035
夜の闇がガク先生の小さな家を包み込んでいた。
冬の始まりを告げる冷たい風が、ひゅうひゅうと吹き抜けていく。
包帯だらけの体から血がにじむまま、クロは門の前に立っていた。
赤く腫れた瞳、震える声で、灯油ランプを手にした老教師の姿を見つめる。
「どうしたんだい、クロ?」
ガク先生の声は温かく、しかし隠しきれない不安が滲んでいた。
その声を聞いた瞬間、クロの心に張りつめていた強がりは一気に崩れ落ちた。
彼は地面に膝をつき、頭を垂れて、止めどなく涙を流す。
「先生…ぼ、僕は……人を殺してしまいました。」
その言葉は静寂の夜を引き裂くように響いた。
ガク先生の手が震え、ランプの灯火がかすかに揺れる。
長い沈黙ののち、彼は実の息子のように大切に思う教え子を見つめる。
その瞳に宿ったのは痛みであって、決して責めではなかった。
やがて先生はかすれた声で問う。
「これから……どこへ行くつもりだ?」
クロは顔を上げ、絶望に満ちた目で答える。
「……わかりません。ただ……ここにはもういられない。捕まったら……もう二度と先生に会えなくなるかもしれない。」
その瞬間、ガク先生の胸は締め付けられるように痛んだ。
彼はクロを抱き起こし、その幼さの残る顔から涙を拭う。
「馬鹿者……お前をこんな風に消えさせてなるものか。」
クロは言葉を発しようとしたが、喉が詰まって声にならなかった。
先生は家に戻り、厚手の外套と小さな荷を持って戻ってきた。
その眼差しはすでに決意を宿し、声は命令のように低く響いた。
「今夜、お前はここを去るんだ。今すぐに。」
「先生……?」
「昔の伝手を使って手配しておいた。密かに国境を越える馬車がある。今夜を逃せば、もう二度と機会はない。ここに留まれば、待っているのは死だけだ。」
クロの手が震え、胸の奥で激しい葛藤が渦巻く。
去るということは、すべてを捨てるということだ。
ナオミも、アカリも、この家でのわずかな安らぎの日々も。
その迷いを見抜いたように、先生は力強くも温かい手をクロの肩に置いた。
「クロ……私は戦乱で多くの弟子を失った。だが、お前だけは実の息子のように思っている。生きろ。たとえ遠い地であっても……生き延びるのだ。」
クロの瞳に再び涙が溢れる。
「でも先生……僕は先生にあまりにも多くを……」
「馬鹿者。」
先生は穏やかに微笑んだ。その微笑みは、クロが一生忘れることのないものだった。
「お前が私に返すべきものは一つだけだ……生き続けること。そしていつの日か戻ってきて、胸を張って言うんだ。『先生、僕は立派に成長しました』と。」
庭に虫の声が響き、風の音が混じり合う。
二人は言葉なく、ただ抱きしめ合った。
やがて夜明け前、時計の針が三時を指すころ、秘密の馬車が門前に止まった。
御者は先生に軽くうなずく。
「行け、クロ。」
その声はかすれ、涙を含んでいた。
クロは唇を噛みしめ、深く三度礼をする。
「先生……僕は決して忘れません。」
言葉を重ねる暇もなく、彼は馬車に飛び乗った。
蹄と車輪の音が、静寂の道に遠ざかっていく。
門の前に立つガク先生の姿は、夜の中でひときわ孤独だった。
老いたその目には涙が光る。
「行け……クロ……運命が私に授けた息子よ。生きろ……もう一度、生きるのだ……」
闇が馬車を呑み込み、残されたのは吹きすさぶ風の音と、広大な夜空の下で独り立つ老人の影だけだった。




