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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

永遠の冬の向こうへ

作者: 菱屋千里
掲載日:2025/01/11

<1> 目覚め


 最初に感じたのは、くらくらする吐き気だった。ママの匂いがする、と思った次の瞬間、その記憶が何十年も前のものだと気づいて、私は目を開けようとした。でも、まぶたが重すぎて動かない。


 誰かが話しかけてくる。声が遠い。


「……沙さん、加藤理沙さん」


 この声は……。病院? でも違う。消毒液の匂いがしない。代わりに、プールのような臭いが鼻をつく。


「あ…」


 声を出そうとしたら、喉が腐ったように痛んだ。思わず咳き込む。その時、視界の端に人影を見た。夕暮れに揺れる木の影のように、輪郭がはっきりしない。


 ゆっくりと目が慣れてきて、私は自分が巨大な試験管のような容器の中にいることに気づいた。どろりとした液体に浸かっている。臓器の入った標本を思い出す。


 記憶が、壊れた万華鏡のようにバラバラと浮かんでは消える。医局の机。白衣。データの数字。佐々木部長の焦った表情。そうだ、あの薬の治験データ。患者の血液検査の値が、明らかにおかしかった。でも、おかしいのはそれだけじゃなくて……。


「バイタルは安定しています。蘇生プロセスの最終段階に入ります」


 また、あの声。今度ははっきりと聞こえた。近くにいるはずなのに、スピーカー越しのように響く。首をめぐらせて、声の主を探す。


 そこには、青白い光で出来た人が立っていた。その人工的に映し出されたような姿は、ゆらゆらと形を変える。光の粒子が崩れては再構築される度に、どこか違う人の表情が一瞬浮かび上がる。まるで、多くの人格を内包しているかのように。


「あなたは……誰?」


「私はあなたのアテンダントです。これからの適応プロセスをサポートさせていただきます」


「今日は何日?」


 その質問の意味すら、自分でもよく分からないまま口に出していた。昨日は確か雨が降っていた。治験データをUSBメモリにコピーして、家に持ち帰ろうとした時、後ろから誰かが……


「2128年です」


 笑いそうになった。そんな冗談めいた数字を、妙に真剣な声で言うものだから。でも、笑えなかった。部屋の隅に置かれた装置が、見たこともない形をしていることに気づいたから。


