第1話
初投稿です。よろしくお願いします。
立派な門構えから出て早々、佐竹和雄は大きなため息を誰に隠すこともなく吐いた。
「これで3人目か…」
戦後80年を迎えた節目に、記事を作ろうと編集長が言い出したのはつい先日のことだ。
普段はそんなこと絶対に言わないような人なのに意外なこともあるものだと思っていたが、そのインタビュアーにまさか自分が選ばれるとは思いもしなかった。
佐竹は入社してまだ半年、地元の底辺校をギリギリで卒業したあと、親戚の口利きでこの小さな出版社に入れてもらった。
何をするにもやる気が出ず、中途半端な人生。目標も目的もなくただ生きる。何のために生きているのかすら曖昧な佐竹にやってきた転機だ。
地元紙を主に手がける零細企業で、佐竹のほかに社員は3人。編集長兼社長と記者と事務員がいた。
佐竹は普段そんな先輩たちのサポートとして、給仕や鞄持ち、記録の手伝いが主な業務だった。
そんな佐竹が一人で話を聞いてこいというのだから、編集長も中々に意地が悪い。もちろん記者として出来なければならないことなのは重々承知しているが、突然のことに不安に駆られたのもまた事実だった。
佐竹は着慣れないジャケットの胸ポケットからメモを取り出し、箇条書きにされた名前の上から3つ目に斜線を引いた。
「あと一人、本当にこんなんで大丈夫なのか」
インタビューを引き受けてくれた老人達は、皆90歳を過ぎた高齢で耳が遠かったり、話が聞き取れなかったりとなかなかインタビューに苦労した。
戦争を経験した人の多くは既に寿命で亡くなっている。
こうして直接話ができるだけありがたいとは思うが、これをこのまま記事にするのはだいぶ骨を折るだろう。
佐竹はほとんど戦争のことを知らない。もっとも佐竹に限らず同じ世代の若者たちの多くは、戦争など教科書に出てきたきりで、詳しく知らない、もしくは全く分からないという人もいる。
佐竹が知っているのは日本とアメリカが戦い、そして日本が負けたということ位で、まさか今更その歴史の知識が必要になるとは考えてもいなかった。
取り敢えず進捗を報告しようとスマホを取り出したが、ふと思い立って、先ほどの老人が何度も口にした単語を調べてみた。
『カミカゼ特攻隊』
初めて耳にする単語だった。老人がその言葉を発するたびにそれは何か聞こうと思ったが、老人はその一瞬だけは妙に迫力があって、ただ頷くことしかできなかった。
検索はすぐにヒットした。結果を一読した佐竹は、その内容に軽い動悸を覚えた。
体当たり、決死隊、自爆攻撃
若い男たちが国のために死ぬ。佐竹には全く想像できない世界だ。
さわやかに吹き抜ける風と、どこか遠くに聞こえていた蝉の声がブアっと耳に響いた。
今日も暑く、そして平和な日常があった。
空はどこまでも青く、遠く、照り付ける太陽はそれでも暖かな日差しのままで。
佐竹が幼い時から変わらない日本の夏だ。
そんな日本は80年前、確かに存在して。そこで暮らす人々もまた確かに存在していた。
ふと、佐竹は挿入写真に目を凝らした。ズラッと並んだ若者たちはそのほとんどが笑顔だった。
佐竹は不思議に思ったが、その答えを出す前にスマホから着信音が鳴り出した。
「はい、どうしましたか?」
『まずはお疲れ様ですだろ?どうだ、しっかりインタビューは出来てるのか?』
報告が待ちきれなかったのだろう。編集長が小言を言いながらかけてきた。
どうやらスマホに見入っていたらしい。往来の真ん中でしばらく立ち尽くしていたようだ。
「今、3人目の話を聞き終わったところです。内容としては薄いですが、これならなんとかまとめられるんじゃないですかね」
