031
クロウが今、引き絞っているもの――
それは、もはやただの矢ではなかった。
カサキの額から冷たい汗が滴り落ちた。
――もう逃げる力は残っていない。
その絶望の中で、カサキは突然ユコンの体を強く抱きしめ、がっちりと拘束した。
「離せっ!! くそっ、放せぇぇぇ!!」
ユコンは狂ったように叫び、拳を何度もカサキの顔面に叩き込む。血が飛び散る。
だがカサキは離さない。むしろ歯をむき出しにして笑い出した。
「ハハハ……やれるもんならやってみろ!
俺ごと撃ち抜いてみろ、クロォォ!!」
その瞬間――
ドォォォォンッッッ!!!
クロの放った巨大な雷炎の矢が、轟音と共に突き進む。
次の刹那、矢はカサキとユコンの身体を同時に貫き、雷と炎が爆ぜ、二人の胴体に巨大な穴を穿った。
「ぐあああああああああっっ!!!」
絶叫が響き渡り、二人は地面に崩れ落ちる。
黒煙が立ち昇り、矢の力はなおも二人の身体を貫いたまま、逃げ場を与えぬよう縛り付けていた。
カサキとユコン――終焉。
クロはそこに立ち尽くし、体を震わせながら荒く息をつく。
炎と雷光はゆっくりと消え失せ、
やがて少年の小さな体は崩れるように倒れ込み、混沌の闇へと沈んでいった。
戦場は静まり返った。
叫びも、金属の軋む音も消え、ただ煙と焦げた匂いだけが風に漂っている。
その静寂の中、誰かがしゃがみ込み、クロウの頬を軽く叩いた。
「……クロウ、起きろ……!」
かすかな呻き声。
全身は引き裂かれるような痛みに包まれていたが、唇は震えながらも小さくつぶやいた。
「……まだ……生きてる……」
そう言った直後、意識は急速に遠のいていく。
かろうじて感じ取れるのは、自分の体が持ち上げられ、誰かに抱えられて走っている感覚だけ。
頭の中は霞がかかり、世界は揺らめき、やがて全てが薄れていった。
その瞬間――記憶が流れ込んでくる。
……小さな灯火に照らされた、懐かしい家の中。
湯気の立つ茶の香り。
そして、目の前に座る恩師の穏やかな笑顔。
「魔術は戦うためだけのものではない。」
低く、しかし確かな声が、胸に響く。
「それは守るための力だ。大切なものを支える力なんだ。……お前は、その力にふさわしい人間であれ。」
休みの日、師はクロウにただ魔術を教えるだけではなかった。
人としての在り方、忍耐、信じる心……生活の一つひとつを教えてくれた。
雨の日には、師の家に泊まった。
湯気の立つ温かな食卓。
夜になれば、机に向かって筆を走らせる音を子守唄のように聞きながら、畳の上で安らかに眠った。
師は弟子としてではなく、まるで我が子のようにクロウを扱った。
父親のように導き、支えてくれた。
その存在は、暗闇の中に灯る唯一の光だった。
朧げな意識の中で、クロウの口元がわずかに緩む。
それは、懐かしい記憶に向けられた微笑みだった。
夢のような朦朧とした意識の中で、記憶が再び押し寄せてくる――。
あの師匠――闇の底からクロを救い上げてくれた人。
彼はひとりでは暮らしていなかった。
師匠には、クロと同じくらいの年頃の娘がいた。
その娘は、夕焼けの炎のように赤く輝く髪をしていた。
だが、その瞳は冷たく、遠い。
クロがこの家に迎え入れられてから、彼女が微笑みを向けたことは一度もなかった。
むしろ、いつも不機嫌そうに父へ訴えていた。
「どうして父さんは、見知らぬ人間を家に連れてきたの?
……母さんが亡くなったからって、家族の温もりを埋めるために、他人をここに置くつもりなの?」
その言葉は鋭い刃のように、クロの胸を深く刺した。
食卓のたびに、彼女は小声で毒を吐き、クロを否定する言葉を呟いた。
声は小さいが、クロにははっきりと聞こえる。
だから彼は、反論することなく、ただうつむいて沈黙するしかなかった。
師匠はクロのために、きちんと整えられた一部屋を用意してくれた。
そこには必要なものが揃い、十分に温かかった。
けれど……夜になると、その四方の壁は、かえって彼の小さな心を孤独で押し潰した。
暗闇の中では、記憶が荒波のように押し寄せてくる。
路地裏でさまよった日々。
凍える夜を、軒下で震えながら過ごしたこと。
そして――家族をすべて失った瞬間の絶望。
その痛みは、どんな壁も遮ることはできず、
どんな毛布も温めることはできなかった。
ある夜、クロはとうとう耐えきれなくなった。
彼は部屋を出て、師匠の扉を小さくノックした。
「……師匠、どうか……一緒に寝かせてください。」
その声は震え、涙に濡れていた。
師匠は彼を見つめ、深い慈愛と憐れみを宿した瞳で応えた。
叱ることなく、ただ静かに頷き、隣に布団を敷いてくれた。
その夜、クロは人生で唯一残された温もりに身を寄せた。
そこには、恐怖もなく、
夜に押し殺す涙もなく――
ただ、父のような存在に守られているという安心感があった。
何年ぶりだろうか。
その夜、クロは微笑みを浮かべながら眠りについたのだった。




