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第5話 心境


それは、何の前触れもなく、

針山の風にまぎれて――ふっと、零れた。


「……あの、ね」


鼓膜に届いたのは、

かすかで、壊れてしまいそうな音だった。


最初、幻聴かと思った。

だって、この五年間、彼女は一言も喋らなかったのだ。

泣き声すら、漏らしたことがなかった。


でも――

背中にいるその身体が、ほんの少し、震えている。


確かに、聞こえた。

「……お兄ちゃん」


それは、砂を噛むような、小さな呼びかけだった。

耳を近づけないと、聞き取れないほどに。


それでも――その声は、

魂を貫くほどの、重みがあった。


 

「……ずっと、声を……出そうとしてたんだ」

言葉はつっかえ、息と混じり、すぐに消えていった。

それでも、陽葵は必死に言葉をつなげようとする。


「……でも、こわくて……出せなかった……」

「……見放されるんじゃないかって……」

「……置いていかれるのが……ずっと、こわくて……」


奏多は、何も言わなかった。

喉まで言葉が込み上げたけれど、

それを押し込んで、ただ静かに耳を傾けた。


今、この子の中から、世界が少しずつ流れ出しているのを感じたから。


「……でも……それでも……」


彼女は、小さく息を飲み込んだ。

「ずっと……背負ってくれた」


「なにも言わずに……痛いのに……苦しいのに……」


「……ありがとう」


 

沈黙が、痛みを含んだ空気と一緒に流れた。

それは、この地獄で初めて聞いた感謝の言葉だった。


誰もが呻き、泣き叫び、呪い、憎しみ合うこの世界で――

ありがとうと誰かが言った。


それだけで、何かが変わった気がした。


陽葵は、涙を流していた。


泣くことを忘れていた瞳から、

ぽたりと一滴、針山に落ちて、血と混じり、滲んだ。


その涙は、彼女が初めて「生きたい」と思った証拠だった。


奏多は、ゆっくりと笑った。

それは、この五年間で初めて浮かべた微笑みだった。


「……そうか」

それだけ返して、彼はまた歩き出す。


地獄は、何も変わっていない。

針は痛く、足は裂け、血は流れ続けている。


でも、心の中にだけは確かに、何かが変わった。


私は、ここで生きている――

いや、生かされているだけだった。


地面は棘で、歩くたびに痛みが走る。

でも私は、もう歩けない。

だから、何も感じないふりをしていた。


背中が、温かかった。

でも、その温かさすら、怖かった。


最初の頃、私は「いつ捨てられるか」そればかりを考えていた。


あの人――私を背負ってくれたお兄ちゃんは、

なぜか私を置いていかなかった。


わからなかった。

なんで? なんのために?

私は、誰の助けにもなれないのに。


 

最初は、ただ震えていた。

背負われながら、指先を布に必死に絡めていた。


怖かった。

この温かさに慣れてしまったら、もし離された時、

私は――もう、耐えられないと思ったから。


でも、その人は何も言わなかった。

「おろせ」とも、「重い」とも「邪魔」とも言わなかった。


毎日傷だらけになって、

針に突き刺されながら、歩き続けていた。

それでも、何一つ、私に文句を言わなかった。


信じてはいけない。

信じて、裏切られるのが一番苦しい。


そう言い聞かせていた。

でも、心のどこかで、私はあの背中に甘えていた。



いつからだろう。

私は、自分の存在が「申し訳ない」と思うようになった。


最初は、ただ「怖い」だけだった。


でも背中が温かくて、優しくて、

自分が生きていると実感できてしまった日から



「ごめんなさい」

という気持ちが、胸の奥で疼き始めた。



私は、足手まといだ。

この人はきっと、私がいなければもっと楽だった。

もっと早く進めた。

もっと痛まずに済んだ。


でも――でも――


それでも、誰かがそばにいてくれるって、

こんなに、あったかいんだって……


忘れていた感情が、少しずつ胸の奥に灯っていった。

けれど、言葉にするのが怖かった。

声を出したら、何かが壊れてしまう気がした。


それに、私の声なんて――

この人には、必要ないかもしれないって、思っていたから。


だけど、何百回、何千回と繰り返した背中の震えに、

この人は、一度も振り落とそうとはしなかった。


それだけで、私は少しずつ、少しずつ、

「ありがとう」と言いたくなってしまった。


でも、それが怖くて、

何度も喉まで出かけた言葉を、飲み込んで、押し殺して――


「今日こそ……明日こそ……」



そんなふうに、5年が過ぎていった。


 

そしてある日、

喉がどうしても、熱くて、

言葉がこぼれて止まらなくて、


私は、やっと、やっと、

ありがとうを言えた。



それが、どれだけ長い旅だったか。

それが、どれだけ怖かったか。


でも――背中は、変わらなかった。

あの時も、黙って、優しく支えてくれた。


私は、まだこの地獄にいる。

でもたった一つの救いが、確かにここにある。


 

その名前は、黄泉奏多。

私が地獄で出会った、最初で最後の――【希望】。




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