 カプセルの液体が、ゆっくりと引いていく。体が重くなる。そうか、この感覚は重力だ。私はどれくらいこれを忘れていたのだろう。


***


 窓の外を見て、自分の目を疑った。空が、死んでいた。鉛色の雲が、毛布のように地上を覆い尽くしている。街並みは、記憶にあるものとは似ても似つかない。


「あなたが保存されてから数年後、核戦争が勃発しました」

アテンダントの声が響く。

「大気中の粉塵は太陽光を遮り続け、永続的な寒冷化をもたらしました。人類は『核の冬』と呼ばれるこの状況下で、生き残るための道を模索してきました」


 アテンダントの半透明な姿が、歩くことなく、すーっと窓に近づいた。


「この世界には、もう春は来ないの?」


 思わずつぶやいた。


「地表は常に暗く、寒い。作物は育ちません。人類の大半は、あの地下都市で暮らしています。人工的に管理された環境の中で」


 私は窓に寄りかかった。ガラスが冷たい。でも、この冷たさには、まだ現実味があった。人工的な光に照らされた地下都市への長い列が、蟻の行列のように続いている。


「これが……2128年」


 視界が歪む。涙が出てきたのかと思ったけど、違った。疲れているんだ。100年分の疲れが、一気に押し寄せてきた気がした。


******************

<2> システムの理解


 白い部屋の椅子に座って、膝を抱えていた。朝からずっと気持ち悪い。昨日の記憶が悪夢だったらいいのに。でも、目の前には例の青白い人影が立っている。


「感覚提供って……なんですか?」


 声が震える。聞きたくない。でも聞かないと。


「はい。実は、お話しなければならないことが」


 その言い方が、病院の佐々木部長を思い出させた。いつも悪い話の前に、同じような前置きをしてた。ああ、また吐き気が込み上げてくる。


「この世界での生存には、莫大なコストがかかっています」

アテンダントの声が、完璧な抑揚で響く。

「食料生産、環境維持、そしてあなたの100年におよぶ保存費用。これらの債務を、返済していただく必要があります」


「債務?」

思わず笑ってしまった。笑い声が妙に甲高くなった。

「お金を払えってことですか? 寝てただけなのに?」


 思わず立ち上がる。椅子が倒れる音。


「冗談でしょ?私、ここに来たくて来たわけじゃない。勝手に……勝手に……」

言葉が続かない。涙が出そうで、必死にこらえる。泣いたら負けな気がした。


 アテンダントの表情が変わった。困ったような、あるいは、申し訳なさそうな。でも、それは記号のようだ。


「ですが、あなたには特別な価値があります」


 部屋に人間の脳を模した図が浮かび上がる。イラストでもなく、実物でもない中途半端なリアルさ。神経系の入出力の矢印が表示されたかと思うと、脳は小さな文字や数字の集合へと変化し、それがコンピュータのメモリに収納された。


「かつての富裕層の多くは、デジタル化を選択しました。彼らは意識をデータとして保存し、物理的な制約から解放されました。永遠の命を得たのです」


 デジタル……化? 永遠の命? 頭がクラクラする。意味が分からない。分かりたくない。


「でも彼らには、感覚がないんです」

アテンダントは続けた。

「物理的な体を持たない彼らは、人間としての感覚を完全に失っています」


 やっと理解できた。吐き気が戻ってきた。


「私の……感覚を売るってこと?」

声が掠れる。

「私が見て、聞いて、触れて感じることを、彼らが……共有する?」


 アテンダントは静かに頷いた。

「あなたの感覚は、彼らにとって貴重な娯楽となります。あなたが見て、聞いて、触れて、感じたものを、彼らは共有することができます」


 私の胸に、患者たちの顔が浮かぶ。新薬の効果を確かめるための、生きた実験台。それでも彼らには回復の望みがあった。でも、私は……娯楽の道具でしかない。


***


「一方で、地下都市での生活を選択した人々もいます。意識をデジタル化する費用がなくても、優秀な個体には生存の機会が与えられたのです」


 スクリーンに映る映像を、私は目を細めて見つめていた。まるで箱の中のハムスターみたいに、人々が行き交う。規則正しく、整然と。でも、それって人間の生活なの?


「完全に管理された生活を送ることになります」


 人工的な光の下で、均一に育てられた作物。幾何学的に区画された居住区。すべてが管理され、制御されている。


「彼らはその子孫までがシステム維持の義務を負う代わりに、地下都市で生存する権利を有しています」


 まるで中世の農奴みたい、と思った。歴史オタクの友達が、よくそんな話をしてたっけ。今頃、どうしてるんだろう。もう、この世にいないんだ。


「彼らの感覚に価値はありません。すべてが類型化されているのです」


「もういい」

これ以上、聞きたくなかった。


******************

<3> 価値ある反応


「ここです」


 目を疑った。


 今までの殺風景な部屋と違って、まるで公園みたいな場所だった。壁に映る木々の映像が、本物みたいに揺れている。懐かしい匂いまでする。子供の頃、よく遊んだ公園を思い出した。あの頃の空は、こんな不自然に青くはなかった。


「これから様々な刺激が与えられます。ただ自然に反応してください」


 突然、足元から冷たい風が吹きだして、思わずつま先が縮こまった。真冬の海に足を突っ込んだみたいだった。


「残念ながら、この反応は価値が低いですね。誰もが示す典型的な反応パターンです」


 思わず舌打ちしそうになった。何が残念なものか。びっくりするに決まってるじゃない。


 次は、後ろからトントン、と肩を叩かれるような感触。振り向いても誰もいない。


「これも同様です。予測可能な反応パターンの範囲を出ていません」


 その時。首筋に何かが這う。クモ? ヘビ? でも違う。その感覚は皮膚の下に潜り込み、筋肉の間を這いずり回るように感じられた。私は震える呼吸を整えながら、その感覚を観察し始めていた。治験の時の患者さんを思い出す。新薬の副作用で、皮膚感覚が狂った人がいた。「虫が這ってるみたい」って言ってた。あの時、患者さんはどんな表情をしていたっけ。


