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第2話 灼熱地獄 ―地獄七道―


歩いた。

僕は二十年間、歩き続けた。


血を流しながら、骨を砕かれながら、魂を削られながら――それでも歩いた。


地面も、空も、温度さえ――感覚という感覚が遠のいていく。


ただ、心だけがふわっと浮く。重さの消えた、危うい浮遊感。


「……終わったのか……?」

口に出た自分の声は、砂利を噛んだようにかすれていた。


最後に言葉を発してからどれくらい経ったのか、もう思い出せない。

足はまだ痛い。けれど、さっきまで確かにあった針の鋭さは消えている。


視界に、あの鉄の山もない。

誰もがそう思うだろう――

――ようやく、終わったのだと。



だけど。

次の瞬間、世界が燃えた。

ゴォォォォオオオオオッッ!!!!!


それは音ではない。耳殻を越え、脳髄を踏み砕く圧力だった。


熱風が刃になって肌を裂く。空気が肌に触れるたび、皮膚が悲鳴を上げる。


目を開けていられない。


瞼の裏側から焼ける。


皮膚という皮膚が、紙のように縮れ、剥け、剝がれ、灰となって散っていく。


息を吸う――喉が焼ける。

肺が痛む――いや、痛むというより、奥から焦げついてゆく。


熱を吸い込んだだけで、内臓という内臓に黒い火が灯るのがわかる。

「――ッッが、ぁあ、ああッッ!!」

のたうつ。だが、這い寄る救いはどこにもない。


地面に身を投げ出しても無意味だった。

地面そのものが灼熱なのだ。

焼けた鉄の床。

そこに手をつく――掌の皮膚が、音を立てて剝がれた。


肉が焼ける匂い。脂が弾ける音。鉄が赤くなる色。

五感のすべてが、焼かれる現実で満たされる。

「ひッ、ああああッ、あ゛あ゛ああああああアアアアッ!!!」


焼け爛れる。

手が、腕が、顔が、足が、胸が、背が――全身が、内から外から一斉に。


針の痛みなど、生ぬるかった。

あれは「突き刺す」痛み。

これは、「焼き尽くす」痛みだ。


逃げ場のない、終わりのない、存在そのものへの拷問。

地面は溶岩めいて熱を孕み、

空からは太陽の破片のような火柱が、規則的に――まるで胸を打つ警鐘の響きのように――落ち続ける。


避けられない。避けても無駄だ。

そもそも、空気そのものが燃えている。

人間の皮膚が、この温度に耐えられるはずがない。

いいや、皮膚どころではない――魂さえ、焦げていく。



「……なんで……なんで……」

喉から絞り出した言葉に、灰が混じる。自分の喉から煙が出る。

涙を流そうとしても、次の瞬間には蒸発した。

頬に残るのは、水ではなく、焦げた涙の跡だけ。



「終わったんじゃなかったのか……?」

「俺……耐えたじゃないか……?」

「なんで……また……地獄なんだよ……」



問いは空へ、いや、燃えあがる空気そのものへ放り投げられる。

返事はない。

あるのは、焼ける音。

焼ける臭い。

焼ける感覚。



そして――焼けることそれ自体への、無限の恐怖。

足元には、誰かの黒く焼け焦げた骨が転がっていた。



それが誰だったのか、わからない。

だが、きっとどこかの地獄を耐え、ここまで来た者なのだ。


そしてここで――また焼き尽くされた。

つまり、終わりなど存在しない。

これは新しい地獄の始まりにすぎなかったのだ。

絶望なんて、とうに超えたと思っていた。

だが、この場所はそれすら否定する。

希望という希望を、温存の余地なく焼き尽くす世界。

それが――《灼熱地獄》だった。



――二十年。

ただの数字じゃない。

ひとつの地獄で、二十年。

その間、ずっと焼かれ、凍り、飢え、打かれ、黙され、壊される。

二十年ごとに「強制移動」が下され、次の地獄へ投げ込まれる。



「環境が変わるだけマシ」――かつて誰かがそう言った。

だが、どこに行っても地獄は地獄だった。

声は届かず、思考は途切れ、存在の意味すら溶けていく。



「死ねれば、どんなに楽だろう」――そんな祈りは、ここでは定義ごと焼かれる。

でも――死ねない。ここは、そういう場所だった。

そして、七つの地獄を巡り終えたとき、僕は変わっていた。



現世のいじめ? 無視されたこと? 物を壊されたこと? 叩かれたこと?

