第20話 弟
吹き荒れる風の中、蒼月朔は魂剣を構えて立っていた。
目の前には、異形の番犬《ヴォルグ=ケルベロス》。
三つの首がそれぞれにうなり声を上げ、爛々と光る瞳を朔へと向ける。
「兄者、そろそろやっていいか?」
「待て。こいつは、まだ力を隠してる……」
「はァ? こんな人間になにビビってんだよ」
「俺がいくぜ!」
三者三様に喚きながらも、その動きは見事な連携だった。
吠える声すら、獣のリズムを奏でるように、朔の周囲を回り込む。
朔は一歩も退かず、剣を前に突き出す。
「……来い」
刹那、左の首が飛び込んできた。
真正面から、魂剣の斬撃を喰らうかのように、喉元を晒して突っ込んでくる――!
「囮かッ……!」
朔が手応えとともに斬り裂く瞬間。
「今だッ!! いけッ、三男!!」
「らっじゃァああッ!!」
右と中央の首が同時に横から襲いかかる。
牙が朔の肩口に喰らいつき、そのまま氷壁へと叩きつけた。
鈍い音とともに、魂剣が手から離れる。
――その瞬間、朔の意識が一瞬、暗転する。
(……まだ、やらなきゃいけねぇのに……)
その深い闇の底で、ふと――
彼は懐かしい声を、思い出していた。
六畳一間。古びた団地の一室に、朝の光がぼんやりと差し込んでいた。
隅に置かれた布団には、高校の制服を着たままの少年が眠っている。
朔はその姿を見下ろしながら、ゆっくりと立ち上がった。
小さなキッチンの鍋には、昨夜の味噌汁がわずかに残っている。
朔は火を点けると、底に沈んだ具をゆっくりかき混ぜた。
「……兄ちゃん、いつ寝てんの」
背後から聞こえた声に、朔は手を止めずに答える。
「さっきな」
「それ、昨日も言ってたぞ」
「……ちゃんと寝てるから、気にするな」
そう言って、小さく笑う。
弟、蒼月雫は、布団の上で寝癖を直しながら伸びをしていた。
朔は鍋から味噌汁を二つの茶碗にすくった。
雫の方へ茶碗を差し出すと、雫は少し眉をひそめて見上げてきた。
「なあ兄ちゃん。オレ、もう高校卒業するし、そろそろバイトでも――」
「……学校にちゃんと行け」
それだけを言い残して、朔は無言で味噌汁をすすった。
薄味の中に、冷えた豆腐の感触が残る。
雫は小さく息をつきながら、ふてくされたように茶碗を受け取った。
「……兄ちゃんみたいに、寝る間も惜しんで働くのはゴメンだわ。
オレ、もっと楽して生きるって決めたし」
その言葉に、朔は何も返さなかった。
けれど、雫の口元はほんの少しだけ、笑っていた。
わかっている。
口では反発しても、心の奥底では――
弟は兄である朔を、誰よりも尊敬していた。
それが、二人だけの生活だった。
誰にも頼れず、誰にも甘えられず。
それでも、守るべきものがある限り――朔は今日も働きに出る。
雫の、未来のために。
夜。団地の一室には、静かにテレビの明かりだけが灯っていた。
朔は作業着のまま、ソファに沈み込んでいた。
脱ぎ捨てられた軍手と、汗に濡れたタオルが床に落ちている。
手は、疲れの残るまま、無意識に握られていた。
ガチャ――
玄関のドアが開く音に、朔の瞼がうっすらと開く。
時計は深夜一時を指していた。
「……遅かったな」
雫が小さく肩をすくめる。
「悪い。ちょっと友達んとこ寄ってた」
そう言いながらも、雫の手はどこか落ち着きなくポケットを押さえていた。
朔はその様子に、ほんの一瞬だけ目を細める。
けれど、何も言わずに目を閉じなおした。
「……風呂、まだ沸いてる。入ってこい」
「……うん」
その夜、朔は布団に入っても、目を閉じる気になれなかった。
風呂場の音。洗濯機の音。
弟の足音が、やけに長く耳に残る。
胸の奥に芽生えた違和感が、静かに広がっていく。
朔はただ、天井を見つめていた。
翌朝。
弟はどこかよそよそしい笑顔で、小さな封筒をテーブルに置いた。
「ちょっと、バイトしてきた」
「どこでだ」
「……夜勤。倉庫整理みたいなやつ。すぐやめるから、心配すんなって」
朔はその言葉に、しばし沈黙した。
そして、一瞬だけ弟の手を見つめた。
赤く擦れた跡。
そして――ほのかに、血のような臭い。
「……それ、“友達”の紹介か?」
「……まぁ、そんなとこ」
その曖昧な口ぶりに、朔は静かに眉をひそめた。
「誤魔化すな。……はっきり言え。お前、何をした?」
「なんでもいいだろ!」
語気を荒げた雫が、叫ぶように吐き出した。
「もう……我慢できねぇんだよ!」
「何が、だ」
「全部だよ……! 兄ちゃんに頼ってばっかで、自分じゃ何もできなくて……
でも、だからこそ――オレが、兄ちゃんを楽させてやろうって思ったんだ!」
震える声だった。
目は、泣きそうで――
そして、どこかで決意している目をしていた。
雫は言葉を残して、制服に袖を通し、学校へ飛び出していった。
***
夜。
汗だくでバイトを終えた朔は、バイクに跨り、家路を急いでいた。
そのとき、交差点の角に停まった黒塗りのワンボックスカーが目に入る。
スモークガラス越しに、一瞬だけ見えた横顔――
それは、雫だった。
(……あれは……)
助手席の隣には、明らかにヤバい風貌の男。
後部座席には、バットのようなものが立てかけられていた。
(まさか……)
(お前……)
血が逆流するような焦燥が、朔の胸を締めつけた。
次の瞬間、アクセルを回す。
風が唸り、鼓動が耳の奥で響いた。
弟の影が、どんどん遠ざかっていく。
(雫――お前、なにに巻き込まれてる……?)
その胸騒ぎが、取り返しのつかない“地獄”の始まりだった。