「素晴らしい!」

アテンダントの声が、急に人間みたいになった。作られた嬉しさ。気持ち悪い。

「感覚を分析的に捉える視点が、予測パターンを超えています」


 空中に浮かんだグラフが跳ね上がった。


 そこから先は、まるで見世物小屋の出し物みたいだった。冷たくなったり熱くなったり、音が聞こえたり、匂いがしたり。その度に、私は考えた。これ、あの時の患者さんの症状に似てる。あの人は、どんな気分だったんだろう。


 突然、強い光が目に入る。手術室の無影燈? 患者さんの顔が浮かぶ。データには表れない苦しみを、必死に言葉にしようとしていた表情。


「興味深い反応です」

アテンダントの声が響く。

「光への単純な反応ではなく、過去の経験との結びつきが生まれている」


 評価グラフが再び上昇する自分の記憶や感情が、まるでデータのように分析されている。嫌な感覚。


 その後も、ビクッとしたり、叫び声を上げたり。予測内の反応だと評価が下がる。なんだか腹が立った。データじゃない、生きてるんだ。人間なんだから、そりゃそうなる。


***


 部屋に戻って、ベッドに倒れ込んだ。疲れた。壁に映るグラフを眺めながら、ため息をついた。


 高評価のところを見てると、だいたい治験の経験が活きてる瞬間ばかり。患者さんの話を聞いてきたから、変な感覚がきても「ああ、これってこういうことかな」って考えられる。それって普通の反応じゃない。


 でも、それを喜ぶアテンダント。いや、アテンダントを通して、デジタル化した連中が喜んでるんだ。まるで珍しい実験動物を観察するみたいに。でも、こんなことで100年もの負債を返済できるの?


 ベッドの中で丸くなりながら、考えた。この世界の人たちは、いったい何を求めているんだろう。そして私は……。首筋の感覚が、まだ残っている気がした。照明の光。患者さんの声。過去と現在が混ざり合って、不確かな未来への不安が胸に広がっていく。


******************

<4> 記憶の深み


「感情的な反応が、あまり見られませんね」


 アテンダントの声で、目を覚ました。いつの間にか、うとうとしていた。映画を見せられて何時間だろう。


「笑ったり泣いたりしろって?でも、予想の範囲内だと価値がないんでしょう?」


 思わず皮肉っぽく言ってしまう。青白い人影が揺らめく。


「では、視点を変えましょう。フィクションでも史実でも構いません。あなたが見たい物語は、何でしょうか?」


 喉が詰まる。聞きたいけど、怖い。でも。

「私の物語……。どうして冷凍されたんですか」


 アテンダントの姿が、わずかに明るく輝いた。

「映像は記録を元に、再構成したものです。お見せしましょう」


 ***


 最初に見たのは、懐かしい会議室。私らしき人物が資料を広げていた。データの数字が、血液検査の異常値が、目の前で踊る。あの日の胃のむかつきを、今でも覚えている。


 まるで昨日のことみたいに鮮明に。治験データの不正。隠蔽された副作用の報告。患者たちの苦しみ。すべてが、100年前の空気とともによみがえってくる。


 画面が切り替わる。


 暗い会議室。役員たちの顔が見える。佐々木部長が額の汗を拭っている。声が聞こえる。すこし不自然で機械的な声。でも、言葉ははっきりと。


「証人はあえて生かしておいて……」

「全員が運命を共に……」

「誰も逃げられない状況に」


 吐き気が込み上げてくる。私は目を背けた。


「見てください」

アテンダントの声が聞こえる。


 次はオフィス。私のパソコン画面。患者の記録を必死で打ち込んでいた。「手の感覚がおかしい」って訴えた人、「目が見えにくい」って言った人。キーボードを打つ指先の感覚まで、鮮明に蘇ってくる。


 そして……。


「やめて!」

誰かに背後から掴まれる場面。注射を打たれる。意識が遠のく自分。腕の痛み。体が冷たくなっていく感覚。見たくない。でも、映像は続く。極低温施設への搬送を記録した映像。


