第7話 陽葵抗う
巨大な鬼が、胸元を貫かれたまま、
目を見開いたまま、崩れ落ちる。
魂の剣が突き刺さった傷口から、
蒼い炎が吹き出し、内側からその巨体を焼き尽くしていく。
地響きとともに、
地獄の針山に鬼の死骸が沈み込んだ。
針山地獄が、一瞬だけ静まり返る。
風すら止まり、蒼い焔の音だけが、空気を満たしていた。
それは、この世界の常識を覆す、異様な光景だった。
しかし、その余韻は続かなかった。
ズズ……ズズ……ッ!
何かが、針山を踏みつけて進んでくる。
奏多が気づいた瞬間、
黒い影が視界の奥で大きく揺れた。
「……ッ!」
針山の稜線に、もう一体の鬼が立っていた。
血走った目、振りかざされた棍棒、
そしてその視線が、倒された鬼の死骸へと向く――
「てめぇら……」
刹那、鬼の目が変わる。
憤怒。怨念。喪失の狂気。
「てめぇらあああああああああアァッ!!!」
轟音とともに、鬼が突進してくる!
足元の針を砕き、地面を割り、
巨体が真っ直ぐに奏多と陽葵を襲う!
奏多は構えたが、身体が動かない。
痛み。疲労。限界が迫っていた。
陽葵が叫ぶ。
「……嘘……もう一体……ッ!?」
「お兄ちゃん、逃げて!!」
「ダメ! お兄ちゃんが死んじゃう!!」
その瞬間――
「しゃがめ」
低く、短く。だが、明確に届いた声。
朔の声だった。
奏多は反射的に陽葵を抱え、身を屈める。
直後、空気が断ち割られる音が響いた。
ズバァンッ!!!
風が裂ける。視界の前方で、何かが飛んだ。
それは、鬼の――首だった。
一歩前に出た朔の剣が、淡く光を残している。
その刃先から滴った魂の血が、地面に落ちる前に蒸発して消える。
倒れた鬼の巨体が、激しく針山を揺らした。
土煙が舞う。
息を呑む。
空気が、また静まり返った。
その中心に立つ、男。蒼月 朔
彼は剣を払うこともせず、ただ一言、呟いた。
「……やるじゃねぇか」
それは、誰に向けた言葉なのか。
いや、わかっていた。鬼の最初の一撃を、陽葵を背負いながらも確かに防いでみせた、僕に向けての言葉だ。
目が合った。
その目に宿るもの――怒りでも誇りでもない。見下すような憐れみでもない。
ただ、同じ地獄を歩んできた者だけが持つ、対等なまなざし。
ドクン、と心臓が鳴った。二百年、誰からも向けられたことのない種類の視線だった。
朔は歩いてくる。
剣はすでに消えていた。
そして立ち止まり、また口を開く。
「……一緒に来ないか」
その声は低く、穏やかだった。
けれど、そこには確かな重さがあった。
「……どこへ?」
思わず、奏多が問う。
朔は答えない。
ただ、わずかに視線を上に向けた。
「抜けるためにだ。ここを――」
それだけだった。
沈黙が落ちる。
奏多も、陽葵も、すぐには答えられなかった。
地獄という名の現実に飲まれ、戦いの余韻に支配されていた。
そして今、その中心にいる“男”の正体もわからない。
だが、それでも。
あの剣。
あの言葉。
そして――あの背中。
それが、彼らに何よりも強い“信頼の種”を残した。
陽葵が、奏多の手をぎゅっと握る。
奏多は、短く息を整え、うなずいた。
沈黙が落ちる。
すぐには答えられなかった。この男を信じていいのか? この地獄から、本当に抜け出せるのか? 疑いが心をよぎる。
だが、背後で陽葵が、僕の手をぎゅっと握った。
その小さな温もりが、すべての迷いを吹き飛ばしてくれた。
そうだ。僕はもう、一人じゃない。
奏多は、短く息を整え、うなずいた。
「……行こう」
「ここで終わるなんて、もう思いたくない。生きるってこと……陽葵と、そしてあなたと、信じてみたいんだ」
朔は短く「行くぞ」とだけ告げた。
その声に感情はない。だが、有無を言わさぬ力がこもっていた。
彼はもう振り返ることなく、迷いなく針山の向こうへと歩き出した。
静かに、ゆっくりと。
こうして――
鬼を倒し、地獄に抗った三つの魂は、
初めて仲間になった。
信頼も、名前も、未来も曖昧なまま。
だがその歩みだけは、確かだった。
それは生きるというたった一つの答えを探す、
本当の旅の始まりだった。
地獄に、風が吹く。
血と鉄の匂いが混じる鈍い風が、焼けた肌に突き刺さる。
針山の谷を駆ける三つの影が、その風を切った。
「……裂け目が見えた」
先頭を走る朔が、静かに告げる。
その目の先。 針の壁が崩れた先に、ぽっかりと黒い穴が開いている。
地獄の瘴気が流れ込むように蠢き、 それでも確かにそこだけは、外に通じているように見えた。
「やっと……出口……?」
陽葵が、走りながら息を呑む。
だがその刹那——
グアアアァァッ!!