すると向こうからはぁ…とため息が聞こえた。
『お前にはまだ「薄い」という感想しか得られないか…』
数秒の沈黙の後、編集長は続けた。
『…最後の一人の話はよーく聞いておけよ?それがきっとお前のためになる』
佐竹は取り敢えずわかりましたと答えた。反抗心からもとからそのつもりですというのはやめた。きっと小声が十倍になって返ってくる。
頑張れよ、お疲れさまといって編集長は電話を切ってしまった。
通話画面から切り替わって、先ほどと同じ画面を映すスマホをなんともなしに見つめながら、ベッタリと汗で張り付くシャツの気持ち悪さに眉を顰めた。
スマホをズボンのポケットにしまい、外にいる間は脱いでおこうと、一昨日買ったばかりのグレーのジャケットを畳んで持つ。
次の訪問先まではここから電車を使って1時間ほど。そういえばまだお昼も食べていないことを思い出して、駅前のファストフード店でポテトとハンバーガーを注文して急いで食べた。
佐竹が目的地に到着したのは、午後2時を回って一番暑い時間帯だった。
周りはほとんど田んぼで、ポツンポツンと民家が見える。時折、大きな蔵や、古びて打ち捨てられたビニールハウスがあり、日本の田舎に増えてきた寂れた空気を感じさせた。
そんな中、雑木林の一角をくり抜いたような場所に建つ一軒家。見た目はどこにでもある古民家だが、どこか惹かれるような、懐かしさのようなものを感じるこの家にインタビュー最後の一人が暮らしている。
玄関前まで来た佐竹は『吉岡』と書かれた表札の下にあるインターホンを押した。
ややあって玄関の磨りガラスの向こうに人影が見えたので、佐竹は声を上げた。
「先日連絡した佐竹と申します」
ガラガラと音を立てて引き戸から現れた老人は、杖こそついているものの足取りはしっかりしており、温厚そうで優しげな顔立ちだが、強い意志を感じさせる瞳はまっすぐ佐竹のことを射抜いていた。
「佐竹和雄と申します。本日はどうぞよろしくお願いします」
改めて名乗り頭を下げると、ややしゃがれた声でよろしくと言うのが聞こえた。
すっと頭を上げると今度は老人が自己紹介を始めた。
「吉岡雄三です。男やもめでなにも出ないがどうぞ上がって下さい」
にこりとしわの寄った顔で笑いかけてきた彼にはどことなく愛嬌が感じられた。
先立って廊下へと進む吉岡に続こうと、佐竹も三和土で靴を脱ぎ、かかとを揃えてからついていった。これまでの訪問でしっかり学んだものだ。
客間も洋室で佐竹は心底ホッとした。これまでの訪問先では和室に通され、インタビューの間ずっと正座をしていたのだった。
普段の生活で正座などそうそうすることのない佐竹からしてそれは中々に苦痛で、切実に椅子に座りたいと願っていた。
通された客間には手前に一人掛けのソファーが一つと、ローテーブルを挟んだ向こう側に三人掛けのソファーが一つあった。
奥の席へと促す吉岡に一度断りを入れてから、再度勧められて上座に腰を下ろす。これもこれまでの訪問で学んだことだった。
「君は若いのにしっかりしているのだね」
にこやかな笑顔で一人掛けのソファーに座った吉岡が話しかけてくる。
あまり大げさに謙遜せず、素直にありがとうござますと言うと、嬉しそうに、まるで孫を見るような視線にむず痒くいたたまれない気持ちになる。
取り敢えず、先ほど駅前で買っておいたカステラを紙袋に入ったまま机に乗せた。
「つまらないものですが、どうぞお召し上がり下さい。本日はインタビューを受けてくださり、ありがとうございます」
「おや、お気遣い無く。僕も久々に昔話が出来て嬉しく思っていました」
では早速と思って佐竹はペンとメモ帳を手に取ろうとしたら、吉岡から話しかけてきた。
