第17話 鬼の子供
少し離れた氷の上。そこには、倒れ伏す大きな鬼と、その胸元にしがみつく子どもの鬼がいた。
大人の鬼――母親らしき存在は、すでに動かず、黒い霜のようなものが氷の上に広がっている。その顔を覗き込む子鬼は、小刻みに肩を震わせながらも、懸命に声をかけるように口を動かしていた。
「……助けて、って言ってる……?」
陽葵が小さく呟く。
「陽葵、近づくな。敵かもしれない」
奏多がすぐに制止するように言った。
この地獄で、“鬼”は基本的に敵。どんなに幼くても、それは変わらないはずだ。だが―― 陽葵は、そっと子鬼のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫……怖くないよ」
子鬼はじっと陽葵を見つめていたが、やがておずおずと立ち上がり、陽葵のコートの裾をつかんだ。
陽葵はそっと立ち上がり、氷の上を慎重に歩いていく。 子鬼は警戒して身をすくめたが、陽葵が手を広げて近づくと、目をぱちぱちと瞬かせた。
「あなたのお母さん、助けるからね。 こんな寒いところで、心細かったよね……」
子鬼は、小さく首を振った。
「ううん……寒くはないよ」
「え……?」
「でも……お母さんが動かなくて、どうしたらいいかわからなくて……泣いちゃったの」
その言葉に、陽葵はふと目を見開く。
――寒くない?
子鬼の語る言葉に、陽葵はそっと手を添えてみる。
たしかに、冷たくない。 それどころか、どこか“あたたかさ”さえ感じられた。
――どうして?
その疑問を抱えたまま、陽葵は奏多のもとへ戻る。
「奏多お兄ちゃん……あの子、寒くないって言ってたの」
「え?」
「……私たちは寒くてたまらないのに、あの子は平気そうだったね……」
「この地獄に住む鬼たちは、寒さに慣れてるのかな?」
奏多は少し驚いたように目を見開き、すぐに頷いた。
「……そうかもしれないね。」
子鬼は、陽葵の手をぎゅっと握った。
「助けてくれるの?」
陽葵はうん、と優しく頷いた。
「もちろんだよ。私たちが、力になるからね」
奏多もゆっくりと歩み寄り、母鬼の身体を背負う体勢を整えた。
「行こう。……この子に、おうちの場所を聞いて」
子鬼は小さく頷いて、指を差した。
「この先に、みんながいるところがあるの。案内するね」
雪の中、小さな背中が先導する。
その姿を追いながら、奏多と陽葵は歩き出した。
そして遠く―― 氷と霧の奥に、ほんのかすかに、黒い影がいくつも揺れていた。
鬼の集落。
凍てつく風が吹き抜ける氷冷地獄の片隅で、奏多は鬼の母親を背負ったまま、黙々と歩いていた。
その後ろを、陽葵と、母を案内する小さな鬼の子どもが続く。 その表情には不安と焦りが交錯していたが、それでも必死に前を見据えていた。
どれほど時間が経っただろうか。 地平線の先に、奇妙な影が浮かび上がった。 氷で組まれた壁のようなものが連なり、その奥にはいくつもの掘立て小屋が見えた。
「……あれが、鬼の集落……?」
陽葵が小さく呟いた。
「……っ」
奏多は無意識に足を止めた。 身体が緊張で固くなっているのが、自分でもわかる。
鬼は、敵だ。 針山地獄で、殺されかけた記憶が蘇る。 何より、地獄に堕ちてからというもの、「鬼は苦しみを与える存在」という認識しかなかった。
だが。
目の前で、泣きながら母を心配するこの子どもの姿を見れば―― 「全ての鬼がそうじゃない」とも、思ってしまう。
葛藤を押し殺し、奏多はそっと前へ踏み出した。
だが、集落の門の前に立った瞬間──
「止まれ!」
鋭い声が氷の空気を裂いた。
両脇の氷壁から、二人の大きな鬼が姿を現した。 腕は太く、瞳は鋭い。その目が明確に奏多たちを警戒していた。