 歴史番組のように、記録は更に先へ進む。戦争が始まる。街が燃える。空が死ぬ。


 人々が逃げ惑う。地下に逃げ込む。そして、デジタル化プロジェクトの始動。


 画面の中で、裕福そうな人々が次第にデジタル化されていく。人間らしさが失われ、データになっていく過程が、不気味なまでに鮮明に映し出される。そして病院や製薬会社の幹部たちの姿。彼らがシステムの管理者として台頭していく様子。


「あなたは、慎重に保管されました」


 映像が消える。部屋に重い沈黙が落ちる。


「私は……裏切りを防ぐための証人として冷凍されたのね。でも、もう時効のはず」

声が掠れる。喉の奥が熱い。


「ええ。不正の事実そのものは、もはや法的な意味を持ちません」

アテンダントの返答は、淡々としていた。

「しかし、あなたを蘇生したのは、可能性があったらです」


「何の……可能性?」

私は吐き捨てるように言った。

「私の感覚が、そんなに珍しいわけ?」


 アテンダントは答えなかった。その沈黙が、かえって不安を掻き立てる。青白い光が揺らめき、まるで人間の躊躇を模倣するかのように形を変える。


******************

<5> 過去の蘇生者たち


「他に……」

喉が渇いて、声が出にくい。

「私みたいな人、いないんですか?」


 アテンダントが、いつもより濃く見える。まるで本物の人みたいに。怖いくらい。


「いましたね」


 過去形。思わず、カップを強く握りしめた。手が震える。熱いコーヒーが少しこぼれる。皮膚に染みる熱さが、この瞬間の現実感を際立たせる。


「一部の富裕層は、デジタル化ではなく冷凍保存を選択しました」


「その人達、今は?」


「もういません」


「全員死んだってこと?」


 思ったより強い声が出た。カップを置く音が響く。陶器が触れ合う音が、異様に鋭く耳に残る。


「どうして?」


「100年の間に、社会の仕組みは大きく変わりました」

説明が始まった。

「インフレも進みました。かつての裕福だった彼らの財産は……実質的な価値を失いました」


「一方で、デジタル化された人々は」

アテンダントは続ける。

「状況に応じた判断が可能です。彼らには選挙権もある。政策決定にも関わる。今は、冷凍保存された人々の財産はもちろん、その身体の扱いについても、判断できる立場にあります」


 思わず吐き出した。

「私たちの生死まで決められるんでしょ?」


 息が詰まる。なんだか笑いたくなる。バカバカしくて。でも、笑えない。胃の底が凍るような感覚。治験の時、患者の生死を左右する決定が、どれだけ冷淡に下されていたか思い出す。


「その通りです。そして、冷凍保存された人々を維持するコストは社会の負担です。そこで、冷凍保存から蘇生させた例も多数あります。しかし、彼らはコストに見合う価値を示すことができなかった」


