043
太陽は高く昇り、海面は白銀に輝いていた。小舟は幾つも散り、黒い点のように大海原に漂っている。クロウは額の汗を拭い、黄金色の瞳を細めた。
「奥さん……水の魔術は使えますか?」
焦り混じりの声で尋ねると、痩せた母親は幼い娘を抱きしめながら、小さく頷いた。
「ええ……長い間使っていませんが、やってみましょう。」
クロウは深く息を吸い込み、両手を海面へとかざす。微かな魔力が体内から溢れ出し、周囲の水を震わせる。母親も震える手で詠唱を口にし、次の瞬間、海流が渦を巻き、小舟を押し出すように走らせた。
「しっかり掴まって! 絶対に手を離しちゃだめよ!」
母親は娘にそう囁く。少女は泣きはらした目を見開き、必死に母の首へとしがみついた。
それから二時間半――。
クロウと母親は交代で魔術を使い、互いに限界に近い体を奮い立たせながら船を進ませ続けた。指先は痺れ、魔力は枯渇しかけていたが、それでも止まれば死が待つだけだ。
荒波が容赦なく小舟を叩きつけ、水しぶきが顔を濡らす。遠くでは、幾つかの船が波に呑まれ、絶望の叫びが風に溶けて消えていった。助けようとする者はいない。誰もが生き残ることで精一杯だった。
「あと少し……きっと見えるはずだ……!」
クロウは唇を噛みしめ、最後の力を振り絞る。
そして――水平線の向こうに影が現れた。
最初は霞のようにぼんやりと。しかし次第にそれは輪郭を帯び、岩壁に覆われた小島、鬱蒼と茂る森、そして遠くに巨大な橋の姿が見え始めた。
「ガスバッグ島……!」
母親が涙声で叫んだ。
小舟はやがて静かな入江に滑り込み、波の音が穏やかに変わった。そこには軍艦の影も、警告の号令もない。ただ優しい波音が、疲れ果てた移民たちを迎え入れるかのように響いていた。
クロウは船底に倒れ込み、荒く息をつく。母親は娘を抱きしめ、声を上げて泣いた。
――ついに、生き延びたのだ。
ガスバッグ島。ソララへ足を踏み入れるための、最初の門がそこにあった。




