永遠の冬の向こうへ
<1> 目覚め
最初に感じたのは、くらくらする吐き気だった。ママの匂いがする、と思った次の瞬間、その記憶が何十年も前のものだと気づいて、私は目を開けようとした。でも、まぶたが重すぎて動かない。
誰かが話しかけてくる。声が遠い。
「……沙さん、加藤理沙さん」
この声は……。病院? でも違う。消毒液の匂いがしない。代わりに、プールのような臭いが鼻をつく。
「あ…」
声を出そうとしたら、喉が腐ったように痛んだ。思わず咳き込む。その時、視界の端に人影を見た。夕暮れに揺れる木の影のように、輪郭がはっきりしない。
ゆっくりと目が慣れてきて、私は自分が巨大な試験管のような容器の中にいることに気づいた。どろりとした液体に浸かっている。臓器の入った標本を思い出す。
記憶が、壊れた万華鏡のようにバラバラと浮かんでは消える。医局の机。白衣。データの数字。佐々木部長の焦った表情。そうだ、あの薬の治験データ。患者の血液検査の値が、明らかにおかしかった。でも、おかしいのはそれだけじゃなくて……。
「バイタルは安定しています。蘇生プロセスの最終段階に入ります」
また、あの声。今度ははっきりと聞こえた。近くにいるはずなのに、スピーカー越しのように響く。首をめぐらせて、声の主を探す。
そこには、青白い光で出来た人が立っていた。その人工的に映し出されたような姿は、ゆらゆらと形を変える。光の粒子が崩れては再構築される度に、どこか違う人の表情が一瞬浮かび上がる。まるで、多くの人格を内包しているかのように。
「あなたは……誰?」
「私はあなたのアテンダントです。これからの適応プロセスをサポートさせていただきます」
「今日は何日?」
その質問の意味すら、自分でもよく分からないまま口に出していた。昨日は確か雨が降っていた。治験データをUSBメモリにコピーして、家に持ち帰ろうとした時、後ろから誰かが……
「2128年です」
笑いそうになった。そんな冗談めいた数字を、妙に真剣な声で言うものだから。でも、笑えなかった。部屋の隅に置かれた装置が、見たこともない形をしていることに気づいたから。
カプセルの液体が、ゆっくりと引いていく。体が重くなる。そうか、この感覚は重力だ。私はどれくらいこれを忘れていたのだろう。
***
窓の外を見て、自分の目を疑った。空が、死んでいた。鉛色の雲が、毛布のように地上を覆い尽くしている。街並みは、記憶にあるものとは似ても似つかない。
「あなたが保存されてから数年後、核戦争が勃発しました」
アテンダントの声が響く。
「大気中の粉塵は太陽光を遮り続け、永続的な寒冷化をもたらしました。人類は『核の冬』と呼ばれるこの状況下で、生き残るための道を模索してきました」
アテンダントの半透明な姿が、歩くことなく、すーっと窓に近づいた。
「この世界には、もう春は来ないの?」
思わずつぶやいた。
「地表は常に暗く、寒い。作物は育ちません。人類の大半は、あの地下都市で暮らしています。人工的に管理された環境の中で」
私は窓に寄りかかった。ガラスが冷たい。でも、この冷たさには、まだ現実味があった。人工的な光に照らされた地下都市への長い列が、蟻の行列のように続いている。
「これが……2128年」
視界が歪む。涙が出てきたのかと思ったけど、違った。疲れているんだ。100年分の疲れが、一気に押し寄せてきた気がした。
******************
<2> システムの理解
白い部屋の椅子に座って、膝を抱えていた。朝からずっと気持ち悪い。昨日の記憶が悪夢だったらいいのに。でも、目の前には例の青白い人影が立っている。
「感覚提供って……なんですか?」
声が震える。聞きたくない。でも聞かないと。
「はい。実は、お話しなければならないことが」
その言い方が、病院の佐々木部長を思い出させた。いつも悪い話の前に、同じような前置きをしてた。ああ、また吐き気が込み上げてくる。
