001
私のブックマーク
クロは飛び起きた。
轟音が響き渡り、まるで村全体が悪夢に引き裂かれたかのようだった。外からは悲鳴がこだまし、金属がぶつかり合う甲高い音が夜を切り裂く。家全体が揺れ、埃が舞い上がる。鼻を突く煙の匂いがじわじわと室内に入り込み、息を詰まらせる。
何が起きているのか理解する間もなく、赤々とした光が木の扉の隙間から差し込んできた。隣家はすでに炎に包まれていた。クロの心臓は激しく脈打ち、胸を叩き続ける。外では蹄の音が大地を踏み鳴らし、戦鼓と角笛が夜の静寂を無惨に切り裂いていた。
扉が蹴破られた。黒い鎧に身を包み、顔を覆った兵士たちがなだれ込む。血に濡れた剣がぎらつく。兵士の一人が聞き慣れぬ言葉を叫び、次の瞬間、槍がクロの父の胸を貫いた。大きな体が目を見開いたまま、重々しい音を立てて床に崩れ落ちる。
—「父さんっ!!」
クロは叫んだが、その声は喉に詰まり、途切れた。母が飛び出す。恐怖に満ちた目で、彼女はクロを強く押しやり、その背に鋭い刃を受けた。空気を裂く金属音、鮮血が舞い、粗末な衣を真っ赤に染める。母は崩れ落ち、開いたままの瞳でクロを見つめ続けたが、もう何も言えなかった。
祖母は震える手で手すりを掴みながら階段を下りようとした。だが、城壁の方角から轟く爆発が大地を揺らし、体がよろめく。小さな身体は階段から転げ落ち、頭を木段に強打した。血がじわりと広がり、炎の明かりの下で黒く染まっていった。
—「いやだ…いやだっ…!」
クロの声は掠れ、意識がぐらつく。彼は妹のハルを抱き締める。小さな体は震え、怯えきった瞳が大きく見開かれていた。
だが背後から、冷たく大きな手がクロの首を掴み、無理やり引き離した。ハルはクロの腕から引き剥がされ、床に叩きつけられる。か細い泣き声が漏れる。
黒ずんだ剣が高く振り上げられた。
その刃がクロの瞳に映り込む。彼は必死に手を伸ばし、喉が裂けるほど叫んだ。
—「やめろおおおっ!!」
だが、鋼鉄の唸りが全てをかき消した。
鮮血が飛び散る。ハルの身体が崩れ落ち、見開いた瞳、震える唇から弱々しい声が零れた。
—「あ…に…うえ…」
その微かな音は、炎と叫喚の中に溶けて消えた。
クロは膝から崩れ落ち、冷えゆく妹の身体を抱きしめた。鼻腔を満たすのは血と煙の匂い。胸を押し潰すような圧迫感。泣き叫びたいのに涙は出ない。残されたのは虚無と敵の残酷な笑い声だけだった。
背後から鋭い刃が突き刺さり、クロの体を貫いた。視界が暗転し、意識は深い闇に落ちていった。
炎は燃え広がり、屋根も家も、全てを焼き尽くした。
──夜が明けたとき、村は灰の山と化していた。
クロは瓦礫の中で目を覚まし、腕の中には冷たいハルがいた。少年の瞳からは子供らしい輝きが消え失せ、絶望と闇だけが宿っていた。
それから彼は影のように彷徨うことになる。
石を投げられ、殴られ、罵倒されながら。
パンを盗み、軒先で眠り、毎夜悪夢にうなされながら。
夢の中で、ハルの声が響く。
—「お兄ちゃん…お兄ちゃんは勇者だよ…」
クロは目を覚まし、闇の中で呟く。
—「勇者…?いや…俺はただの臆病者だ…」
その夜、彼は暗い路地を彷徨った。
空気にはゴミと黴の匂いが満ち、奥からは嘲笑が聞こえる。酔った若者たちが石を投げ、背中を押し、蹴りつける。誰も止めない。誰も気にしない。
クロは抵抗しない。ただ腹を抱え、殴打に耐えるだけだった。
痛みなど、胸に広がる虚無に比べれば何でもなかった。
闇に包まれ、記憶が押し寄せる。
白い花に覆われた丘。
ハルの笑い声。
母の温かな瞳。
父の力強い手。
父は村で一番強いと信じていた。
森で群れの狼を一人で追い払った男。
「俺に敵う者などいない」そう笑っていた人。
だがあの夜──彼は一度震えただけで、
朽ち果てた木のように崩れ落ちた。
叫び声もなく、抵抗する間もなく。
その光景が繰り返しクロの脳裏を裂き続ける。
止まることのない刃のように、心を切り裂いていく。
彼は壁際にしゃがみ込み、錆びついた短剣を握りしめた。
頭の中にあるのは、終わらせたいという思いだけ。
だが刃先が手首に触れた瞬間、涙が溢れた。
手は震え、心臓は激しく鼓動し、死への恐怖が全身を覆う。
ハルの笑顔が浮かび、声が響く。
—「お兄ちゃん…行かないで…」
クロは短剣を投げ捨て、頭を抱え、声を枯らすほど泣き続けた。
翌朝、彼はよろめきながら市場へ出た。
飢えに腹が痛む。
目の前に、香ばしく焼けたパンの山。
クロは手を伸ばし、ひとつ掴んで走り出そうとした。
だが大きな手が襟を掴み、引き戻す。
怒号が飛び交い、人々が取り囲む。
—「泥棒だ!その手を斬り落としてやれ!」
嘲笑と歓声が渦巻いた。
クロは膝をつき、冷や汗を背に流した。
彼は悟った。
死は必ずしも戦場から来るものではない。
時にそれは──人間そのものから訪れるのだ。
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