第15話 凍える地獄と、欠けた三角形
氷冷地獄――
そこは、すべての音が凍りつく世界だった。
空はどこまでも灰色に曇り、太陽の光さえ届かない。
大地は無限に続く氷原。吹きすさぶ風は、皮膚を裂き、骨の髄まで凍らせていく。
吐いた息すら、白く凍り、音を立てて地に落ちて砕けた。
そんな世界に、三つの影が進んでいた。
黄泉 奏多、望月 陽葵、そして――蒼月 朔。
三人はそれぞれ、自らの魂の力でバリアを張っていた。
だがこの氷冷地獄の冷気は、常軌を逸していた。
バリアは音も温度も遮断するが、この地獄では魂ごと凍らせる“幻の寒さ”が、それすら貫いてくる。特に、冷気の力を得たばかりの陽葵にとって――
この氷冷地獄は、“相性最悪の舞台”だった。
「……さむ……い、さむいよ……奏多お兄ちゃん……」
小刻みに震える陽葵の声が、氷を削る風にかき消されながらも微かに響く。
唇は青紫に染まり、吐く息は浅く乱れている。
両手は凍傷寸前のように赤く、かじかんだ指先でコートの裾を必死に握りしめていた。
「私……役に立てると思ったのに……」
その一言が、奏多の心を深くえぐる。
陽葵の力が、どれほど仲間を救ってきたか。
その記憶があるからこそ――
彼女が今、自分自身を責めていることが、痛いほど伝わってきた。
「大丈夫、陽葵……。一緒に行こう。必ず抜け出せる」
そう言いながら、奏多は陽葵の肩にそっと手を添える。
その手もまた、震えていた。
朔は寡黙なまま、前を見据えて歩いている。
黒いコートの背中に、氷の結晶が降り積もっていた。
――ギィ……ッ。
踏みしめるたびに氷がきしみ、亀裂の走った地面の奥底から、奈落のような闇が覗く。
「……ここを、本当に抜けられるのか……?」
朔が、独り言のように呟いた。
しかし誰も、答えられなかった。
陽葵はふらつきながら、奏多に支えられて歩き続ける。
一歩ごとに魂が削れるような世界。
音も、温もりも、時間すら凍りついたような感覚に襲われる。
どれほど歩いただろう。
突如、陽葵が足を止め――そのまま、崩れるように膝をついた。
「っ、はぁ……てが……しびれて……感覚、ない……」
奏多が慌てて抱き起こすも、自身の手も冷えきっていた。
バリアは限界に近く、張り続けるほどに精神力を消耗していく。
その瞬間だった。
――ピシッ。
耳慣れない音が、足元から響く。
氷が……"鳴いた"。
「……!」
次の瞬間、氷面に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
低く響く振動音が、腹の底を揺らした。
「陽葵、掴まって!!」
「奏多お兄ちゃん、だめっ……氷が――っ!!」
ドォン!
氷床が、大きく沈み込む。
奏多と陽葵の乗っていた足場が崩れ、深い裂け目が口を開いた。
陽葵の小さな身体が、そのまま闇へと引きずり込まれていく。
「陽葵っ!!」
咄嗟に腕を伸ばす――
だが間に合わない。
手が、届かない。
そのとき――
ガシッ!!
氷上から飛び出した影が、陽葵の手首を掴んだ。
「……ッ、朔さん!!」
それは、朔だった。
咄嗟の判断で駆け寄り、身を投げ出して陽葵の腕を掴んだ彼は、
自らの足場が砕けていくのを承知で――
「奏多!! 受け取れッ!!」
叫びと共に、陽葵の身体を――氷上へと投げる。
「朔お兄ちゃんっ!!」
奏多が陽葵を受け止めた、次の瞬間――
バキバキバキバキッ!!
朔の立っていた氷が、一気に崩壊する。
音と共に、彼の身体が――裂け目の奥、底知れぬ闇へと飲み込まれていった。
「朔さぁぁんッ!!」
奏多が崖の縁に駆け寄る。
だがそこには、ただ黒い闇と、砕けた氷の残骸だけが広がっていた。
「……くそっ……くそっ……!」
足場は脆く、これ以上は踏み込めない。
焦燥と後悔が胸を締め付ける。
そのとき、陽葵が、震える体を抑えながらぽつりと呟いた。
「……朔お兄ちゃん……ごめんなさい……」
その声が、凍てついた世界に滲んでいく。
奏多は、強く拳を握りしめた。
「……朔さんは、必ず戻ってくる。俺たちは……前へ進もう」
陽葵は、涙をこらえながら、小さく頷いた。
その瞳に、もう迷いはなかった。
二人は、砕けた氷の先――
仲間が消えた闇の先へ、歩き出す。
まだ見ぬ“地獄の深部”へと。
欠けた三角形を、再び取り戻すために――