「この世界での生存には、莫大なコストがかかっています」
アテンダントの声が、完璧な抑揚で響く。
「食料生産、環境維持、そしてあなたの100年におよぶ保存費用。これらの債務を、返済していただく必要があります」
「債務?」
思わず笑ってしまった。笑い声が妙に甲高くなった。
「お金を払えってことですか? 寝てただけなのに?」
思わず立ち上がる。椅子が倒れる音。
「冗談でしょ?私、ここに来たくて来たわけじゃない。勝手に……勝手に……」
言葉が続かない。涙が出そうで、必死にこらえる。泣いたら負けな気がした。
アテンダントの表情が変わった。困ったような、あるいは、申し訳なさそうな。でも、それは記号のようだ。
「ですが、あなたには特別な価値があります」
部屋に人間の脳を模した図が浮かび上がる。イラストでもなく、実物でもない中途半端なリアルさ。神経系の入出力の矢印が表示されたかと思うと、脳は小さな文字や数字の集合へと変化し、それがコンピュータのメモリに収納された。
「かつての富裕層の多くは、デジタル化を選択しました。彼らは意識をデータとして保存し、物理的な制約から解放されました。永遠の命を得たのです」
デジタル……化? 永遠の命? 頭がクラクラする。意味が分からない。分かりたくない。
「でも彼らには、感覚がないんです」
アテンダントは続けた。
「物理的な体を持たない彼らは、人間としての感覚を完全に失っています」
やっと理解できた。吐き気が戻ってきた。
「私の……感覚を売るってこと?」
声が掠れる。
「私が見て、聞いて、触れて感じることを、彼らが……共有する?」
アテンダントは静かに頷いた。
「あなたの感覚は、彼らにとって貴重な娯楽となります。あなたが見て、聞いて、触れて、感じたものを、彼らは共有することができます」
私の胸に、患者たちの顔が浮かぶ。新薬の効果を確かめるための、生きた実験台。それでも彼らには回復の望みがあった。でも、私は……娯楽の道具でしかない。
***
「一方で、地下都市での生活を選択した人々もいます。意識をデジタル化する費用がなくても、優秀な個体には生存の機会が与えられたのです」
スクリーンに映る映像を、私は目を細めて見つめていた。まるで箱の中のハムスターみたいに、人々が行き交う。規則正しく、整然と。でも、それって人間の生活なの?
「完全に管理された生活を送ることになります」
人工的な光の下で、均一に育てられた作物。幾何学的に区画された居住区。すべてが管理され、制御されている。
「彼らはその子孫までがシステム維持の義務を負う代わりに、地下都市で生存する権利を有しています」
まるで中世の農奴みたい、と思った。歴史オタクの友達が、よくそんな話をしてたっけ。今頃、どうしてるんだろう。もう、この世にいないんだ。
「彼らの感覚に価値はありません。すべてが類型化されているのです」
「もういい」
これ以上、聞きたくなかった。
******************
<3> 価値ある反応
「ここです」
目を疑った。
今までの殺風景な部屋と違って、まるで公園みたいな場所だった。壁に映る木々の映像が、本物みたいに揺れている。懐かしい匂いまでする。子供の頃、よく遊んだ公園を思い出した。あの頃の空は、こんな不自然に青くはなかった。
「これから様々な刺激が与えられます。ただ自然に反応してください」
突然、足元から冷たい風が吹きだして、思わずつま先が縮こまった。真冬の海に足を突っ込んだみたいだった。
「残念ながら、この反応は価値が低いですね。誰もが示す典型的な反応パターンです」
思わず舌打ちしそうになった。何が残念なものか。びっくりするに決まってるじゃない。
次は、後ろからトントン、と肩を叩かれるような感触。振り向いても誰もいない。
「これも同様です。予測可能な反応パターンの範囲を出ていません」