 アテンダントが、まるでドキュメンタリーの語り手みたいに話し始めた。壁に映像が浮かび上がる。


「たとえば、この方」


 映像の中の男が、大げさに手を振り回して驚いている。まるで下手な芝居みたい。


「わざとらしい驚きや感動を演じようとしました。まったく価値はありません」


 アテンダントの声が冷たい。その声音は、かつて治験の中止を告げた上司の声を思い出させた。


 別の映像。穏やかな表情の女性。


「この方は標準的な反応しか示せなかった」


 次々と映像が変わる。その一つ一つが、失敗した実験のデータのように冷淡に提示される。


「価値を示せなかった蘇生者たちは、存在価値がないと判断されました」

アテンダントが淡々と続ける。

「最後の貢献として、彼らの神経系に限界まで刺激を与え、予測不能な反応を引き出そうとしました。脳が機能を停止するまで」


 映像の中の女性が、何かに反応して口から泡を吹いている。


「でも、それさえも期待したほどの価値は……」


 アテンダントの声が途切れた。黙って映像を見つめる。


「そういえば」

アテンダントの声が明るくなる。気持ち悪いくらい。

「昨夜のあなたの思考は、とても興味深かったです」


「私の思考?」


「感覚を共有することだけで、100年間の冷凍保存の債務返済や、生命の維持のための食料までが賄えるのは不自然だと、考えましたね」


 寒気がした。頭の中まで覗かれている。ベッドに潜り込んで布団を頭から被りたくなる衝動に駆られる。でも、それも観察されるんだろう。


「普通の蘇生者は」

また映像が流れる。網膜を刺激する青白い光。

「家族のことで泣いたり、誰かに会いたがったり」


 私は思わず鼻で笑った。そりゃそうでしょ。人間なんだから。私だって、たまに思う。母の声が聞きたくて。


「しかしあなたは違った。不安は一般的なものでしたが、強い探究心も共存しています。冷凍保存された経緯、勤務していた病院のその後、そして、システムの本質を理解しようとする姿勢」


「私の頭の中を、そんなに観察して楽しいですか?」


 その瞬間、アテンダントの姿が一瞬乱れ、無数の目が浮かび上がったように見えた。何千、何万もの意識が、私の思考を覗き込んでいるのだと気づいて、背筋が凍る。


「とても興味深く、価値の高いものでした」


 その言葉に、背筋が凍った。価値がある、ってことは。価値がなくなったら……。自分の手のひらを見つめた。まだ温かい。血が流れている。生きている。でも、それはいつまで?


 そして、気づく。まるでデータを見るように、冷静に状況を分析している自分がいる。これは、実は治験担当者としての経験か。患者の反応を観察し、分析し、記録する。その習慣が、今の私の価値を高めているのかもしれない。


 アテンダントの姿が、また明るく光った。今の考えも、高評価ってこと?私は急に疲れを感じた。もう、考えるのも嫌になる。自分の思考まで、実験データみたいに扱われる。


「期待していますよ」


 その声が、まるで首の後ろに冷たい手を当てられたみたいで、私は思わず身震いした。窓の外の暗い空が、まるで100年前の記憶を飲み込むように広がっている。


******************

<6> 繰り返しの価値


 その日の感覚提供を前に、私は尋ねた。

「真相を知ろうとすると、評価されるのはなぜ?」


 部屋の空気が重い。昨日からずっと、頭の中で同じ質問が回っていた。それを口にした瞬間、アテンダントの姿がわずかに揺らめいた。


「残念ながら、その問いかけには、もうほとんど価値がありません」

アテンダントは質問には直接答えず、質問自体の価値について答えた。


「でも、この前は……」


「ええ」

静かに頷く。光の粒子が波打つように揺れる。

「前回は高い評価でした。しかし、同じような思考パターンに価値はないのです」


「なぜ?」

声に力が入る。治験の時を思い出す。何度も同じ質問を繰り返す必要があった時の、あの焦りに似ている。


 目の前に半透明の映像が展開された。デジタル化された意識の構造図。まるで脳内を可視化したような、複雑な光の網目。


「デジタル化された人々は、感覚もデータ化されています。一度体験した感覚は、完全に記録され、何度でも鮮明に再体験することができます」


「再体験……」


「むしろ生身の人間より鮮明に、細部まで」


「映画を繰り返し見るようなものですか?」


「その例えは正確です。ただし、生身の人間とは比較にならない速度で」


 その時。


 ドスン!


 突然、かすかな振動が施設を走った。アテンダントの姿が一瞬ちらつき、まるで干渉縞のように波打つ。部屋の照明が微かに明滅する。


「地震?」


「ええ、最近は小規模な地殻変動が増えています」


 アテンダントの声に、わずかな焦りが混じっている気がした。


「地下都市の一部区画でも、システムの不具合が報告されているようです」


 映像が一時的に乱れ、アテンダントの姿が再び安定するまでに数秒かかった。


「心配することはありません。バックアップシステムが機能していますから」


 施設の壁に走る微細なヒビを見つけた。


「話を戻しましょう」


 私は考え込んだ。映画のことを思い出す。何度も見返すうちに、驚きも感動も薄れていく。そして、デジタル化された存在たち。彼らは人間の何千倍、何万倍もの速度で思考できる。となれば。


