第18話 氷の村の門番たち
両脇の氷壁が、軋むようにして開いた。
その隙間から現れたのは、二体の大柄な鬼――どちらも、身の丈を優に超える巨躯を持ち、氷の如き眼光でこちらを睨み据えていた。
「ここは、人間が踏み入る場所ではない。直ちに去れ」
鋭く放たれた声に、陽葵が身を竦ませる。
だが奏多は、わずかに手を上げ、落ち着いた声で応じた。
「……待ってくれ。僕たちは戦いに来たわけじゃない。この村の鬼……彼女を助けたんだ」
そう言って、背中の鬼――ミナの存在を示すと、二体の鬼の目が微かに揺れた。
冷たかった空気に、一瞬だけ、温度が生まれる。
「……その女……」
見張りの鬼が、無言で村の奥へと駆けていく。
ほどなくして現れたのは、やや年かさの女鬼だった。
彼女は奏多の背をのぞき込み、次の瞬間、瞳を大きく見開いた。
「……ミナ……! 確かにこの村の者だ。半年ほど前から行方が知れず……!」
震える手をそっとかざすと、淡い氷色の霧がミナの身体を包み始める。
それは、この地獄に生きる鬼たちが扱う“魂を癒す術”。
傷にではなく、魂そのものに触れる――まさに命への直接介入だった。
やがてミナのまぶたが、ゆっくりと開かれる。
「……ぅ……」
その瞬間、陽葵はすぐ顔を近づけ、泣きそうな笑顔で囁いた。
「良かった……! 目が覚めた……!」
だが、ミナの瞳は、陽葵を見つめてもなお戸惑っていた。
次いで奏多の顔を見たとき、その困惑はさらに深まり、やがて震える唇から、かすれた声が零れる。
「……人間に……助けられた……? 私が……?」
長く地獄を歩いてきた魂にとって、それはあまりに異質だった。
自分たちを忌み、恐れ、あるいは殺してきた存在――人間。
その手に、自分が命を繋がれたなど、信じがたかった。
彼女は目を伏せ、しばし沈黙した後、わずかに微笑んだ。
「……皮肉ね……助けられて、悔しいなんて……でも……ありがとう……」
その声には、戸惑いと……ほんの僅かだが、確かな感謝が込められていた。
見張りの鬼が静かに頷き、手の中の小さな物を差し出してくる。
「……我ら鬼は、誇りを重んじる種族だ。
借りは、借りたままにはしない。これは、その礼だ」
それは――氷でできた首飾りだった。
蒼く透き通った結晶がゆらりと揺れ、中心にはかすかな光が脈を打っていた。
「これは、“命を助けられた者”が、その恩を忘れぬために贈る証。
我らが誇りと、感謝のしるしだ」
奏多はその意味を咀嚼しながら、静かにそれを受け取った。
陽葵がそっと手を伸ばし、首飾りを手に取る。
その光を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……なんか、あったかい……
この光、誰かの気持ちがちゃんと、届いてるみたい……」
そう言って、彼女はそっと首飾りを胸元にかけた。
鬼たちはそれ以上は語らず、仲間とともにミナを村の奥へと運んでいく。
そして――
「人間のお兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう!」
先ほどの子鬼が振り返り、無邪気な笑顔で手を振った。
その小さな背中が、氷の集落の奥へと消えていく。
奏多と陽葵は、まだ身体に触れる冷たい風の中で、
胸元に灯る光のぬくもりを感じながら、無言でその場をあとにした。
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――その頃、朔は。
「――くっ、止まれ……!」
叫びながら、朔は凍てついた絶壁を落下していた。
凍結した岩肌が迫り、吹き荒ぶ風が耳を裂く。
このままでは、ただでは済まない。
朔でさえ、直感的に“死”の危機を感じていた。
「うぉぉぉぉ……!」
両手に現した魂の剣を、勢いのまま氷壁に突き立てる。
氷を削りながら滑り落ち、なんとか減速を試みるが
止まらない。
視界の端に、地面が迫る。
終わる――そう覚悟した、その瞬間。
「……っ!?」
ドスンッ!!
朔の身体は、何かに激突し、予想以上に柔らかい衝撃が全身を包んだ。
だが、そこから聞こえたのは――低く、地を揺らすような唸り声。
「グルゥゥゥゥゥ……ガァァ……グゥア……」
まるで、怒りと眠気を混ぜたような、濁った咆哮。
地の底から響くような、獣とも鬼ともつかぬ重低音が、周囲の氷を震わせる。
「……な、んだ……?」
衝撃は緩和された。命も……つながった。
だが――
ゆっくりと、朔の下から“それ”は立ち上がる。
まるで犬。いや、狼。
――だが、その頭は。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
三つの禍々しい頭が、鋭い牙と血のように紅い目を光らせていた。
「……三つ首……ケルベロス……!」
氷冷地獄の番犬――
異形の守護獣ヴォルグ=ケルベロス。
その咆哮が、地獄の底を震わせる。
「――ッ!」
朔は片膝をつきながら、立ち上がる。
目の前にそびえ立つ“地獄の番犬”を真正面から睨み返し――
口元だけで、呟いた。
「……一難去って……また一難、か」
その瞳に宿るのは、諦めでも恐怖でもない。
ただ、“戦う者の目”――氷冷の地獄で、再び命を賭ける覚悟だった。




