第6話 絶望が足りない
それは、あまりに突然だった。
いつものように、針山を歩いていた。
背中に陽葵を背負い、魂を削られながら、
それでも少しだけ、昨日よりは呼吸がしやすかった。
背中の彼女が、初めて声を出してくれたから。
ほんのわずかな一言。
でも、それは地獄に生まれた奇跡だった。
「ありがとう」
それだけで、この世界の色が変わったような気がした。
……だが。
地獄は、そんな甘さを許してくれる場所じゃない。
「――お前たちだけ、随分と馴れ合って楽そうな顔をしているなァ……?」
鬼は、陽葵の小さな体を値踏みするようにねっとりと見つめた。
「その背中のガキから先に喰ってやろうか?
魂が温まる前に、希望ごと噛み砕いてやる。……絶望が、足りねぇよなァ!!」
響いたのは、空を裂くような低い声。
振り返る前に、地響きが身体に届いていた。
ドン……ドン……ドン……!
針山を踏み潰すように現れたのは、5メートルを超える鬼だった。
皮膚は鋼のように黒く、筋肉は塊のように盛り上がっている。
角が二本、額から突き出し、目は血のように赤く光っていた。
片手には、人間の胴体ほどある棍棒。
それを、まるで箒のように軽々と振り回す。
「……絶望が、足りねぇよなァ!!」
刹那。
鬼の棍棒が、奏多の足を目がけて振り下ろされた!
咄嗟にバリアを展開する。
ギィィィンッ――!
ものすごい衝撃が走る。
奏多の足元から、針が吹き飛び、地面が軋んだ。
「ぐっ……!」
足に走る激痛。バリアは耐えた――だが、次は無理だ。
一度は防げても、連撃にはもたない。
その威力は、明らかに個人で相手できるレベルではない。
「お兄ちゃん……っ!」
背中で震える声がした。それが何より怖かった。
陽葵が、ようやく心を開き始めたのに。
たった一言で、あれだけ勇気が必要だったのに――
「ここで……終わりなのか……?僕は……また、何も守れないのか……」
震える膝。
痛みを麻痺させるほどの衝撃。
でも、それ以上に――悔しさが、溢れた。
「クソッ……クソッ……!」
そうだ、僕は――無力だ。弱い。情けない。
人を背負っても、守れる力なんてない。
でも、だからって、ここで終わってたまるか……!
鬼が再び棍棒を振りかぶった。
今度は、完全に致命の一撃。
奏多は、思わず目を閉じ――
そのとき。
「――正直、まだ目立ちたくなかったんだがなァ」
背後から、静かな声。
風を裂く音。
そして、巨鬼の顔面に――鮮やかな飛び蹴り!
「ッッガアアアアア!?」
鬼の首がのけぞり、棍棒が地面に外れた。
振り下ろされたはずの一撃が、わずかに逸れた――命拾い。
「……!」
現れたのは、僕と同じ人間。
だが、その魂の密度が、放つ圧が、まるで違った。
「……あの人……」
背中で陽葵が息をのむのが分かった。
男は何も言わず、すっとその手に淡い光を収束させていく。それはやがて、一本の剣の形になった。
奏多は目を見開いた。(あれは……僕のバリアと同じ……魂の力?
でも、攻撃に転用しているのか……!?)
男は鬼を真っ直ぐに見据え、静かに、だが力強く言った。
「こっからだ。お前ら、絶望するのは……まだ早ぇぞ」
戦いは、まだ終わっていなかった。
でも確かに――あの一撃で、地獄に希望の刃が突き刺さった。
ドスッ!!
鬼の顔面に蹴りが、衝撃波を撒き散らす。
巨体がぐらつく。
地獄で鬼が人間に押し返される――それは、ありえないはずの光景だった。
振り返ると、そこにいた。
黒ずんだ空の下、血塗れの針山に立つ男――
蒼月 朔。
まるで、助けに来たことすら気にしていないかのように、ただ静かに佇んでいた。
その腕に、剣も槍もない。
何の武器も持たないまま、彼は――5メートルの鬼に対峙する。
「ヒャハハハハ……何だテメェ! 人間ごときが調子乗って――」
叫びながら、鬼が棍棒を振り下ろす!
空気が裂けた。
巨大な影が、朔の頭上に落ちかかる。
そのとき――「……!」
朔の足元の魂が、光を放つ。
その輝きは、一瞬にして形を変え――
剣となった。
青白く光るその刃は、物質でも金属でもない。
魂の光、想いの結晶。
奏多は目を見開いた。(あれは……僕のバリアと同じ……魂の力?
でも、攻撃に転用しているのか……!?)
ザシュッ――!
音もなく、剣が空を裂く。
棍棒が叩き落とされる直前、一閃。
振るった一撃が、鬼の腕を――
切り裂いた!
「グアアアアアァアッッ!!?」
鬼が絶叫する。
腕が肩口から深々と裂け、魂の黒い血を撒き散らした。
巨体がよろめく。
だが、倒れない。
後ろから突進してくる!
「お兄ちゃん危ないッ!」
陽葵の声。だが、奏多は動けない――身体が痛みに軋んでいる!
それを見ていた朔は、ふっと短く息を吐いた。
その瞬間、剣が光を増す。
想像しろ
彼は叫ばない。心の中だけで、ただ静かに念じた。
速さ、鋭さ、絶対に届くという確信を――
次の瞬間、彼の姿が掻き消えた。
音すら置き去りにして、風を裂く。
閃光が、鬼の胸元に――ズブリと突き刺さる!
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
巨大な鬼が、目を見開いたまま崩れ落ちる。
魂の剣が貫いた傷口から、浄化の蒼い炎が吹き出し、その巨体を中から焼き崩していく。
針山地獄が、一瞬だけ静まり返った。
誰もが、その場に立ち尽くした。
地獄で、鬼を――人間が倒した。
それが、どれほどの意味を持つかを、
この世界にいる誰もが知っていた。
朔は、血を浴びたまま無言で剣を振るい、蒼い火を払う。
そして、ただひとつ、ぽつりと呟いた。
「……これが、魂だ」
その言葉は、雷のように奏多の胸を撃ち抜いた。
僕がようやく気付いた【守る】ための力。それを、あの男は遥か高みで【戦う】ための力として振るっている。
地獄に抗う力は、存在する。
そして、その力は誰かに与えられるものではない。
自分の内から、絞り出すものだと――あの背中は、何よりも雄弁に語っていた。
名乗りもせず、勝ち誇ることもせず、ただ静かに、振り返ることなく――歩き出した。
まるで、「俺を追ってこい」と言うかのように。
残された奏多と陽葵。
彼らの胸に、確かに刻まれていた。
そして――その力は、誰かに与えられるものではない。
自分の内から、絞り出すものだと。