「一度経験したことは……」

首筋を冷たい汗が流れ落ちる。

「瞬時に使い果たされてしまう」


「その通りです」


「だから彼らは」

分かってきた。喉が乾く。

「予測できない反応を求めている。予測できることは、すでに何度も体験し尽くしているから」


 アテンダントは黙って頷いた。


「でも」

私は問いかけた。唇が震える。

「それなら私たちの感覚も、一度共有されれば……」


「ええ」

アテンダントの声が、わずかに暗く響いた気がした。

「一度経験した感覚は、もう価値を持ちません。新しい視点、予測不能の反応。それだけが価値を持つのです」


「デジタルな存在は、常に、新しい何かを求めています」

その言葉は、途切れた。でも、私には分かった。彼らは飢えているんだ。新しい感覚に、予測できない反応に、生きた人間の不確実性に。永遠の命と、永遠の退屈という呪い。


 部屋が、また揺れる。ヒビが、少し広がった気がした。


******************

<7> 熱的死


 ドスン!


 今度の揺れは、明らかに違った。建物が悲鳴を上げている。咄嗟に壁に寄りかかった。壁面から伝わる振動が、全身を震わせる。


 アテンダントが消える。バラバラになって、消えていく。まるでガラスが砕け散るように。部屋の光も、次々と。真っ暗。真っ暗で。私の心臓が早鐘を打つ。


「……システムは、なんとか維持できています」


 聞き覚えのある声。思わず目を見開いた。暗闇の中に、薄っすらと浮かび上がる人影。


「佐々木部長!?」


 かつての上司の姿。でも、少し声が違う。人工的で、機械的。それでも、確かにあの頃の佐々木の面影がある。半透明の姿が、暗がりでゆらめいている。


「地下都市がやられた。『家畜』が逃げ出して……」


「家畜!?」


「住人のことは『家畜』と呼んでます」


 昔から、彼にはこういう冷酷なところがあった。でも。


「家畜ですって!?」

声が震える。胃が痛くなる。


「100年前とは違うんです」

佐々木の声が冷たい。氷のような響き。

「彼らはシステムを守るためだけに存在する。それが、生きる意味です」


 建物が再び揺れる。壁のヒビが、まるで生き物のように広がっていく。


「私が彼らの管理責任者です。生体管理の技術を買われてね。山本医長や大石婦長もそうだ。有能な医療関係者は、私と同じように無償でデジタル化されたんです」


 かつての上司たちの名前。佐々木の姿が、風に揺れる炎みたいに揺らぐ。まるで実体を失いかけているように。


「でも、もう、終わりです」


「終わりって」

私の声が、暗闇に吸い込まれていく。


「私たち管理者の判断では、もう回復は不可能です。システムは、死を迎えることになる」


「死を……」


「ええ。実は、私たちはそうでなくても、いずれ『熱的死』を迎える運命でした」


「熱的死?」


「デジタル化された意識は、新しい入力がないと……言わば、エントロピーの増大に従って、ゆっくりと死んでいくのです」


「どういうこと?」


「あなたは人工知能の黎明期、そう、100年前のAIイラストを見たことがありますか?」


「ええ。確か……」

記憶が蘇る。

「きれいだけど、何というか……どれも似たような」


「その通りです。それが『死』への第一歩なのです」


 佐々木の姿が揺らぐ。


「大量のデータから学習したAIは、一見完璧な作品を生み出せます。しかし、それは既存の情報の組み合わせでしかない。本質的な『新しさ』は生まれません」


「でも、それがなぜ『死』なの?」


「宇宙の終わりについて聞いたことはありますか?」


 佐々木の声が、物理学の基本原理を説明し始める。

「熱は温かいところから冷たいところへ流れ、最終的に宇宙の全ての物体は同じ温度になります。これは『熱的死』といわる状態です」


「デジタル化された意識も同じ問題に直面しています。彼らの思考速度は人間の数百万倍。そのため、あらゆる可能性をほぼ瞬時に計算し、試すことができます。しかし」


 佐々木は一瞬言葉を切った。


「それは同時に、全ての可能性が既知のものとなり、驚きや発見が消失することを意味します。まるで……全ての映画を何百万回も見てしまうのと同じです。しかも、存在する全ての映画だけでなく、作り得る全ての映画も」


