第4話 壊れそうな影
それは、朝焼けにも似た赤い空の下。
この地獄に「朝」など存在しないが、空の色だけは移り変わる。
ただの演出かもしれない。
絶望を強調するための、残酷なコントラストだ。
針山を歩いて、どれほど経っただろう。
黙って歩く者、呻きながら進む者、倒れて動かなくなる者――
誰もが、自分のことで精一杯だ。
そんな中、奏多は違和感を覚えた。
少し先の地面。
そこに、小さな人影が倒れていた。
目を凝らすと、それはまだ幼さの残る少女だった。
白い肌に、薄く張りついた血の跡。
膝から足首まで無数の針が突き刺さり、けれど本人は何も反応しない。
目は虚ろで、焦点が合っていない。
髪は肩までの長さで乱れ、唇は乾いてひび割れていた。
少女は、ただうつ伏せで、微動だにせず地面に潰れていた。
けれど、よく見ると――ゆっくり、ほんのわずかに、針山の上を流されるように前に進んでいた。
「……生きてる?」
奏多は無意識に近づいていた。
最初、少女は彼の存在に全く気づかなかった。
あるいは、気づいていても何の反応もしなかった。
表情はない。
痛みも、怒りも、悲しみも、すべてを捨てた人間の顔。
まるで魂だけを抜かれた人形のように、ただ自動的に動いていた。
針が彼女の体を押していた。
地獄には見えない圧力が存在する。
前に進ませるように、逃げられないように、後ろから魂を押しつぶしてくる圧力。
少女は、それに背中を押されていただけだった。
自分の意思で歩いていたわけじゃない。
「……押されて、進まされてるだけか……」
奏多は、自分の過去を思い出した。
自殺して落ちてきたばかりの頃。
痛みも苦しみも、自分の罪だと思っていた。
「耐えなきゃいけない」「罰だから当然だ」
そう思って、何も言えず、何も求めなかった。
彼女の姿は、あの時の自分そのものだった。
――屋上の階段の踊り場で、嘲笑に囲まれながら、ただうずくまることしかできなかった自分。誰にも助けを求められず、世界から心を閉ざした、あの時の自分とそっくりな目をしていた。
奏多は、しゃがみ込んだ。
「……聞こえる?」
返事はない。
瞳は濁ったまま、宙を彷徨っていた。
声が届いていないわけじゃない。
届かせたくないのだ。
世界を拒絶して、閉じこもっている。
でも、奏多には見えた。
そのかすかに揺れる瞳の奥に、
「もう誰も信じていない」という諦めと、
「それでも怖くてたまらない」という幼さが、混ざっていた。
「……」
奏多は、ゆっくりと彼女を背負い上げた。
肩に体温のない体が乗る。
軽い。
けれどその重さは、命の重さだった。
少女は反応しない。
抵抗も、拒絶もしない。
ただ黙って、沈黙の中で揺れていた。
その沈黙が、やけに切なくて、
奏多は、何も言わずに歩き出した。
一歩進むたびに、針が足を突き破った。
バリアを張っていても、二人分の重さには耐えられなかった。
魂が裂けるような痛み。
けれど、後悔はなかった。
それでも――奏多は歩き続けた。
彼女がもう一度、
世界に目を向けてくれる、その日まで。
何も語らず、何も返さない少女を――
黄泉奏多は、ただ黙って背負った。
理由なんて、なかった。
助けなければいけない義理も、言葉も、そこには存在しなかった。
ただ、自分の過去に彼女を重ねてしまった。
かつて、自分もそうやって、誰からも見捨てられていたから。
少女の体はとても軽かった。
痛みを拒絶したまま、魂の密度すら抜け落ちたように。
それでも――
奏多にとっては、これまで背負ったどんな痛みよりも重かった。
一歩、また一歩。
針の地面が、奏多の足を突き刺してくる。
バリアは張っている。
けれど、一人分なら耐えられた痛みが、二人分になると――倍以上に増幅した。
それでも、彼は歩みを止めなかった。
少女は、何も言わなかった。
泣き声も、呻きも、感謝すらない。
最初の数日は、まだその沈黙に不安があった。
いつ離れていってしまうのではと、背中にいるはずの命を何度も確かめた。
でもある日を境に、それが当たり前になった。
「そこにいる」
それだけで――理由としては、十分だった。
月日は、容赦なく過ぎていった。
地獄には暦がない。
太陽も、季節も、祝日も、存在しない。
ただ、痛みと絶望と、叫び声だけが繰り返される。
その中で奏多は、毎日、少女を背負い続けた。
倒れそうになったこともある。
何度も、膝を突いた。
バリアが崩れ、足の裏を何本もの針が貫いた。
けれど、それでも立ち上がった。
なぜなら、彼女は決して自分から離れようとしなかったからだ。
背中で感じるその小さな体は、
無言ながらも、必死に服の端を握っていた。
掴むというより、縋りつくように。
誰にも見捨てられたくないと、
ただ――黙って震えていた。
ある夜のことだった。
奏多はあまりの痛みにうめき声を漏らし、ついに膝から崩れ落ちた。もう立てないかもしれない、と心が折れかけた、その時。
背中の少女の手が、それまで握りしめていただけの服を、ぐっと引き寄せた。
それはまるで「立って」と、無言で励ますような、小さな、しかし確かな力だった。
その日を境に、彼は気づく。
「……軽くなった?」
体重が減ったわけではない。
魂の重さが、少しだけ、和らいでいる気がした。
まるで、ほんの少しだけ、
少女が「信じてみようかな」と思ったかのように。
五年が経った。
彼女は一言も発さないまま、
それでもずっと、彼の背中にいた。
奏多は、痛みに慣れたわけではない。
毎日が地獄だった。
でも――ひとりではなかった。
背中に命があるだけで、
それが、自分を人間に留めてくれているような気がした。
針の海に、二人分の足跡が並ぶ。
その道は、いつまで続くか分からない。
終わりなんて、あるかどうかも分からない。
名前も知らない、声も知らない少女。
けれど今はもう、奏多にとって――
背中で感じる鼓動ひとつで、わかる相手になっていた。
あの日から、言葉を失ったままの少女。
何も話せなくても、
彼女はずっと、確かに生きていた。
その沈黙が、長い時を超えて、
ふっと、揺れる。
背中に伝わる、かすかな息遣い。
喉が震えたのが、肌越しに伝わってきた。
少女が――
声を、出そうとしている。
奏多は息を呑んだ。
そして、静寂の中。
まるで風が生まれるように――
……声が、こぼれた。
音にならないその声は、
まるで、世界でいちばん大きな叫びだった。