自分の記憶をなぞる。

胸から出たのは、乾いた笑いにも似た息だった。

「……あんなもの、何だっていうんだ」



針山を裸足で歩いた痛み。鬼に声を奪われ、自分を忘れかけた記憶。

比べ物にならない。比べること自体が、あの二百年近い苦痛への侮辱だ。



「僕は、なんてことを……なんてことをしてしまったんだ……!」

今、ようやく後悔する。

現世で、死を選んだ自分。

それは――地獄の扉を、自分の手で叩いた瞬間だったのだと。



死ねば逃げられると思った、あの一瞬を。

でも、もう遅い。ここに来たら、戻れない。

そして、僕はもう一度、地獄の階段を登っていく。

この先に赦しがあると信じて。



もしくは、それすらもないと知っていても――。



ここからは、僕が渡り歩いた地獄の、ほんの断片だ。

どれも「説明」では足りない。

その一秒を生き延びることが、すでに物語だから。



針山地獄はりやまじごく ― 魂の初痛

踏むたび、足裏から魂まで針が射抜く。地平は刃で植林された森のようで、靴など許されない。一歩のたびに「生きる」は「削られる」に言い換えられ、痛みの実感が骨ではなく魂に直接刻まれていく。前へ進む意志をわずかでも失えば、背後の絶望の壁が押し寄せる――棍棒を引きずる鬼の咆哮が「立ち止まる」を許さない。今でも、隣を歩いていた男が鬼に頭を砕かれる音だけが、耳の奥にこびりついている。



灼熱地獄しゃくねつじごく ― 焼浄の業火

全身全霊が焼かれる。地面は赤く脈打ち、空は火に噴き出す肺のようにうねる。息をするだけで魂が軋む。動くたび、熱が骨にまで噛みつく。火柱は規則正しく落ち、逃げ場という概念を一度ごとに焼却する。自分の喉から煙が上がるのを呆然と眺めていた、あの感覚を忘れない。




氷冷地獄ひょうれいじごく ― 凍魂の静獄

極寒の凍土。絶対零度の吹雪と氷嵐は、皮膚を越えて鼓動を凍らせる。凍える寒さで歯がガチガチと震え歌の代わりに不気味な音を立てる。まつ毛は、涙が流れる前に凍りつき、頬に白い霜を残した。ここでは、自分の歯がカタカタと鳴る音だけが、唯一の音楽だった。




餓鬼道がきどう ― 飢魂の道

飢えが腹ではなく心を食う。食べ物も水も、唇に触れる前に崩れ、砂へ、灰へ。欠乏は理性の床板を鳴らし、狂気が歩幅を合わせてくる。他者を食らおうとする影、過去の記憶を糧に舌鼓を打つ影――「人」の輪郭が裂け目からこぼれる。隣の男が自分の腕を齧っているのを見た時、俺は初めて『腹』ではなく『魂』が飢えているのだと知った。




奴隷地獄どれいじごく ― 無価値の証明

終わりのない強制労働。巨鬼の号令が空を支配し、魂の強さに応じて枷は重くなる。逆らえば即時の処刑、従えば時間をかけた自我の消去。他者の苦しみを見て見ぬふりをしても楽にはならない――目を逸らした瞬間から、誇りは崩れ始める。一度だけ目を逸らした。その日から、俺の魂には亀裂が走ったままだ。




虚無地獄きょむじごく ― 存在消失の無界

音も、光も、温度も、感情も、ない。真白の終わり。ここでは時間が動詞であることをやめ、空間が名詞であることを忘れる。感覚が遮断され続けるうち、呼吸の意味が剥がれ、やがて「自分がここに在った」という過去形すら疑わしくなる。思い出すことすら難しい。ただ、自分の名前を必死に呟き続けたことだけは、なぜか覚えている。




鏡界地獄きょうかいじごく ― 罪と赦しの対面

最後の地獄は、鏡だ。巨大な面の向こうに立つのは、自分の姿をした影。罪、後悔、過去の選択――すべてが映像となって押し寄せ、隙間なくまとわりつく。「お前は救われる価値などない」その囁きは、他でもない、僕自身の声だった。――ああ、そうか。俺が一番赦せなかったのは、いじめてきたあいつらじゃない。無力だった、自分自身だったのか。



僕は、これらすべてを回った。

正確に言えば――回らされた。

耐える以外に、術がなかった。

心は空砲のように空になり、

無は底を失い、

それでもまた立たされる。

何も守れず、何も変えられず、ただ二百年近い年月が堆積していった。

そして、魂が砂に崩れかけたころ――あの言葉が脳内に落ちる。



「移動命令」



再び、あの地平へ。

赤黒い地平線いっぱいに、無数の針が光っている。

背後では、棍棒を引きずる音が、ゆっくり、しかし確実に近づいてくる。



鼻腔を満たす、血と鉄の匂い。

何もかもが――最初と同じだった。

僕の眼前にはまた針山地獄が待っていた。



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