーナーも見ての通り寡黙でプライバシーの保護も万全、おまけに料理も美味しいですしー、更になんと、料金がとっても良心的なんですよー!」
「前半はともかく、後半は興味がありますね。どの程度良心的なんですか?」
「前半も大事だと思うんですけど…まぁ置いときますー。料金は、さっきも説明しましたが、公式のホテルでの12時間20gを基準としましてー、24時間30g、72時間80g、とお得になっておりますー。勿論全て、12時間ごとにお食事のサービス付きですー。更に600時間で600gの長期滞在お得コースもありますよー」
これは、中々安いんじゃないだろうか。72時間契約なら、港にいた3割引の宿屋以上に安い事になる。
さすがに600時間はないが、600時間も通常の4割引と破格なんじゃないだろうか。だが、色々とネックもある。
「お値段の方は良く分かりました。しかし、想像していた以上に冒険者の方がいないのですが、この店でパーティを組む事はできるんですか?」
「あー、それはー…一応この宿には、まだ泊まってる方が何人かいらっしゃるんですけどー、どの方も結構な実力者でして、私は戦闘はしませんし、パーティを組むのは難しいかもしれませんー」
「そうですか…あ、それと、俺実はあんまり英語とか得意じゃないんですけど、クエスト依頼書が英語しかないみたいできついのですが」
「それはウチの宿の方針でしてー、出来る限り誰にでも読めるようにするという事で、原文のまま貼ってるんですー。そんなに難しい内容じゃないから、大丈夫ですしー、読めなかったら私に言ってもらえれば翻訳させて貰いますよー」
「分かりました…それじゃあ、少し考えさせて下さい」
とりあえず、依頼書の方はプライドを捨てればどうにかなりそうだ。問題はパーティと立地条件だろうか。しかし、立地条件に関しては、何処に何があるかまだ分からないし、しょうがないところだろう。問題はパーティの方だ。ここでは、俺と同じぐらいの実力を持つ冒険者とは知り合いになれないだろう。最初からパーティを組む必要はないだろうが、折角やるのだし、いずれは組んでみたい。
「うーん」
視界の端で、モモが不安そうな顔つきでこちらを見ている。
いや、殆ど決まってるんだが、もう一押しが欲しい。
その時、何かを叩くような音がした。
「…」
「…ライオットさん、なんですかー?」
ライオットがカウンターテーブルを叩いた音だったらしい。
彼はモモに眼を合わせると、右手の人差し指で天井を指し示した。
「…あー!分かりましたー!カケルさん、部屋ですー。部屋を見て決めてはいかがですかー?」
「部屋、ですか。構いませんけど」
「はい、では早速行きましょうー!」
言うが早いか、彼女は掲示板スペースの近くにある階段を上っていった。
ライオットの方を少し見てみるが、彼は特に反応せず、いつの間にか手に持っていたグラスを布巾で磨いている。
「カケルさーん、まだですかー?」
「あ、今行きます!」
あわててモモの後を追い、階段を上る。
二階に出るとそこは廊下で、左右を見れば、手前側の左に1つ、右には2つの扉。向こう側には4つの扉が並んでいる。モモは廊下に出て目の前にあった扉、向こう側の左から2つ目の扉の前にいた。
「ここは202号室ですー。左隣の部屋が201号室で、私の部屋ですねー。では開けますよー」
彼女は、スカートのポケットから鍵束を取り出し、目当てのものを見つけると、鍵穴にさして、鍵を開ける。
それではどうぞー、と彼女が扉を引いて開け、中をこちらに見せる。
部屋の中は普通だった。備え付きの洋服ダンスと、テーブルに椅子、そしてベッドがあるだけの、むしろ普通よりもものが少ないような部屋だった。だが、
「これは…凄い!」
奥には大きな窓があった。そしてその向こうには、異国の情景がありありと映し出されていた。
たまたま正面に高い建物が存在しないのか、宿泊地区の土地が高いのか、そこからはグランポートシティの町並みが一望出来るのだった。
手前から斜めに視界を横切るセレヴィヌス川、その川の両隣にある大通りの活気ある風景、その周りに広がっていく多種多様な建築物。所々には荘厳な神殿が見え、1番奥には巨大な港と船、そして何処までも続く海が青い色彩を輝かせていた。
「凄いでしょう?グランポートの町並みをここまで一望できる所はそうそう無いと思いますよー。私もこの景色を見てここにしようと決めましたからー」
モモに返事を返そうと思ったが、なんだか言葉にならなかったので止める。
それにしても、どうやら、最後の後押しももらえたようだ。
いや、後押しなんてものじゃないな、これは。
「あのー、真面目な話、別にここに決めたからといって他の所に行っちゃいけないわけでもないですしー、試しに済んでみたら気に入るかもしれませんよー…なんて。駄目ですかー?」
返事を返さない俺の様子をうかがうように、モモがおずおずとこちらを見てくる。
いかんいかん、早く彼女を安心させてあげるべきだろう。
「いえ、決めました。ここに泊まります。むしろ泊まらせて下さい!」
勢い込んだ俺の言葉に一瞬目を白黒させたものの、すぐに俺の言葉の意味を理解して笑顔になって、
「カケルさん、ありがとう御座いますー!それじでは、早速チェックインしちゃいましょうー!」
そういって彼女は俺の手を取り、俺をライオットの前まで連れて行った。
ライオットはこちらをちらっと見て、磨いていたグラスを置き、モモへと目を向けた。
「ライオットさん、カケルさんがウチに泊まってくれるそうですよー!」
「…」
ライオットは無言で俺の方を見ると、親指で背後を指さした。
そこには英語で色々と書いてあるが、数字などを見る限り料金表だろう。
しかし、これも英語か。
「あー、時間ですねー。カケルさん、何時間にしますかー?」
「えっと、とりあえず72時間でお願いします」
「…」
時間を告げると、ライオットは右腕を前に構え、左手で右手首に着いているDデバイスを指し示した。
灰色の流線型でちょっと服に合ってない気がする。
しかし、これはどういう意味だ?
