第1話 ―自殺後の世界で―
黄泉奏多は、小学生の頃バスケ部にいた。
特別バスケが好きだったわけじゃない。
ただ、町にある小学校は一つだけで、部活もほぼ選択肢がなかった。
中学校も、高校も同じ。田舎の閉鎖的な環境では、誰と関わるかもほぼ決まってしまう。
最初のきっかけは、よく覚えていない。
クラスの中で、いつの間にか的になっていた。
休み時間になると、屋上に続く階段の踊り場に呼び出され、
数人に囲まれては殴られ、蹴られた。
笑い声と罵声が、頭の奥でこだまする。
バスケ部でも同じだった。
「練習だ」と言われてボールをぶつけられる。
本来なら成長の糧になるはずの時間は、ただ耐えるためだけの時間に変わった。
上達するはずもなく、小学生のうちにバスケをやめた。
中学に上がる時、少しは環境が変わるかと期待した。
けれど、現実は逆だった。
より巧妙に、より陰湿に、いじめは形を変えて続いた。
靴の中に画鋲。手が滑ったと殴られた。
理由なんてなかった。
ただ、僕がそこにいたから。
高校に進む頃には、反抗する気力すらなくなっていた。
何をしても無駄だと知っていたから。
「ねえ、なんでやられるままなの? 戦わないの?」
声をかけてくれたのは、クラス委員長の服部さんだった。
真面目で、いつも成績がよくて、正義感が強い人だ。
彼女は悔しそうに自分のスカートをぎゅっと握りしめた。
「私も先生には言ったよ。でも、『男子がじゃれてるだけだろ』って……全然、真剣に聞いてくれない」
まっすぐな瞳が僕を射抜く。
「……悔しいじゃない。あんた、殴られても蹴られても、何にも感じないわけ?」
その言葉が、どこか遠くから聞こえるようだった。
僕はもう、何も感じたくなかった。
戦う気力も勇気も、とうに擦り切れていた。
そして僕の抗う方法は、戦うことでも逃げることでもなかった。
ただ、この日々を終わらせること。
天井の梁にロープを掛ける。
足元の椅子は、もうぐらついていた。
手のひらは汗で湿って、縄が滑りそうになる。
何度も深呼吸をして、喉にかけた輪を整える。
本当は、怖い。
でも、このまま明日を迎える方が、もっと怖い。
誰も来ない時間を選んだ。
誰にも迷惑をかけない場所を選んだ。
最後くらいは、静かに消えたかった。
ぐっと息を吸い、目を閉じる。
足元の椅子を、蹴った。
瞬間、首に焼けるような圧迫が走り、世界が揺れた。
耳鳴り。視界の端が黒く染まっていく。
そして――白がすべてを覆った。
目を開けた時、そこには――真っ白な空間が広がっていた。
音も、温度も、何もない。ただの無。
ああ……死んだんだ。
そう思った瞬間、どこか安堵している自分に気づく。
やっと終わった――もう、苦しまなくていいんだ。
突然、無表情な男が現れた。黒い羽織に、異様に長い髪。
目だけが、底知れない闇を湛えている。
「私は案内人だ。ついてこい」
男に導かれ、足を進める。
たどり着いたのは、裁きの間。
そこには――想像を絶する存在がいた。
「――我が名は、閻魔大王」
天を突く巨体。血のように赤い目。
膝まで届く異様に長い舌。
神と鬼の境界を思わせる威容。
「生者の罪と善行を測り、死後の行き先を決める者である」
その声が空間を震わせた瞬間、僕の目の前に巨大な天秤が現れる。
片側には「善行」、もう片側には「悪行」。
そこに、僕の人生がひとつずつ映し出されていく。
小学校の頃、スーパーの前で泣いていた女の子に声をかけ、手を繋いで探してあげた。+800点
駅前でお年寄りの手を引き、信号の向こうまで見送った。+1000点
困っている人を見かけたら、必ず声をかけずにはいられなかった。+2000点
……他、合計 +18,230点
閻魔は一瞬、目を細めて頷いた。
「……ふむ。なかなかの善き魂だな」
少しだけ救われた気がした。
これなら天国へ――
「……だが」
閻魔の声音が、急に冷たくなる。
「お前は、自ら命を絶った」
その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。
「それは、すべての善行を吹き飛ばす重大な罪である。
どんな理由であれ、命を捨てた一点において、汝の魂は穢れている」
――ゴウンッ!!