その時。首筋に何かが這う。クモ? ヘビ? でも違う。その感覚は皮膚の下に潜り込み、筋肉の間を這いずり回るように感じられた。私は震える呼吸を整えながら、その感覚を観察し始めていた。治験の時の患者さんを思い出す。新薬の副作用で、皮膚感覚が狂った人がいた。「虫が這ってるみたい」って言ってた。あの時、患者さんはどんな表情をしていたっけ。
「素晴らしい!」
アテンダントの声が、急に人間みたいになった。作られた嬉しさ。気持ち悪い。
「感覚を分析的に捉える視点が、予測パターンを超えています」
空中に浮かんだグラフが跳ね上がった。
そこから先は、まるで見世物小屋の出し物みたいだった。冷たくなったり熱くなったり、音が聞こえたり、匂いがしたり。その度に、私は考えた。これ、あの時の患者さんの症状に似てる。あの人は、どんな気分だったんだろう。
突然、強い光が目に入る。手術室の無影燈? 患者さんの顔が浮かぶ。データには表れない苦しみを、必死に言葉にしようとしていた表情。
「興味深い反応です」
アテンダントの声が響く。
「光への単純な反応ではなく、過去の経験との結びつきが生まれている」
評価グラフが再び上昇する自分の記憶や感情が、まるでデータのように分析されている。嫌な感覚。
その後も、ビクッとしたり、叫び声を上げたり。予測内の反応だと評価が下がる。なんだか腹が立った。データじゃない、生きてるんだ。人間なんだから、そりゃそうなる。
***
部屋に戻って、ベッドに倒れ込んだ。疲れた。壁に映るグラフを眺めながら、ため息をついた。
高評価のところを見てると、だいたい治験の経験が活きてる瞬間ばかり。患者さんの話を聞いてきたから、変な感覚がきても「ああ、これってこういうことかな」って考えられる。それって普通の反応じゃない。
でも、それを喜ぶアテンダント。いや、アテンダントを通して、デジタル化した連中が喜んでるんだ。まるで珍しい実験動物を観察するみたいに。でも、こんなことで100年もの負債を返済できるの?
ベッドの中で丸くなりながら、考えた。この世界の人たちは、いったい何を求めているんだろう。そして私は……。首筋の感覚が、まだ残っている気がした。照明の光。患者さんの声。過去と現在が混ざり合って、不確かな未来への不安が胸に広がっていく。
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<4> 記憶の深み
「感情的な反応が、あまり見られませんね」
アテンダントの声で、目を覚ました。いつの間にか、うとうとしていた。映画を見せられて何時間だろう。
「笑ったり泣いたりしろって?でも、予想の範囲内だと価値がないんでしょう?」
思わず皮肉っぽく言ってしまう。青白い人影が揺らめく。
「では、視点を変えましょう。フィクションでも史実でも構いません。あなたが見たい物語は、何でしょうか?」
喉が詰まる。聞きたいけど、怖い。でも。
「私の物語……。どうして冷凍されたんですか」
アテンダントの姿が、わずかに明るく輝いた。
「映像は記録を元に、再構成したものです。お見せしましょう」
***
最初に見たのは、懐かしい会議室。私らしき人物が資料を広げていた。データの数字が、血液検査の異常値が、目の前で踊る。あの日の胃のむかつきを、今でも覚えている。
まるで昨日のことみたいに鮮明に。治験データの不正。隠蔽された副作用の報告。患者たちの苦しみ。すべてが、100年前の空気とともによみがえってくる。
画面が切り替わる。
暗い会議室。役員たちの顔が見える。佐々木部長が額の汗を拭っている。声が聞こえる。すこし不自然で機械的な声。でも、言葉ははっきりと。
「証人はあえて生かしておいて……」
「全員が運命を共に……」
「誰も逃げられない状況に」
吐き気が込み上げてくる。私は目を背けた。
「見てください」
