第3話
「各員集合!点呼!」
ラッパの音に続いて、野太い怒声が響く。
清々しい風が柔らかな空気を運んでくる。夏もそろそろ終わりに近づいてきたのか、足元の草には朝露がついて輝いていた。
帝都東京の防空を担う拠点、厚木基地。手練れの飛行機乗りや、高級将校が居並ぶこの基地は日本軍の重要拠点の一つだった。
そんな中、背嚢を背負い、ついに今日配属される吉岡はその景色を呆然と眺めていた。
『点呼までに荷物をまとめ、辞令を配属部隊の隊長に確認すること』
長崎の海軍基地で命令されたことだ。これを怠ることは、軍令違反と言っても過言ではない。
それなのに吉岡はいまだ、隊長を見つけられずにいた。
配属先の部隊員から、隊長なら朝餉をとっていると言われ食堂に行ったが、そこで烹炊員からガンルームで休憩されていると聞いて、向かった先で従士に確認したがもう戻られたというものだから、また点呼場に帰ってきたところだ。
まるでイタチごっこだ。追いかけるけれども追いつけない。その影さえ踏ませてくれないのだ。
吉岡は途方に暮れた。隊長の名前は確認しており瀬戸明少尉、木下が紹介してくれたその人だった。
もう一度隊員に居場所を聞こうと思ったところ、後ろから鋭く誰何する声が聞こえた。
「貴様、どこの配属の者だ?官姓名を名乗れ」
吉岡はハッとして振り返った。全く気配を感じなかった。
スッとした体型に鋭い目付き、それでいて上背はある男がこちらを睨みつけている。金線に一つ桜、どうやら少尉のようだ。
整った顔立ちにうっすらと帯びる影が憂鬱げで、吉岡にはそれがやけに印象的に見えた。
「名乗らぬのなら切り捨てても良いな?」
吉岡がしばらく見つめていると、しびれを切らした男が腰に提げた日本刀の柄に手を乗せたのを見て、慌てて答えた。
「申し遅れました!本日より、厚木基地に転属となりました吉岡雄三一飛曹であります!」
男は吉岡を舐めるように見て一つ頷く。
「…ふむ、貴様が吉岡か。木下から話は聞いている。瀬戸明は俺のことだ。」
この人が、と吉岡は思う。木下はまるで熊のような男だったが、瀬戸という人はイヌ科の動物を連想させた。それも、人懐こい飼いならされたイヌではなく、猟犬、もしくは一匹狼といった雰囲気だった。
それでも自分を知る人に出会えたことで、吉岡はホッと息を吐いた。
「それで貴様、今の今まで一体何をしていた?」
鋭く冷たい低音の声に質問されると背筋に冷たいものが走る。
安心したのは束の間で、先ほどの行動からも感じられたが瀬戸と言う人は短気らしい。不機嫌そうに、面倒くさいものを預かったという感情を隠しもせずにいる。いつ噴火してもおかしくない活火山の近くにいる気分だった。
怒らせてはたまらないと吉岡はたらい回しにされた経緯を話した。
「それで、いまだに部隊長を見つけられずにいました」
出来るだけ同情してもらえるように多少話を盛って説明した。しかし、無情にもそれはすぐに意味を無くしてしまった。
「俺が部隊長だ」
えっと吉岡は声をもらす。驚きに一瞬固まってしまった。
「遅刻の言い訳はそれだけか。では仕置きが必要だな」
まずいと吉岡は思った。海軍での仕置きといえば教育という名のもとに暴力が正当化されており、精神注入棒という、1キロ以上もある長い棒で尻を殴られることが常で、そうでなくても太いロープや、炊事用の大きなしゃもじで殴られることもしばしばあった。
しかし、上官からの命令は絶対。逆らえばそれこそ軍法会議ものだ。吉岡は腹を括って、はいと答えた。
瀬戸が隊長として初めから点呼場に居ればこんな事にはならなかったのに、という不満はグッと堪えた。どんな理不尽があっても、軍人たるもの黙って従わなければならない。
今日の夜は痛みで眠れないなと諦めていた吉岡に、瀬戸は変わらぬ声で命令した。
「宿舎の掃除と草刈り、後は整備員の手伝いだ」
一瞬理解が追いつかなかった。まさかこれは聞き間違いかと吉岡は思う。これが本当なら、もっと酷い仕置きを想像していたこともあって、正直拍子抜けだった。
たまらず吉岡は聞き返してしまった。
「そ…それだけでありますか」
「なんだ、もっと厳しくしてほしいのか?」
「め、滅相もありません!すぐに取りかかります!」
吉岡の発言は藪蛇だった。だからこそ、その後の行動は早かった。せっかく痛い思いをしないで済んだのだ。瀬戸の気が変わらぬうちに取りかかろう。そう思って、脱兎のごとくその場から離れた。
おかしな人だなと吉岡は感じた。第一印象はものすごく恐ろしい人だったが、そういう人は大体、大した理由もなく鬱憤晴らしで暴力を振るってくるなんてこともある。
木下の旧友ということだから悪い人ではないのだろう。仕置きもそうだが、以外に優しい人なのかもしれない。ただ、初めに感じた影を忘れられない。どこか他人を突き放しているような、そして、諦めているような雰囲気はどことなく危なげに映った。
吉岡は軽く頭を振って雑念を払う。まだ着任初日だ。明日からも気合を入れて頑張ろうと、掃除用具を取りに倉庫へ向かうのだった。