悲哀蓮慕
まだ他に仲間がいましたか——
周囲の樹々を見渡し、天羽が呟く。
「さてどうでしょう」
山南は含んだように微笑む。
だがそんな憶えはない。
柔志狼からも知らされていない。敵か味方か分からぬが、天羽に誤解をさせておいた方が有利であろうと、山南は咄嗟に判断した。
「いいかげん観念してもらいましょう」
山南が剣を構える。
「それはどうでしょうか」
天羽が口の端を持ちあがる。
その時だった。
「……がぁっ」
柔志狼の口から洩れた苦悶の声に、山南が振りかえる。
眼を凝らせば、柔志狼にしな垂れかかる蓮の手に何かが握られていた。
「そ、それは!」
蓮の握り締めたそれは、ルプスのあのナイフだった。
微睡から覚めた蓮の瞳が、炯と黄色い燐光を発する。それは先程までとは違う妖の光である。
柔志狼の腰から血があふれ、黒い皮袴を濡らしていく。
蓮は獣が威嚇するような声を上げると、柔志狼から逃げようと全身でもがいた。
「よせ……」
だが、柔志狼は、蓮の腕を掴まえて離さなかった。
その光景を眼にした弓月が嗚咽を漏らした。
「貴様、何をした!」
山南が天羽を睨みつける。
「贄は活の良い方が、興がそそられるものですよ。それより――」
良いのですか――と、天羽が顎で示す。
その先に、跳ねるように立ち上がるルプスがいた。
「葛城、逃げろ!」
山南が叫ぶ。
分かってるよ――柔志狼も、ルプスの姿は捉えている。
だがそうしようにも、柔志狼こそが仇とばかりに、激しく暴れる蓮が邪魔をする。
「呪か」
先程、額に触れたとき、天羽がなにか仕込んだのであろう。いや、もしかすればそれ以前に、蓮を捨て駒にするべく仕込んであったのかもしれない。
そんな山南の思考をよそに、殺気の塊が柔志狼たちに迫る。
ちぃ――と、強引に連絡を抱え、柔志狼は己の身を被せるようにして地面に転がった。
間一髪――二人のいた空間を、ルプスの凶爪が焦がし切裂く。
直ぐに柔志狼が身を起こすと、その胸の下で蓮が狂ったように爪をたてる。
そんな蓮の脚が、腰に刺さるナイフに当たると一瞬、柔志狼の顔が苦悶に歪んだ。
「許せ」
れんの上に跨り、額を左掌で押さえつけると、柔志狼は呼吸を整える。
「吟っ!」
気合と同時に、柔志狼の掌から淡い光が迸る。
その瞬間、蓮の身体がびくりと、仰け反った。
「はぁ――」
水に溺れた後のように呼気を洩らすと、蓮の瞳に正常な光が戻った。
「よし――」
安堵の溜息と共に、どろりとした嫌な汗が柔志狼の頬を流れる。
その時だった。
「――葛城!」
巨大な力が叩きつけられ、柔志狼の分厚い体躯が、毬のように吹き飛んだ。
柔志狼の身体は石段を越え、朽ちかけた賽銭箱を粉々にすると、扉をぶち破り拝殿の中に消えた。
ぐるるるぁ!