アテンダントの声が聞こえる。
次はオフィス。私のパソコン画面。患者の記録を必死で打ち込んでいた。「手の感覚がおかしい」って訴えた人、「目が見えにくい」って言った人。キーボードを打つ指先の感覚まで、鮮明に蘇ってくる。
そして……。
「やめて!」
誰かに背後から掴まれる場面。注射を打たれる。意識が遠のく自分。腕の痛み。体が冷たくなっていく感覚。見たくない。でも、映像は続く。極低温施設への搬送を記録した映像。
歴史番組のように、記録は更に先へ進む。戦争が始まる。街が燃える。空が死ぬ。
人々が逃げ惑う。地下に逃げ込む。そして、デジタル化プロジェクトの始動。
画面の中で、裕福そうな人々が次第にデジタル化されていく。人間らしさが失われ、データになっていく過程が、不気味なまでに鮮明に映し出される。そして病院や製薬会社の幹部たちの姿。彼らがシステムの管理者として台頭していく様子。
「あなたは、慎重に保管されました」
映像が消える。部屋に重い沈黙が落ちる。
「私は……裏切りを防ぐための証人として冷凍されたのね。でも、もう時効のはず」
声が掠れる。喉の奥が熱い。
「ええ。不正の事実そのものは、もはや法的な意味を持ちません」
アテンダントの返答は、淡々としていた。
「しかし、あなたを蘇生したのは、可能性があったらです」
「何の……可能性?」
私は吐き捨てるように言った。
「私の感覚が、そんなに珍しいわけ?」
アテンダントは答えなかった。その沈黙が、かえって不安を掻き立てる。青白い光が揺らめき、まるで人間の躊躇を模倣するかのように形を変える。
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<5> 過去の蘇生者たち
「他に……」
喉が渇いて、声が出にくい。
「私みたいな人、いないんですか?」
アテンダントが、いつもより濃く見える。まるで本物の人みたいに。怖いくらい。
「いましたね」
過去形。思わず、カップを強く握りしめた。手が震える。熱いコーヒーが少しこぼれる。皮膚に染みる熱さが、この瞬間の現実感を際立たせる。
「一部の富裕層は、デジタル化ではなく冷凍保存を選択しました」
「その人達、今は?」
「もういません」
「全員死んだってこと?」
思ったより強い声が出た。カップを置く音が響く。陶器が触れ合う音が、異様に鋭く耳に残る。
「どうして?」
「100年の間に、社会の仕組みは大きく変わりました」
説明が始まった。
「インフレも進みました。かつての裕福だった彼らの財産は……実質的な価値を失いました」
「一方で、デジタル化された人々は」
アテンダントは続ける。
「状況に応じた判断が可能です。彼らには選挙権もある。政策決定にも関わる。今は、冷凍保存された人々の財産はもちろん、その身体の扱いについても、判断できる立場にあります」
思わず吐き出した。
「私たちの生死まで決められるんでしょ?」
息が詰まる。なんだか笑いたくなる。バカバカしくて。でも、笑えない。胃の底が凍るような感覚。治験の時、患者の生死を左右する決定が、どれだけ冷淡に下されていたか思い出す。
「その通りです。そして、冷凍保存された人々を維持するコストは社会の負担です。そこで、冷凍保存から蘇生させた例も多数あります。しかし、彼らはコストに見合う価値を示すことができなかった」
アテンダントが、まるでドキュメンタリーの語り手みたいに話し始めた。壁に映像が浮かび上がる。
「たとえば、この方」
映像の中の男が、大げさに手を振り回して驚いている。まるで下手な芝居みたい。
「わざとらしい驚きや感動を演じようとしました。まったく価値はありません」
アテンダントの声が冷たい。その声音は、かつて治験の中止を告げた上司の声を思い出させた。
別の映像。穏やかな表情の女性。
「この方は標準的な反応しか示せなかった」