咆哮が、背後から空気を裂いた。
「来たか……!」
朔が振り返る。
——鬼。 しかも三体。地を砕き、火花を撒き散らしながら迫ってくる。
その眼は血走り、狂気に染まり、 「仲間を殺された怒り」を燃やしていた。
「お兄ちゃん、後ろ……!!」
陽葵の叫びと同時に、棍棒が唸りを上げて振り下ろされる。
「……バリア!!」
奏多が反射的に叫ぶ。
魂の膜が展開し、棍棒を受け止める。 だが、力が強すぎる——
バキィンッ!!
バリアが軋み、奏多が吹き飛ばされる。
その背に、陽葵が抱きついていた。
「きゃああああああっ!!」
針の地に転がる。 皮膚が裂け、熱が走る。
「逃がさねぇぞ、クソガキが……!」
鬼の影が迫る。 棘の地面を踏み砕きながら、獣のように襲いかかる。
奏多は立ち上がろうとするが、身体が動かない。
もう限界が近い。足が、腕が、全身が痛みに悲鳴を上げていた。
そして——
鬼の棍棒が、陽葵に向けて振り下ろされる瞬間。
「やだ……やだやだやだぁあああああっ!!」
陽葵が、絶叫した。
「お願い……っ、もう誰も壊れないでぇっ!!」
その瞬間だった。
光が、彼女の胸元から爆ぜた。
魂の粒が震え、空気が揺れる。
小さな身体を中心に、まばゆい蒼い膜が一気に展開した。
——バリア。
それは守られるものではなく、 彼女自身が守りたいと願って発した力だった。
ドゴォン!!
棍棒がバリアに激突する。
火花が散り、鬼が吹き飛ぶ。 巨体が壁に叩きつけられ、呻き声を上げる。
陽葵は、震えていた。 涙を流しながら、それでも両手を前に突き出し、小さく呟いた。
「……私も……守りたいの……」
奏多が、その姿を見て言葉を失う。
震えながら、涙を流しながら、それでも彼女は僕たちの前に立っている。
僕がずっと守らなければと思っていた、か弱いはずの少女が、今、僕たちを守っている。
(……そうか、陽葵。君も戦ってるんだな……!)
胸に熱いものがこみ上げる。それは驚きと、そして何よりも誇らしさだった。
朔は剣を構える。 鬼たちはなおも迫ってくる。
「……一体だけでも」
その一言とともに、朔が駆けた。
一閃。
剣が光を残し、鬼の首を切り裂いた。
その魂が、炎となって崩れ落ちる。
「……走るぞ」
朔が振り向き、短く言う。
三人は、一斉に走り出した。
針山の地を、地獄の出口に向かって。
陽葵は、バリアを足元に集中させ、針を踏みながらも痛みを軽減していた。
奏多も、朔も、それを見て小さく目を見開く。
——この時、三人全員が初めて針山を自分の足で駆け抜けたのだった。
「……もう少しで——!!」
裂け目が目の前に迫る。 その時だった。
背後から、鬼が棍棒を振りかぶる。
「……っ投げた!?」
巨大な棍棒が、雷のような轟音を伴って、三人に向かって飛んでくる。
——避けられない。
「……陽葵!!」
その時、陽葵が全身をひねり、背中で奏多たちを庇いながら、 両手を広げて叫ぶ——
「バリアァアアアアアッ!!」
炸裂する魂の膜。
飛来した棍棒が、巨大な蒼い盾に叩きつけられ、空中で爆ぜた。 破片が飛び散る中、三人は裂け目へと——
「飛び込め!!」
朔の声と同時に、全員が身を投げた。
——世界が、裏返った。
視界が歪み、重力が崩れ、全てが音を失って沈んでいく。
そして、三人は地獄の底へと——
灼熱地獄へ、堕ちていった。