036
馬車の車輪が止まり、クロの前に古びた港が現れた。
薄い朝霧の中、潮の匂いと腐った魚の臭気が鼻を突く。
そこにはクロだけではなかった。数十人、いや百人近くの人々が闇に潜み、息を潜めていた。
彼らの顔は痩せこけ、衣服は破れ、瞳は怯えと焦燥に濁っている。
泣きじゃくる子を抱きしめる母親。唯一残った荷を抱えしめる男。
皆、クロと同じだ――運命に追われ、ただ逃げるしか道のない者たち。
彼らの目的地はソララ。
西方に広がる三大強国のひとつであり、世界で最も豊かだと謳われる王国。
「そこへ辿り着けば、どんな乞食でも生まれ変われる」――そんな噂が人々を突き動かしていた。
だが罪人や亡命者にとって、ソララは賭けそのもの。
生きるか、海の藻屑となるか。
クロは包帯で覆われた拳を強く握りしめた。
痛みが骨の奥にまで響くが、その痛みが彼を現実へ引き戻す。
もう帰る場所はない。
ガク先生の言葉が脳裏で反響する。
――「お前が私に返すべきものは一つ。生き続けることだ。」
「見ろよ、またガキが一人…」
近くの連中が囁く。視線がクロに突き刺さる。疑い、敵意、侮蔑。
この場所で、孤独な子供はただの獲物に過ぎない。
だがクロは俯かなかった。
赤く充血した瞳で、ただ海の彼方を見据える。
胸の奥で恐怖が渦巻いても、それを上回るものがあった――生き残るという意思。
霧を裂くように、錆びついた汽笛が鳴り響く。
現れたのは朽ち果てた船。木は腐り、塗装は剥げ落ち、それはまるでこの港に集った亡者のようだった。
だが、それでも前に進むしかない。
群衆が一斉に動き出す。
怒号、泣き声、祈りが入り混じり、地獄のような喧騒が広がる。
クロは押し倒され、冷たい床に叩きつけられた。
「どけ、小僧! ここは遊び場じゃねぇ!」
大柄な男が怒鳴りつける。
クロは何も言わず、静かに立ち上がり、錆びた手すりに手をかけた。
一歩、また一歩と、運命の船へ足を踏み入れる。
夜が明けぬうちに、朽ちた帆が風を受け、船は動き出した。
黒い海を裂き、亡者を乗せた船はソララへと進む。
誰も、辿り着けるかどうかは知らない。
クロは船底の隅に身を丸め、膝を抱えた。
背後の故郷は地獄。
目の前の未来は蜃気楼。
心の奥で、彼はただひとつの言葉を繰り返す。
「先生……僕は生きる。何があっても……必ず、生き延びてみせる。」
荒れ狂う波、凍てつく風。
絶望に満ちた魂を詰め込んだ船は、闇の海へと沈み込むように消えていった。
それは、ひとりの少年の苛烈な亡命の旅路の始まりだった。