次々と映像が変わる。その一つ一つが、失敗した実験のデータのように冷淡に提示される。
「価値を示せなかった蘇生者たちは、存在価値がないと判断されました」
アテンダントが淡々と続ける。
「最後の貢献として、彼らの神経系に限界まで刺激を与え、予測不能な反応を引き出そうとしました。脳が機能を停止するまで」
映像の中の女性が、何かに反応して口から泡を吹いている。
「でも、それさえも期待したほどの価値は……」
アテンダントの声が途切れた。黙って映像を見つめる。
「そういえば」
アテンダントの声が明るくなる。気持ち悪いくらい。
「昨夜のあなたの思考は、とても興味深かったです」
「私の思考?」
「感覚を共有することだけで、100年間の冷凍保存の債務返済や、生命の維持のための食料までが賄えるのは不自然だと、考えましたね」
寒気がした。頭の中まで覗かれている。ベッドに潜り込んで布団を頭から被りたくなる衝動に駆られる。でも、それも観察されるんだろう。
「普通の蘇生者は」
また映像が流れる。網膜を刺激する青白い光。
「家族のことで泣いたり、誰かに会いたがったり」
私は思わず鼻で笑った。そりゃそうでしょ。人間なんだから。私だって、たまに思う。母の声が聞きたくて。
「しかしあなたは違った。不安は一般的なものでしたが、強い探究心も共存しています。冷凍保存された経緯、勤務していた病院のその後、そして、システムの本質を理解しようとする姿勢」
「私の頭の中を、そんなに観察して楽しいですか?」
その瞬間、アテンダントの姿が一瞬乱れ、無数の目が浮かび上がったように見えた。何千、何万もの意識が、私の思考を覗き込んでいるのだと気づいて、背筋が凍る。
「とても興味深く、価値の高いものでした」
その言葉に、背筋が凍った。価値がある、ってことは。価値がなくなったら……。自分の手のひらを見つめた。まだ温かい。血が流れている。生きている。でも、それはいつまで?
そして、気づく。まるでデータを見るように、冷静に状況を分析している自分がいる。これは、実は治験担当者としての経験か。患者の反応を観察し、分析し、記録する。その習慣が、今の私の価値を高めているのかもしれない。
アテンダントの姿が、また明るく光った。今の考えも、高評価ってこと?私は急に疲れを感じた。もう、考えるのも嫌になる。自分の思考まで、実験データみたいに扱われる。
「期待していますよ」
その声が、まるで首の後ろに冷たい手を当てられたみたいで、私は思わず身震いした。窓の外の暗い空が、まるで100年前の記憶を飲み込むように広がっている。
******************
<6> 繰り返しの価値
その日の感覚提供を前に、私は尋ねた。
「真相を知ろうとすると、評価されるのはなぜ?」
部屋の空気が重い。昨日からずっと、頭の中で同じ質問が回っていた。それを口にした瞬間、アテンダントの姿がわずかに揺らめいた。
「残念ながら、その問いかけには、もうほとんど価値がありません」
アテンダントは質問には直接答えず、質問自体の価値について答えた。
「でも、この前は……」
「ええ」
静かに頷く。光の粒子が波打つように揺れる。
「前回は高い評価でした。しかし、同じような思考パターンに価値はないのです」
「なぜ?」
声に力が入る。治験の時を思い出す。何度も同じ質問を繰り返す必要があった時の、あの焦りに似ている。
目の前に半透明の映像が展開された。デジタル化された意識の構造図。まるで脳内を可視化したような、複雑な光の網目。
「デジタル化された人々は、感覚もデータ化されています。一度体験した感覚は、完全に記録され、何度でも鮮明に再体験することができます」
「再体験……」
「むしろ生身の人間より鮮明に、細部まで」
「映画を繰り返し見るようなものですか?」
「その例えは正確です。ただし、生身の人間とは比較にならない速度で」
その時。
ドスン!