天秤の「悪行」側に、巨大な黒い球が叩き込まれる。
轟音とともに傾く天秤。
「自死、−1億点」
「よって……行き先は、地獄と定まった」
暗闇が足元から這い寄り、僕を掴む。
抵抗も虚しく、奈落へと落ちていく。
「……っ」
信じられなかった。
体が、勝手に後ろへ引きずられていく。
暗闇が足元から這い寄り、僕の足を掴み――奈落へと引きずりこむ。
「待ってくれよ……! そんなのおかしいだろ……!」
脳裏に、スーパーの前で泣いていた女の子の顔が浮かぶ。駅前で手を引いたおばあさんの、優しい笑顔が浮かぶ。
「僕は……困っている人は見過ごせなかった……! それが、僕なりに必死に生きた証なんだよ……!」
「死んでからも救われないなんて……あんまりじゃないか……!」
「せめて……ほんの少しだけでも……穏やかになれると思ったのに……!」
でも。
僕の声など、届かない。
それが――この世界の絶対の理だった。
そして僕は、地獄へと堕ちていく。
暗闇を抜けた瞬間、視界が血と鉄に染まる。
地面一面が無数の針で覆われ、どこまでも続いている。
一本一本が不気味に光り、通る者を待ち構えている。
「ここはどこなんだ?」
気づけば、素足。
冷たい鉄と針が、足裏の体温を奪っていく。
「……まさか歩け、って……これを……?」
ズシン……ズシン……ッ!
背後から響く重低音。振り向けば、人間の五倍の巨体。
血のような蒸気を吹き出し、巨大な棍棒を引きずる――鬼だ。
「止まるなァァァアアアア!!!!!」
動けなかった誰かの背中に棍棒が振り下ろされる。
骨の砕ける音、肉の裂ける音、鼻を突く血と焼けた肉の臭い。
背後にも鬼。
「進め……進め……進め……!」
呪詛のような声に、足が勝手に前へ出る。
一歩――針が肉を裂く。魂まで焼ける痛み。
もう一歩――甲まで貫かれ、声が漏れる。
涙が滲むが、止まれば殺される。
誰も助けない。出口もない。
ここには死すらない。
足を失っても魂が再生し、また歩かされる。
苦しみは終わらない。
「これが……地獄なの……か……」
感情は擦り切れ、言葉は無力になる。
歩く、刺される、血を流す――ただ存在を地獄に刻まれながら、前へ。
あれから五年たった――。
それは、生きていれば、高校を卒業し、進学し、将来を悩む年齢だ。
でもここでは、そんな時間の流れすら無意味だった。
この地獄に落ちてから、もう何度、足を貫かれたかわからない。
皮膚は裂け、肉が破れ、血が噴き出し、骨まで突き刺さった。
それでも、死ねない。
何度倒れても、立たされる。
魂が砕けようと、時間が巻き戻るように、また修復されて――
再び、歩かされる。
ただ、再生するたびに、何かが確実に削れていった。
最初は、痛みに叫んだ。
次は、怒りに叫んだ。
そのうち、涙を流すことすら面倒になった。
今はもう、何も叫ばない。
目の前に広がる、無限の針山を、無心で、ただ、歩くだけ。
音がない。
風がない。
色がない。
ただ、鉄の冷たさと、血の臭いと、地の底から響くような唸り声だけがある。
誰も話さない。
誰も目を合わせない。
隣を歩いていた誰かが倒れても、誰も振り返らない。
ああ、また1人、壊れた。そう思うだけ。
誰かの足が折れた音。
誰かの魂が砕けた音。
誰かの頭が棍棒で叩き潰される音。
全部、聞こえる。
でも、何も思わなくなった。
それを哀れだとも思わなくなった時点で、もう自分も壊れているんだろう。
昔のことは、よく思い出せない。
自分の名前さえ、薄れていく。
「黄泉奏多」と、心の中で呟いてみる。
けれど、それすら誰の名前だったかわからなくなることがある。
記憶の隅で、誰かの声が残っていた気がする。
「おはよう」「いってらっしゃい」
――それが、誰の声だったのか、もう出てこない。
まるで、泥水の底に沈んだ思い出を、何度も何度も手を伸ばしては、届かずに諦めるような日々。
魂は、確実に擦り減っている。
痛い。
歩くたびに、足の裏を裂かれる感覚。
無数の針が、血に濡れている。
その血が、自分のものか、他人のものか、もうどうでもいい。
夜がこない。
朝もこない。
空はずっと赤1色のままだ。
ふと、何かが背後から倒れる音がする。
でも、振り返らない。
振り返るだけの心がもう、残っていない。
それが誰であっても、自分が助ける理由なんて、どこにもない。
人の声が、うるさい。
叫ぶな。泣くな。頼るな。
そんな感情を持てるうちは、まだ甘い。
自分は、もうそれをとうに失った。
ああ、
あと何年、ここを歩けばいいのか。
それを考える余力すら、もうない。
今日もまた、
血を流しながら、
骨を砕かれながら、
魂を裂かれながら――
僕は生きているのか?
それとも、死に損なったまま、生かされているのか?
もう、どっちでもいい。
ただひとつ、確かなことがあった。
この地獄には、終わりがない。
けど僕は想像もしてなかった。
まさか、この地獄よりも――さらなる地獄があるなんて。