ルプスが咽喉を突き立て咆哮を上げる。
その腕には、蓮が再び囚われている。
「嫌ぁ!」
正気の戻った蓮が、悲鳴を上げた。
「せっかく呪を解いても無駄でしたね」
「天羽ぉぉ!」
山南が剣を振りかぶる。
だが、その剣が宙で止まった。
「くっ!」
動けぬ弓月の身体を前に突きだし、天羽が微笑を浮かべる。
「卑怯な――」
山南が歯を軋ませる。
こんなところで弓月の命を無駄に使う気がないことは、山南にも充分わかっている。
だがそれでも――
「どこまでも甘い方ですね」
弓月を盾にしたまま、天羽が魔法円の中心に下がっていく。
「何故この場所を選んだか知っていますか」
天羽の足元――石畳の中で、二寸ばかりの丸い石から黒い靄のようなものが立ち昇っていた。
「それはまさか……」
山南が言葉に詰まる。
「稀代の大陰陽師の遺産――といえば大袈裟ですかね。一条戻橋から流れる霊気をろ過する要石の一つと言えば分かりますか――」
天羽が手にした杖を振り上げる。
「まさか――貴様が術を仕掛けた場所は全て……」
要石――或いは、龍丹炉ともよばれるそれは、土地の氣の流れである龍脈を整えるために置かれた、いわば『氣』の濾過装置である。
自然のものを流用したものも存在するが、その姿や大きさは様々である。
石と名がついているが、それに限らず樹や像など、また或いは生き物であることもある。
特にこの京では、遥か昔より様々な霊脈を整えるために、所々に大小さまざまな要石が配されていると聞く。
「気が付くのが遅いですね、山南敬助」
天羽が杖を振り降ろした。
刹那――要石が割れ、濁った瘴気が噴き出した。
瘴気は、魔法円をなぞるように渦を巻き、その中心に向かい吸い込まれていく。
「作られし獣の王よ。土と火と水と風より生み出された、罪深き混沌の落とし児よ。時は満ちた!存分に喰らうがよい」
GULA!
天羽が声に呼応するかのように、魔法円が光を発した。
Guriiiiiiiiiea――
それに触発されルプスが雄叫びを上げる。
「――っ!」
弓月が声にならぬ声で、蓮の名を叫ぶ。
「止めろ!」
山南が奔った。
魔法円の中心――砕かれた要石の上にルプスは立ち、背後から蓮を抱きしめた。
まるで愛おしく慈しむかのように。
「……いや――い、いや……嫌――――」
蓮は、幼い子供のように怯え身を震わせる。
咽喉を鳴らしながら、ルプスの顎がゆっくりと降りてくる。
「――急々如律令!」
山南が呪符を放つ。
黒い鳥の姿となった呪符は飛燕のように飛ぶが、見えない壁に阻まれ魔法円の寸前で弾けた。
「無駄です」
塞がる天羽が、胸の前で印を組む。
「結界か」
ならば――山南が腰溜めに剣を構える。
――間に合うか!
「無駄と言っている」
天羽から放たれた見えない刃が、山南をさえぎる。
「くっ!」
剣を眼前に突き立て天羽の術を受けるも、肩を裂かれ山南が膝をつく。
その瞬間、まだ青さの残る蓮の乳房に、ルプスの牙が突き立てられた。
ぞぶり――と、濡れた雑巾を叩きつけるような音。
くちゃり――と、泥を捏ねるような音が続き、蓮の白い肌の上に、大輪の血の花が咲いた。
きひぃやぁぁぁぁぁ――蓮の絶叫が空気を震わせる。
肉を齧り血を啜る――耳を覆いたくなるような咀嚼音が、蓮の悲鳴をかき消していく。
「嫌ぁぁぁぁぁぁ――」
あまりの絶望に術が解けたのか。その光景を目の当たりにした弓月の口から悲鳴が上がった。
天羽の手から抜け、その場に力なく崩れ落ちる弓月。
その姿に心を残しつつも、山南は魔法円に走った。
その時だった。
突如、地鳴りと共に足元が激しく揺れた。
それに共鳴するかのように、魔法円が妖しく明滅する。
同時に、なにか見えぬ力が三方向に迸るのを山南は観た。
「こ、これは――」
「要石から放たれた地龍が、術式に走り始めたのですよ」
「なんだと」
「この地に荼毘手の六芒星が刻まれたのです」
両手を広げ、天羽が嗤った。
