表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/16

001

ブックマークしてください

ケンヤは机に向かって勉強していた。


特別なことは何もない。

教科書は目の前に開かれ、ペンは手の中。長時間の勉強で、少し頭が疲れているだけだった。


そして――くしゃみをした。


「……くしゅん!」


その瞬間、ケンヤの意識は、まるで身体から引き抜かれるような感覚に襲われた。

視界が一気に暗くなり、落下する感覚は、ちょうど心臓が一度脈打つほどの時間しか続かなかった。


次に目を開けた時、最初に目に入ったのは、見慣れた天井ではなかった。


そこにあったのは、広く、そして豪奢で、どこか冷えた空気を纏う部屋だった。


高い天井。

クリスタルのシャンデリア。

濃い色合いの木製の壁。

ほのかに漂う沈香の香り。


普通の家というより、長い歴史を持つ一族の邸宅――そんな印象の部屋だった。


ケンヤは黙って周囲を見渡す。


「……転生、か」


混乱はない。

叫びもしない。

ただ、淡々と受け入れただけだった。


彼は立ち上がる。


そして、その瞬間――ケンヤは動きを止めた。


この身体……明らかに違う。


自分の手を見下ろす。浮き出た血管、引き締まった皮膚。

軽く拳を握ると、筋肉が自然に動き、重さや違和感は一切ない。


寝間着の裾を少し引き上げる。


腹部。


はっきりとしたシックスパック。

無駄な脂肪は一切なかった。


「……面白いな」


力を“与えられた”感覚ではない。

むしろ、よく鍛え上げられているのに、正しく使われてこなかった身体――そんな感じだった。


ケンヤは部屋を出る。


白い石で敷かれた長い廊下。

両側の壁には、正装した着物姿の男たちの肖像画が並んでいる。

鋭く、威厳のある眼差し。


数歩進んだだけで、視線を感じた。


使用人だ。


近くに立っていた中年の女性が、ちらりとこちらを見て、わずかに不快そうな表情を浮かべると、すぐに頭を下げた。


「……」


挨拶はない。

声もかからない。


ただ、巧妙に隠された軽蔑。


ケンヤはすぐに理解した。


そのまま歩き続ける。


屋敷の奥へ進むほど、視線は増えていった。


使用人は手を止め、

召使いたちは静かに道を避け、

忙しいふりをする者もいれば、不要な物を見るような目でこちらを見る者もいる。


小さな囁き声が、耳に届いた。


「またうろついてる……」

「無能のくせに……」

「当主の息子だからって……」


声は小さい。

誰も面と向かっては言わない。


理由はすぐに分かった。


この身体は――当主の息子。


高貴でありながら、皮肉な立場だった。


広い庭を抜けた先で、ケンヤは数人の若者たちと出くわした。

どうやら一族の従兄弟たちらしい。


彼らは立ち止まり、一斉にケンヤを見る。


背の高い若い男が、冷たい視線で頭から足先まで値踏みするように見た。


「……まだ生きていたのか」


軽い口調だが、露骨な侮蔑が滲んでいた。


隣の男が、薄く笑う。


「そんな言い方はよせよ。一応、当主の子なんだから」


庇っているようで、その目はまったく違っていた。


誰も殴らない。

誰も手を出さない。


同情ではない。


無能に触れて手を汚したくないし、

越えてはいけない一線も分かっているだけだ。


ケンヤは彼らを少し見つめ――


そして、何事もなかったかのように背を向けた。


反応しない。

怒りもしない。


彼の心に浮かんだのは、ただ一つ。


日本最強の一族……そのくせ、空気はひどく腐っている。


ケンヤは屋敷の中をさらに歩き回った。


歩けば歩くほど、確信が強まっていく。


この身体は、弱くない。


安定した歩き方。

低い重心。

自然な反射。


もし「無能」だとするなら、それは他人の目から見た評価であって、肉体的な話ではなかった。


大きな鏡の前で、ケンヤは立ち止まる。


鏡に映るのは、整った顔立ちの青年。

だが、その瞳はどこか空虚――おそらく、この身体の元の持ち主だ。


「……」


ケンヤは、その目をまっすぐ見つめた。


「記憶、か……」


頭痛はない。

記憶が流れ込んでくることもない。


「……まあ、いい」


過去はいらない。

蔑まれてきた人間の記憶など、必要ない。


今があれば、それで十分だ。


ケンヤは鏡に背を向け、その場を離れた。


その背中を、広大な一族の人間たちは見つめ続けていた。

軽蔑と、警戒と、見下しの視線で。


――誰一人として知らなかった。


彼らが蔑んでいるその存在が、

たった今、目を覚ましたばかりだということを。

ブックマークしてください

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