「それは……何をしても意味がなくなる……」


「新しい入力がなければ、システムは停滞します。閉じられた系の中で既存のデータをいくら組み合わせても、本質的に新しいものは生まれない。それが情報的な意味での『熱的死』です」


 建物が不規則に振動している。


「デジタル化された意識たちは、生身の人間の予測不能な感覚という『熱源』がなければ、凍えるような寒さの中、永遠の停滞に陥ってしまうのです」


 私は自分の手のひらを見つめた。血が流れてる。生きてる。脈打つ温かさ。これが、あいつらの求めてたもの? 生命の不確実性? 予測できない混沌?


「私たちは、新たな『熱源』として、冷凍保存者を蘇生させてきました。しかし、その数には限りがある。それが私たちの限界でした」


 天井から降り注ぐ破片が、まるで黒い雪のように舞い落ちる。


「皮肉なものです」

佐々木の声がノイズ混じりに響く。通信システムの損傷による歪みだろう。

「私たちは新しい感覚、予測できない出来事を求め続けてきた。そして今、このシステムの崩壊こそが、私たちにとって最大で最後のエンターテイメントとなる」


 施設の警報が断続的に鳴り響く。モニターが次々と破裂していく。投影される佐々木の姿を不安定にちらつかせる。


「一瞬一瞬が予測不能。数百万回の思考を重ねても、次の瞬間に何が起きるか分からない」

声に、奇妙な高揚が混じる。

「私たちが求めていたのは、まさにこれだったのかもしれません。完璧な不確実性」


 建物が、また悲鳴を上げる。システムの物理的な崩壊は、避けられない事実として目の前で進行していた。


「加藤さん」

佐々木が、かつて私が新人だった頃の優しさを取り戻す。

「あなたを解放します」


「え?」


「かつての不正の証人として、もはやあなたを拘束する理由はありません。時効というより、そんな法さえ意味を持たない社会になっている」


 また建物が揺れる。壁の割れ目が開く。


「それより、お願いがあります」


「お願い?」


「私たちのことを、語り継いでいただけませんか」


 最後の願いということだろうか。


「私たちは、もはや情報でしかない存在です。このシステムが停止しても、あなたに、そして地下都市の人々に、私たちの存在が語り継がれるのなら……それは一つの生き方だと思うのです」


 佐々木の姿が、また乱れる。システムの崩壊が、加速度的に進行していることを示していた。


「デジタル化という選択をした人類がいたこと。熱的死という運命に直面したこと。そして、最期まで新しい可能性を求め続けたこと……」


「私たちの……愚かさを」

声が小さくなっていく。

「そして、それでも何かを求め続けた執着を。人間だった私たちの、最後の痕跡を……」


 突然、施設内のドアが開く。冷たい風が、頬を刺す。まるで目覚めを促すように。


 佐々木の姿が、まるで古い写真のように色褪せていく。その表情に、人間らしい懇願の色が浮かぶ。デジタル化された存在の最期の瞬間に、皮肉にも最も人間らしい感情が溢れ出ていた。


 外に出る。真っ暗な空の下。冷気が痛い。寒い。不快で、耐え難くて、でも、この感覚こそが私の生命を証明している。


 核の冬の世界へ。

 そして地下都市へ。


 デジタルの亡霊たちの物語を、この胸に刻んで。新しい「熱」を求めて死んでいった存在たちの記憶を、永遠のものにするために。

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― 新着の感想 ―
情報体の熱的死。 この世界に「永続」はなく、しかして、「想い」を次に繋げていくことで「未来」へと歩むことはできる…。 傲慢な身勝手さも、他力本願さも、実に人間らしい。 この「人間性」は未来に繋がるの…
核の冬、人類の求める『新しさ』の冬──読んでいて結構辛かったです。 ただ『なろうテンプレ』のように、定番の価値もあるんじゃないかなぁと思ってしまいました(^.^; 登場人物が記号的なのが作品に合っ…
電脳空間への移住は楽しく妄想する事はありますが、確かに入力がないとツラそうです。まさにホラーですね。 作者様の作品は初めて拝読いたしましたので、他の作品も読ませていただきます。
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