「残念でしたね山南敬助。これで私の計画を止めることは出来なくなりました」
もしもこの瞬間、山南が鳥のように俯瞰することが出来れば、京の都に浮かび上がる巨大な六芒星を見ることができたであろう。
だが不思議なことに地龍は三つ奔った。
この地を起点として六芒星を描くのであれば、二つで済む。
では残る一つは――
泣き崩れる弓月を、天羽が抱え上げるのを見ると、山南は思考を中断した。
「待て!」
「遊びの時間は終わりました。いざ復活の地へ参りましょう」
穢れし純白のマリアよ――と天羽がほくそ笑む。
だがその時、
「なにっ!」
突如、暴風のような殺気が、その場にいた全員を叩いた。
ルプスが動きを止め、山南と天羽の視線が壊れた拝殿で止まる。
そこから地場のように強烈な殺気が噴き出していた。
「ちょっと、寝ちまったぜ」
ゆらり――と、額を流れる血を拭い、拝殿の奥から柔志狼が姿を現した。
かはぁ――と息を吐き、柔志狼がゆっくりと石畳を降りてくる。
まるで柔志狼の周囲だけ、殺気で空間が歪んでいるようである。
天羽ですら固唾を飲んで動けずにいた。
「なにしてんだよ」
ルプスの眼前に、柔志狼が立つ。
「この――」
犬畜生が――柔志狼の殺気が爆発した。
ルプスの顔面に、柔志狼の岩のような拳が炸裂した。
同時に、もう一方の手で、蓮の身体を奪い返す。
七尺を超えるルプスの巨体が吹き飛んだ。
「こんなになっちまって……」
柔志狼はその場に膝を着くと、左胸から首筋までを喰われた蓮の身体を抱き締めた。
「すまなかったな……偉そうなこと言ったのに、助けてやれなかった――」
蓮は微かに瞳を震わせ、柔志狼を見上げた。
咽喉をほとんど失い、ひゅーひゅーとした擦過音で、唇を震わせた。
「もう休んでいいんだぜ」
柔志狼がそっと瞼を閉じさせると、そこから一滴の涙が滲んだ。
急速に冷たくなっていく蓮の身体を、柔志狼が優しく抱きしめる。
「はぁっ、はっ、はっ――」
呼吸を荒く、弓月は狂ったように首を振る。
よろよろと、弓月が駆け寄ろうとするが、天羽がそれを許さない。
「マグダラのマリアよ、どこへ行くのです。神の復活の時間ですよ」
弓月の手首を引き寄せた。
その時だった。
「お前がぁ――」
振り返った弓月の手に、先ほど手折った楓の枝が握られていた。逆手に握ったそれを天羽の右眼に突き立てた。
「ふむ」
だが天羽は、弓月の手を離さず、平然とした様子でその枝を掴むと、なにごとも無かったように引き抜き投げ捨てる。
「本当に困った聖母だ」
天羽が額を撫でると、弓月が再び力なく崩れた。
同時に、潰れていない天羽の瞳が、元に戻った。
「さて――私は行きますが」
山南敬助、私を止められますか――そう言い放つと、天羽は弓月を抱え走りだした。
「待て!」
追う山南に向け、天羽がウリエルの吐息を放つ。
駆け出した山南は、己の刀身を剣印で叩いた。
刀身が白く輝くと、振るう刃が天羽の術を切裂く。
だがすでに天羽と弓月の姿は闇に吸い込まれていく。
「――ルプス。後は任せます」
「天羽ぉ!」
後を追う山南の前に、ルプスが立ち塞がる。
「邪魔をするな!」
下段に剣を構え、山南が正面から突っ込む。
だが――
「――柄じゃねぇだろ」
熱くなり過ぎだぜ――と、山南の横を音もなく、柔志狼が通り過ぎる。
「葛城――」
山南とルプスの間に、柔志狼が立ち塞がった。
「行けよ」
二人の消えた闇を指し示す。
「しかし――」
蓮に刺された傷は浅くはない。常人であれば立っていることすら困難であろう。
二人を挑発するように、ルプスが吼える。先程のお返しとばかりに、殺気を叩きつける。
「弱い犬ほど良く吼える――」
柔志狼の背が嗤う。
「こいつは俺の獲物だ」
行け山南――と、柔志狼が声を荒げる。
次の瞬間、柔志狼とルプス――二匹の獰猛な獣が同時に動いた。
山南は、急速に冷たくなる蓮を悼み天を仰ぐ。
「葛城!死ぬなよ」
足元に転がる楓の枝を掴み、山南は闇に駆けだした。