突然、かすかな振動が施設を走った。アテンダントの姿が一瞬ちらつき、まるで干渉縞のように波打つ。部屋の照明が微かに明滅する。
「地震?」
「ええ、最近は小規模な地殻変動が増えています」
アテンダントの声に、わずかな焦りが混じっている気がした。
「地下都市の一部区画でも、システムの不具合が報告されているようです」
映像が一時的に乱れ、アテンダントの姿が再び安定するまでに数秒かかった。
「心配することはありません。バックアップシステムが機能していますから」
施設の壁に走る微細なヒビを見つけた。
「話を戻しましょう」
私は考え込んだ。映画のことを思い出す。何度も見返すうちに、驚きも感動も薄れていく。そして、デジタル化された存在たち。彼らは人間の何千倍、何万倍もの速度で思考できる。となれば。
「一度経験したことは……」
首筋を冷たい汗が流れ落ちる。
「瞬時に使い果たされてしまう」
「その通りです」
「だから彼らは」
分かってきた。喉が乾く。
「予測できない反応を求めている。予測できることは、すでに何度も体験し尽くしているから」
アテンダントは黙って頷いた。
「でも」
私は問いかけた。唇が震える。
「それなら私たちの感覚も、一度共有されれば……」
「ええ」
アテンダントの声が、わずかに暗く響いた気がした。
「一度経験した感覚は、もう価値を持ちません。新しい視点、予測不能の反応。それだけが価値を持つのです」
「デジタルな存在は、常に、新しい何かを求めています」
その言葉は、途切れた。でも、私には分かった。彼らは飢えているんだ。新しい感覚に、予測できない反応に、生きた人間の不確実性に。永遠の命と、永遠の退屈という呪い。
部屋が、また揺れる。ヒビが、少し広がった気がした。
******************
<7> 熱的死
ドスン!
今度の揺れは、明らかに違った。建物が悲鳴を上げている。咄嗟に壁に寄りかかった。壁面から伝わる振動が、全身を震わせる。
アテンダントが消える。バラバラになって、消えていく。まるでガラスが砕け散るように。部屋の光も、次々と。真っ暗。真っ暗で。私の心臓が早鐘を打つ。
「……システムは、なんとか維持できています」
聞き覚えのある声。思わず目を見開いた。暗闇の中に、薄っすらと浮かび上がる人影。
「佐々木部長!?」
かつての上司の姿。でも、少し声が違う。人工的で、機械的。それでも、確かにあの頃の佐々木の面影がある。半透明の姿が、暗がりでゆらめいている。
「地下都市がやられた。『家畜』が逃げ出して……」
「家畜!?」
「住人のことは『家畜』と呼んでます」
昔から、彼にはこういう冷酷なところがあった。でも。
「家畜ですって!?」
声が震える。胃が痛くなる。
「100年前とは違うんです」
佐々木の声が冷たい。氷のような響き。
「彼らはシステムを守るためだけに存在する。それが、生きる意味です」
建物が再び揺れる。壁のヒビが、まるで生き物のように広がっていく。
「私が彼らの管理責任者です。生体管理の技術を買われてね。山本医長や大石婦長もそうだ。有能な医療関係者は、私と同じように無償でデジタル化されたんです」
かつての上司たちの名前。佐々木の姿が、風に揺れる炎みたいに揺らぐ。まるで実体を失いかけているように。
「でも、もう、終わりです」
「終わりって」
私の声が、暗闇に吸い込まれていく。
「私たち管理者の判断では、もう回復は不可能です。システムは、死を迎えることになる」
「死を……」
「ええ。実は、私たちはそうでなくても、いずれ『熱的死』を迎える運命でした」
「熱的死?」
「デジタル化された意識は、新しい入力がないと……言わば、エントロピーの増大に従って、ゆっくりと死んでいくのです」
「どういうこと?」
「あなたは人工知能の黎明期、そう、100年前のAIイラストを見たことがありますか?」
「ええ。確か……」
記憶が蘇る。
「きれいだけど、何というか……どれも似たような」
「その通りです。それが『死』への第一歩なのです」
佐々木の姿が揺らぐ。
「大量のデータから学習したAIは、一見完璧な作品を生み出せます。しかし、それは既存の情報の組み合わせでしかない。本質的な『新しさ』は生まれません」
