陰陽稽古
稽古をつけてくれ――沖田が言った瞬間、二人の間に火花が弾けた。
山南は本能的に跳び退り、沖田と間合いとる。
およそ畳二枚――二間にも満たぬ間合い。
互いに剣を抜けば、一足一刀の間となることは必至。だが二人の剣は、いまだ互いの鞘の内だ。
山南のすぐ左側には樫の机。対して右側は廊下を隔てる障子。
これでは、山南が抜刀する際に、樫の机を気にしなければならない。それに対して、沖田が剣を抜くに妨げるものはない。
沖田相手に、この立ち位置の差は致命的である。
――と、そんな山南の心中を察したか。沖田の腰がわずかに沈んだ。
すぅ――と、沖田の右手が上がり指の皮一枚、柄に手が触れる。
握りはしない。触れているだけである。
同時に、全身が発条のようにたわみ、沖田の身の裡に殺気が漲る。
それに対し山南は、静かにそこに在った。
自然体――気負いも力みもなく、程よく弛緩した筋脈。その一方で、足の裏から頭頂まで芯が透り骨で立っている。
その姿は天地を貫く一本の柱のようである。
両手は脇に垂らされ、剣を握るそぶりすらない。
静で在りながら動に満ちた沖田。
柔で在りながら剛を秘めた山南。
同じようにそこに在りながら、全く異なる性質で対峙する二人。
すでに、沖田の抜身の殺気が痛いくらいに、山南の頬を嬲っている。
「どうしました。稽古をつけて欲しいのであれば、そちらから来るのが礼儀ですよ」
「――山南さんこそ」
「なんです?」
「そのように構えも取らず、私を甘く見ているのですか」
「まさか」
山南の眼尻に、春風のような笑みが浮かんだ。
「……舐めるな」
ぽつり――と、沖田が呟いた。
瞬間――たわめた全身の発条を、沖田が解放した。
颶風の如く、一瞬で間合いを詰めた沖田が、躊躇なく剣を抜き放つ。
右脇から首へ斬り上げる、必殺の斬撃。
切っ先が、山南の襟に触れたその刹那。
ふわり――と山南が下がった。
一瞬でも遅れれば身を斬られ、逆に早ければ更に詰められる。
まさにその狭間となる絶妙の呼吸で、沖田の剣を外す。
沖田に生じた刹那の虚に、山南は手に隠し持った呪符を放った。
最初から山南には、沖田と斬り結ぶ気はなかった。
天羽にかけられた呪を解くために、この一瞬を誘ったのだ。
だが――
切り返した沖田の剣が、山南の呪符を切裂いた。
「このような子供騙し!」
舐めるな――と、沖田が踏み込む。
迅い――
沖田の剣が、山南の頬を裂く。
血飛沫が糸を引き、次々と繰り出される剣を、山南が躱す。
だが。
きゅいぃん!
咽喉の真ん中を狙って突いてきた沖田の切っ先を、山南は剣で受けた。
あまりの速さに己の剣を抜くしかできなかった。
「やっと本気になってくれましたね」
鬼火のように沖田の瞳が嗤う。
「仕方ありませんね」
そう呟く山南の眼に、先程までの笑みはない。
出来る事ならば、沖田相手に剣を抜きたくはなかった。だが、天羽の呪を解く為には、まず沖田の剣を黙らせるより方法はない。
「本気で相手をしますよ」
この戦いで初めて、山南から動いた。
嵐の如き勢いの沖田の剣に比べて、山南の剣は清流のようだった。
滑るように奔る剣先は、緩やかなようでいて迅い。最短距離を通り、吸い込まれるように沖田を襲う。
くかか――
だがそれを、沖田はいとも容易く受けていく。
沖田に剣を弾かれ、山南の身体が樫の机にぶつかる。
そこに沖田の剣が振り降ろされた。
「ちぃ!」
それを寸前で躱すがも、刃が左の肩を掠め山南が転がった。
「山南さんの本気はこんなものですか」
沖田が剣先を向け、無邪気に笑む。
「これはどうにも参りましたね」
山南は立ち上がると、剣を構え直す。
二人の剣の腕に見た目ほどの差はない。だが、あるとするならば質の差。
つまり、一切の躊躇の無い沖田の剣に対し、本気とはいえ沖田を傷つけたくない山南の剣。
この本質的な気組みの差が、この状況を生み出しているのだ。
「分かったんですよ」
沖田が動いた。
「私は難しく考えすぎていたんです」
上段から中断に変化した剣が、山南を襲う。
山南がそれを外に弾く。
「四郎さんが、それを教えてくれました――」
自由であればよいと――沖田の身体が独楽のように反転し、逆側から斬りこんでくる。
「私はね、斬りますよ。斬って斬って斬りまくります。この剣を振るって、神だろうが仏だろうが鬼だろうが斬ります!」
酔いしれるように叫ぶ沖田の剣が、山南を襲う。
だらり――と剣を降ろし、山南は部屋の隅まで追い詰められてしまう。
「どうです。これでもう私を子供扱いしませんよね」
右手で持った剣を突きつけ、沖田が言った。
「残念ながら君は、少しも強くなどなってはいない」
「なんだって?」
「これはそもそもが沖田君の持っている実力。それが天羽の呪により箍が外れただけのもの。だがしかし、己の心を御しきれぬ君は寧ろ――」
弱くなった――と、山南が首を振る。
「黙れ!」
沖田が歯を軋らせ敵意をむき出しにする。
「現にここまで追い詰められたくせに、なにを言う!」
山南の咽喉元に、沖田の剣先が触れる。
「紛い物の力を、己の力と勘違いしないことだ。そんな力では――」
私は斬れない――と、山南の咽喉に赤い血の珠が生じた。
「煩い!負け惜しみを言うな!」
沖田は剣を引くと間合いを取り、平青眼に構える。
それに対し、山南は剣を鞘に納めた。
「愚弄する気か!」
沖田の瞳に妖しの鬼火が揺らめく。
全身から殺気を放ち、沖田が動いた。
それは、沖田のみが放てる神速の妙技――三段突き。
眉間。
咽喉。
胸。
くっきりと残像を残し三本の凶刃が、山南に同時に襲い掛かる。
なす術もなく、三条の煌めきが山南の身体に吸い込まれていく。
だが――確かに貫いた筈の山南の姿はそこになかった。
馬鹿な――驚愕に眼を剥く沖田の脇腹を、鞘に納めたままの剣で山南が打つ。
「がはっ――」
沖田が血を吐き、その手から剣が零れ落ちた。
空寂――山南の得意とする剣技。剣の気配を完全に断ち刃を見せなくするこの技を、山南は己の身体に使ったのだ。
沖田が突いたのは虚像。既に山南の現身はそこには無かった。
膝を着く沖田を見下ろす山南の手に、白い呪符があった。
「――唵、多気鎮下万象、急々如律令!」
剣印で五芒星を描くと、沖田の額に白い符を押し当てる。
「濁氣浄散。邪氣散華――」
見る見る間に白い符が、黒く染まっていく。
「転!」
山南が印を組みかえると、沖田から剥がした呪符が、ぼろぼろと崩れた。
沖田が床に倒れ込む。
ふぅ――と、息を吐き、沖田の額に触れる。
安堵するように頷いた山南が。一瞬膝を崩す。
だが、壁に手をつくと持ち直した。
剣を腰に挿すと、もう一度だけ沖田を見やり、山南は天羽の後を追う。
障子を開けたところで、
「ご案内致します」
草摩が慇懃に頭を垂れ、山南を出迎えた。




