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ケーキを食べ終えたクロは、静かに立ち上がり、古びたコートを羽織った。夜の空気は少し冷たく、まるで雨が降り出す前のように湿り気を帯びていた。
街の通りは明るく灯り、賑やかな笑い声と食べ物の匂いが漂ってくる。だが、いくら立派な店が並んでいても、クロの足は自然と止まらなかった。どこにも入る気がしなかったのだ。
ふと、目に入ったのは小さな食堂。かつて自分が働いていた場所だった。窓越しに見える店主が、せっせとテーブルを拭いている。ふと顔を上げたその人はクロに気づき、驚いたように大きく手を振った。
「おい、坊主!もう飯食ったか?こっち来い、今日はオレのおごりだ!」
クロは一瞬立ち止まり、そして自然と笑みを浮かべた。今夜初めて、心からの笑顔だった。
カラン、とベルの音を立てて扉を開けると、店主はすぐに椅子を引き、メニューを差し出す。
「さあ、好きなものを頼め!」
クロは首を振り、静かに答えた。
「なんでもいいです…店主さんが作るものは全部おいしいから。」
「ははっ!いい心がけだ。じゃあ今日はな、客用じゃなく俺たち二人のためのご馳走を作るか!オレもまだ食ってないしな。」
クロは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに優しい表情に戻った。
厨房からは鍋やフライパンの音が響き、香ばしい匂いが店中に広がっていく。
クロは黙ってテーブルに手を置き、懐かしい空気を感じながら周りを見渡した。誰も今日が自分の誕生日だとは知らない――それでいい。クロも口に出すつもりはなかった。ただ、この時間を自分だけの小さな贈り物にしたかったのだ。