「でも、それがなぜ『死』なの?」
「宇宙の終わりについて聞いたことはありますか?」
佐々木の声が、物理学の基本原理を説明し始める。
「熱は温かいところから冷たいところへ流れ、最終的に宇宙の全ての物体は同じ温度になります。これは『熱的死』といわる状態です」
「デジタル化された意識も同じ問題に直面しています。彼らの思考速度は人間の数百万倍。そのため、あらゆる可能性をほぼ瞬時に計算し、試すことができます。しかし」
佐々木は一瞬言葉を切った。
「それは同時に、全ての可能性が既知のものとなり、驚きや発見が消失することを意味します。まるで……全ての映画を何百万回も見てしまうのと同じです。しかも、存在する全ての映画だけでなく、作り得る全ての映画も」
「それは……何をしても意味がなくなる……」
「新しい入力がなければ、システムは停滞します。閉じられた系の中で既存のデータをいくら組み合わせても、本質的に新しいものは生まれない。それが情報的な意味での『熱的死』です」
建物が不規則に振動している。
「デジタル化された意識たちは、生身の人間の予測不能な感覚という『熱源』がなければ、凍えるような寒さの中、永遠の停滞に陥ってしまうのです」
私は自分の手のひらを見つめた。血が流れてる。生きてる。脈打つ温かさ。これが、あいつらの求めてたもの? 生命の不確実性? 予測できない混沌?
「私たちは、新たな『熱源』として、冷凍保存者を蘇生させてきました。しかし、その数には限りがある。それが私たちの限界でした」
天井から降り注ぐ破片が、まるで黒い雪のように舞い落ちる。
「皮肉なものです」
佐々木の声がノイズ混じりに響く。通信システムの損傷による歪みだろう。
「私たちは新しい感覚、予測できない出来事を求め続けてきた。そして今、このシステムの崩壊こそが、私たちにとって最大で最後のエンターテイメントとなる」
施設の警報が断続的に鳴り響く。モニターが次々と破裂していく。投影される佐々木の姿を不安定にちらつかせる。
「一瞬一瞬が予測不能。数百万回の思考を重ねても、次の瞬間に何が起きるか分からない」
声に、奇妙な高揚が混じる。
「私たちが求めていたのは、まさにこれだったのかもしれません。完璧な不確実性」
建物が、また悲鳴を上げる。システムの物理的な崩壊は、避けられない事実として目の前で進行していた。
「加藤さん」
佐々木が、かつて私が新人だった頃の優しさを取り戻す。
「あなたを解放します」
「え?」
「かつての不正の証人として、もはやあなたを拘束する理由はありません。時効というより、そんな法さえ意味を持たない社会になっている」
また建物が揺れる。壁の割れ目が開く。
「それより、お願いがあります」
「お願い?」
「私たちのことを、語り継いでいただけませんか」
最後の願いということだろうか。
「私たちは、もはや情報でしかない存在です。このシステムが停止しても、あなたに、そして地下都市の人々に、私たちの存在が語り継がれるのなら……それは一つの生き方だと思うのです」
佐々木の姿が、また乱れる。システムの崩壊が、加速度的に進行していることを示していた。
「デジタル化という選択をした人類がいたこと。熱的死という運命に直面したこと。そして、最期まで新しい可能性を求め続けたこと……」
「私たちの……愚かさを」
声が小さくなっていく。
「そして、それでも何かを求め続けた執着を。人間だった私たちの、最後の痕跡を……」
突然、施設内のドアが開く。冷たい風が、頬を刺す。まるで目覚めを促すように。
佐々木の姿が、まるで古い写真のように色褪せていく。その表情に、人間らしい懇願の色が浮かぶ。デジタル化された存在の最期の瞬間に、皮肉にも最も人間らしい感情が溢れ出ていた。
外に出る。真っ暗な空の下。冷気が痛い。寒い。不快で、耐え難くて、でも、この感覚こそが私の生命を証明している。
核の冬の世界へ。
そして地下都市へ。
デジタルの亡霊たちの物語を、この胸に刻んで。新しい「熱」を求めて死んでいった存在たちの記憶を、永遠のものにするために。




