第2話
洋上に浮かぶ、急激に発達していく入道雲を眺めながら吉岡はため息をついた。
窓を開ければムワッと熱気が入り込み、けたたましい蝉の声が耳の中で木霊する。
物寂しい宿舎の一部屋で吉岡はポツンと一人取り残されていた。
仲間の隊員は皆、南方戦線へと補充要員として出向が命じられ、今朝、北九州から一路フィリピンへ飛び立った。
本土に残ったのは吉岡だけだった。
吉岡が予科練━━海軍飛行予科練習生━━を卒業したのは去年のことで、その後北浦の航空基地でその他の卒業生や先任士官達とともに南方出撃のための訓練を続けていた。
それにしても、と吉岡は思う。例え逆らえはしない下命があったとはいえ、苦楽を共にした仲間にこの仕打ちはないだろう。
下命があったのが先週で、出ていったのは今朝。ちょうど吉岡が実家に帰っている間の出来事だった。
基地に残った上官にその事を聞いて、吉岡はつい唖然としてしまった。
聞くところによると、どうやら吉岡だけ皆と転属先が違うらしい。 技量を評価されての栄転だというのだがそれらしい情報はなにも与えられていない。
ヤキモキしながら吉岡の荷物のみが残された宿舎で、一人寂しく荷造りをしていた。
出向先は厚木基地。首都防空を担う大きな航空基地で、練成部隊もいると聞く。
思い出とともに、荷物を包んでいると廊下の方から呼びかける声が聞こえてきた。
「吉岡!吉岡二飛曹はおるか!」
「はい!ここにおります!」
上官の呼び出しだ、急いで出なくてはならない。吉岡は慌てて廊下へと飛び出した。
窓を背に立つ大男は飛び出してきた吉岡をみて二カッと笑う。凛々しい眉毛とエクボが特徴的だった。
帽子は被っていなかったので立礼する。
「おう!休暇はどうだ、楽しめたか?」
「はい!お陰様でゆっくりと羽根を伸ばさせていただきました!」
そうかそうかと笑顔で頷くのは、この基地にきてから大分可愛がってもらった木下少尉だ。
「まさか貴様だけ配属が別とはなぁ!」
ハッハッハと大きな口を開けて笑う彼はとても面倒見が良く、他の隊員にもたくさん懐かれていた。今日は1人で荷造りをしていた吉岡の様子を見に来てくれたのだろう。
「そういう木下少尉も晴れて教官殿ではありませんか」
「うむ、まぁな。俺だけ内地に残るというのは何とも言えん」
優しい彼のことだ、おそらく戦地へ行く部下達をとても心配しているのだろう。彼も元は南方にいたが、ミッドウェーでの戦いのあとこちらへ先任士官として配属されていた。
ふと、木下が神妙な顔つきになってこちらを見つめながら静かに聞いてきた。
「貴様はどこに出向するか聞いておるか?」
「一応厚木とは聞かされていますが…」
その答えに俺も詳しくは知らんが、と顔を近づけて内緒話をするように耳打ちする。
「どうやら貴様は空母付きになるらしい。秘匿だが現在建造中の新型空母だそうだ」
吉岡は空母、とつぶやいて、ええッ!と素っ頓狂な声をあげた。
「く、空母でありますか!?」
「そうだ、上は殊の外貴様のことを評価しているようだ。来年新設される航空隊の基幹要員として訓練を施すのだそうだ。まだ空母は完成していないからな。厚木基地でその下地を作るらしい。」
「訓練ですか…」
「厚木にいる知り合いにも手紙を出しておいた。南方からの知り合いだ。なにかあればそいつを頼れ。名前は瀬戸明。瀬戸内の瀬戸に明るいであきらだ。」
「何から何までありがとうございます」
これまでの感謝もこめて深くお辞儀をする。
しばらくの沈黙のあと、木下はポンと肩を叩いて呟く。
きっと今までも沢山の人たちに同じ事をしてきたのだろう。
ひどく小さな声で、明朗快活な彼からは想像できない悲壮な表情。よほど多くの葛藤があるのだろう。
「死ぬなよ?」
煩く響く蝉の声の中でも、恐らく叶わないその言葉は吉岡の耳に確りと届いた。