「君はあの戦争をどう思っているのかな?」
唐突に投げかけられた質問はなんとも抽象的で、大した知識も持たない佐竹はどう答えて良いのか分からなかった。
「どう、と聞かれても、私はあまり戦争のことは知らないですし、ただ、人の命が無くなるんだからやるべきじゃないし、悲しいことだと思います」
吉岡は一つ頷いて、「そうだね」と言った。
「もちろん戦争は避けるべきことだと僕も思います。人も大勢亡くなる。しかし過去に戦争があったのはいずれも、それを望む人がいたからに違いない。なぜなら戦争とは自然現象ではなく、人の手によって行われるものだから」
俯く顔には、どことなく自虐しているようにも感じられる。
ペンとメモ帳を手にした佐竹は改めて吉岡に質問した。
「ではあなたにとっての戦争とは何ですか…?」
にこやかな笑みにうっすらと哀愁の色を漂わせ、あくまで穏やかなまま吉岡は語りだした。
「あの日、あの瞬間、僕たちはそこにいました。家族、恋人、そしてなにより戦友たち。そんな人たちと1日1日を大切に、必死で毎日を生きていたのです。それは、間違いなく僕の、僕たちの青春で、泥にまみれた、血塗られた、それでも褪せずに残る、今でも決して忘れられない半生が戦争なんです」
佐竹はグッと息を呑んだ。
『青春』
今の自分と同じ時、目の前の男は戦争で青春を生きていたというのか。
あまりにも自分のこれまでの生き方が、ちっぽけで情けないと思えて仕方がなかった。
「…後悔はないんですか?」
佐竹は恐る恐る問い返した。インタビューの台本にはなく、ほとんど素の自分から出た質問だった。
「何故?」
「たくさん、大切な人が亡くなってしまったのではないですか?失った原因の戦争を憎み、当時選択した道を後悔はしたりしないんですか?」
佐竹は必死だった。なぜだかは分からないが、そのままの答えを飲み込めはしなかった。体の何処かがそれを拒否している。
「たとえ亡くなったとしても、その人がいたという事実は消せはしないでしょう。思い出は、時が経てばうっすらとぼんやりしてくるけど、いつだって心を温かくして締め上げてくる」
ニコッとまた朗らかな笑みに戻った吉岡が首を傾げて「君にもあるでしょう?」と問いかけてくる。
「俺には全然、吉岡さんほどの深い思い出は持っていません」
吉岡はウンウンと首肯を繰り返し、その笑顔でじっと佐竹を見つめた。
「深く、胸に染み入る思い出というのは、作ろうと思っても中々に難しい。逆に、ふとした瞬間の過ぎゆく日常の一場面にこそ、忘れたくない、大切にしたいという願いが生まれます。僕にはそのたくさんの一瞬が今でも心にあるんです」
無作為に過ぎてゆく日常。佐竹がこれまで生きてきた人生はそんな日々だった。目の前の男は必死に日々を生きてきたのだろう。
戦争という人の生み出したる一種の災厄、禁忌、もしくは最大の娯楽。そんな狂った世界で彼はどんな思いで、どんな暮らしをしていたのか。
佐竹は知りたいと思った。そこにきっと今自分の求めている、常々考えてしまう、生きる意味があると確信していた。目の前の彼の在り方が自分に必要なのだと理屈はなくとも理解していた。
「吉岡さん。戦争の、あなたの青春の話を聞かせていただけませんか?」
ほぼ懇願するような面持ちで佐竹が乞うのを、吉岡は優しく慈しむような視線で見つめ、一つ頷いて「わかりました」と答えた。
「長く、暗い話ですが、それでも良ければお話しましょう。僕と、そして『彼』の話を」
そう語り始める吉岡の目は、まるで20代に戻ったかのように輝き、兄を追いかける弟のように無邪気に笑っていた。