「カケルさん、冒険者カードを見せて下さいってことですよー」
「あぁ、なるほど」
そういえば見せる事になってるんだったな。
Dデバイスを起動し、冒険者カードの画面を共有設定にしてライオットに見せる。
彼はそれを一瞥すると、すらすらと手元の紙に番号を控え、モモを見た。
「了解ですー。はい、カケルさん、これがお部屋の鍵になりますねー」
モモは先程の鍵の束から、201のものであろう鍵を取り外し、こちらに渡す。
「鍵はこれとマスターキーだけとなってますのでー、無くさないようにして下さいねー。鍵をオーナーに帰さない限り、部屋は借りたままとなるのでー、延滞には気をつけて下さいー」
「分かりました、気をつけます」
「一応、時間が差し迫ったら、運営の方からメールが来るようになってますから、大丈夫だと思いますけどねー。あと、部屋にはオーナーがマスターキーで入る以外は誰も入れませんし、オーナーも勝手に入ると規約違反で罰せられるので部屋には誰も入りませんー。ですので、部屋掃除は自分でして貰うようお願いしますねー。勿論、頼んで貰えればルームサービスでお掃除いたしますからー」
「はい、了解です」
なるほど、部屋掃除は自分でか。部屋に勝手に入られる事は無いようで安心した。
「あとは、絶対無いと思いますけどー、延滞料金を踏み倒す事はしないで下さいねー。運営からペナルティが入っちゃいますからー。また、部屋でログアウトしてから2週間ログインが無い場合は、公式運営のグランポートホテルに移動して貰う事になるのでー、そうなりそうな場合は事前に連絡して下さいー」
「分かりました。他には何かありますか?」
「あー、お食事ですけど、12時間ごとに食券を渡してますのでー、それをオーナーに出して貰えれば大丈夫ですー。食事はゲーム内の6時から8時、12時から15時、19時から22時のいずれかでお願いしますねー」
そういって、モモが食券を渡してくる。
とりあえず無くさないように背負い袋の中にしまい込む。
もう無いですかねー、と彼女がライオットへと問いかけると、彼は無言で首を横に振った。
「ではー、もし他に聞きたい事ができたら、いつでも訪ねて下さいー。私はウェイトレスをやってるか、部屋に籠もってるかしてると思うのでー。もし居なかったらすいませんけどー」
「いえいえ、ありがたいです。どうかよろしくお願いします」
「はいー、それでは…」
彼女は深呼吸をし、素晴らしい笑顔と共にこちらを見て言った。
「ようこそ!静謐なる雫亭へ!」
そして、その横に立つライオットが、渋い男の笑みを浮かべ、静かに言った。
「Welcome」
その言葉は、とても流暢な英語だった。
「え、もしかして…外国の人?」
「え、まさかカケルさん、気付いて無かったんですか-?ライオットさん、どう見ても日本人じゃないじゃないですかー」
「いや、確かにそうですけど…あれ?」
「…」
「とりあえず、お部屋へどうぞー。日本だともう結構遅いですよー」
なにやら最後で気になる事があったが、モモの言うとおり時間も遅くなってきたので、今日のところは部屋でログアウトすることにした。
部屋に入り、扉の鍵を閉めて、窓の外の景色に見入る。
「明日から、面白い一日になりそうだ」
Dデバイスを起動して、ログアウトする。
きっと面白い日々が始まる。
あの景色は、俺にそう予感させた。
湧き上がる思いを胸に、俺は意識を手放した。