第4話
明くる日のこと、一通り基地内を挨拶して回った吉岡は食堂で項垂れていた。
昨日に一瞬でも優しいと感じた自分を恨みたい。やはり、瀬戸という人はひどく短気で、さらにすぐ手が出てしまうようだった。
昨日の夜は宿舎の掃除が甘いと言って殴られ、今朝は髪が長いと言って殴られた後にカミソリで剃られてしまった。
昼に掃除が終わったのだから、夜にはまたどこか汚くなっていても仕方ないだろう。それに、髪の長さが気になるなら昨日の時点で注意しているはずだ。なぜ今日になって言われなければならないのか。
苛立ちや不満がぐるぐると渦を巻き、心を曇らせていく。なんで自分がと深く落ち込んでいると、後ろから肩を叩かれた。
「おい、吉岡!元気出せって!」
そう言って人懐こく話しかけてくるのは、昨晩同室になった佐々木朗人一飛曹だ。年も同じで、話しやすい性格をしている佐々木は、着任したてで浮いている吉岡にとっての救いだった。昨晩は話が大いに盛り上がり、先任の搭乗員に怒鳴られてしまったほどだ。
「俺はもう駄目かもしれない…」
吉岡は項垂れたまま小さな声で呟いた。
「そ、そんなにか!?なら俺の羊羹を二切れ…いや一切れやる!これ以上はやれないぞ!」
佐々木は大の甘党らしかった。常に何かしら甘いものを探しており、報奨の缶詰も甘味と交換してしまうほどだ。
そんな大切な羊羹を一切れやるというのだ。なんて心優しいやつなんだと吉岡は思った。まるで瀬戸とは大違いだなとも。
「…いや、羊羹は要らないよ、ありがとう」
「良かった!じゃなくて、良いのか?」
自分からやると言っておきながら、要らないと言えば喜ぶ。そんな本音が隠しきれない素直さも佐々木の良いところだった。小柄な彼はパッと吉岡の隣の椅子に座った。
「で、何があったんだ?」
普段にぃと笑って白い歯を見せる佐々木が心配そうにこちらをのぞき込む。
吉岡は椅子に座り直して昨日からの瀬戸への愚痴を佐々木に零した。
「瀬戸少尉かぁ〜、前から厳しかったけど、そんなに自分から関わってくる人じゃなかったな。よほど目をつけられているんじゃないのか?」
瀬戸との接点は全くなかったに等しい。木下からの紹介があったことぐらいしか見識を得る機会はないはずだ。
それとも初日から相当嫌われてしまったのだろうか、と吉岡がまたも机に突っ伏すと、佐々木があっと声をあげた。
「おい、瀬戸少尉だ」
小声で耳打ちする佐々木の指さした先をパッと見た。
食堂の入り口に瀬戸が立っていた。真っ白な軍服に身を包み、鋭く周囲を睥睨するとこちらを見て動きを止めた。じっと睨みつけ、眉間に皺を寄せ誰も近寄らせないような圧を発している。
そしてそのまま真っすぐこちらに歩いてきた。ピッと吉岡と佐々木は慌てて背筋を伸ばした。
しんと静まり返った食堂に瀬戸の歩いてくる音だけがコツコツと響く。思わずギュッと目を瞑った。吉岡の額に冷や汗が滲む。殴られる理由なんて思いつかないのに、吉岡は身体が萎縮していくのを感じた。
やがて目の前で足音が止まった。恐る恐る目を開けると、こちらを見つめる瀬戸と目が合った。
「吉岡」
「は、はい!」
ほとんど反射だった。鋭く呼ばれ、椅子を弾き飛ばすような勢いで立ち上がった。目は合わせたままだ。外せばそのまま喉元に噛みつかれるような恐ろしさがある。
沈黙が流れた。実際には数秒なのだろうが、吉岡には永遠にも感じられた。蛇に睨まれた蛙のように、身体が思うように動かない。
「食事は済ませたか?」
想像もしていなかった言葉に、虚をつかれた思いだった。一体何を考えているのか。吉岡は慎重に答えることにした。
「い…いいえ、まだです」
実際、吉岡はまだ何も食べていなかった。項垂れて気持ちが沈んでいると、あまり食欲がわかなかったからだ。しかし、緊張が緩んだこともあってか、先ほどまで気にもならなかった空腹感が急に頭をもたげてくる。
静かな食堂にその音は静かに、されどよく響いた。
吉岡は羞恥に顔を上げていられなくなった。俯いて顔を覆う。
「そうか、なら終了次第、士官室に来い」
瀬戸はくるりと踵を返すと、脇目もふらずそのままスタスタ歩いて行ってしまった。
佐々木がバンバン背中を叩いてくる。息が切れるほど笑っていた。力は入れていないが痛い。主に吉岡の心ではあるが。
結局瀬戸のせいで恥をかいてしまった。このことは絶対に忘れないと心に決めて、佐々木の腕を掴んで握りしめる。やがて痛い痛いと騒ぎ出す佐々木に溜飲を下げながら、急いで食事を摂ろうと心に決めたのだった。
なぜ瀬戸がわざわざここに吉岡を呼びに来たのかという疑問は、既にどこにも無くなっていた。