人外辻
路地に背を向け中背の男が立っていた。
その視線の先に、禿頭の男と力士のような若い男に腕を掴まれた娘がいた。
下卑た好色な二対の眼が、娘の白い胸元を舐めるように見下ろす。
路地に背を向けている男が近づくと、下から娘を嬲るように見上げる。
「けへっ。堪らんぜよ」
そう呟いて、引きつったように肩を震わせた。
腰に剣はあるが、髷もほつれ薄汚れた風体は食い詰めた浪士だろう。濁った黄色い眼が、飢えた野良犬のようにぎらつく。
連られるように、娘を捕える大柄な男たちも品のない声で笑った。
「……ねぇや――どこ?」
そんな男たちを前に、乱れた襦袢を気にするでもなく、娘はどこか虚ろな瞳を泳がせる。
「――姉や、どこ?」
それは閨で囁くような、男の官能をくすぐる甘い艶声。
「ねえや?」
「あぁん」
娘の右側に立つ、禿頭の男が首を傾げた。
「あぁあ、閨ね。分かっちゅう、分かっちゅう」
正面に立つ中背の男が大きく頷いた。
「――ひきっ。まだ乳臭ぇガキかと思うちょったが堪らんのぉ」
娘の左腕を掴んでいる、巨漢が分厚い唇を舐めあげた。
「そうかそうか、閨がいいのか。ほじゃったら、ええ所へ連れてちゃるき。なぁ」
中背の兄貴分が二人を促す。
娘を捕らえる男たちは、互いの顔を見合わせ、卑猥な笑い声をあげた。
「そない豚が潰されたみたいに笑う男はんは嫌いやわどすえ」
めちゃくちゃな京訛りがいい気分に水を差す。
「な、なにっ」
突然のことに、男たちが娘の顔を覗き込む。
「おまん――」
兄貴分が首を傾げた。
「だからよ、その下品な顔近付けるなって言ってるんどすえ」
一転。ドスの利いた太い声が背後から響いた。
びくり――と、弾けるように振り返ると、すぐ後ろに獰猛な笑みを浮かべ、柔志狼が立っていた。
「――な、なんじゃぁ?」
腰も抜かさんばかりに男は取り乱した。
いつから背後にいたのか。声がするまで、全く気が付かなかった。
娘を捕らえた男らの驚きはそれ以上である。ずっと路地の方に顔を向けていたにもかかわらず、全く気が付かなかったのだ。
事態が把握できず、男らが硬直したように立ち尽くす。
「お前たち、何をしているんだ!」
そこへ、柔志狼を追って来た沖田が声を上げた。
「せやから、その臭い息をかけないでって言ってるんどすえ」
柔志狼の胡散臭い喋りが、尚も男たちを小馬鹿にする。
「な、な、な、ななんだ。お、おまんら、邪魔すんじゃねぇ!」
兄貴分が叫んだと同時に、娘の両脇の男たちが動いた。
場馴れしているのだろう。連携のとれた良い反応だった。
兄貴分の両脇をすり抜けるその手は、すでに剣の柄に伸びている。
だが、それよりも柔志狼の方が速かった。
一瞬早く前に出た柔志狼が、二人の肩を軽く抑えた。
「ぐべっ」
それだけで、大柄な男たちが、蛙が潰されたような呻きを漏らし、潰れるように尻餅をつく。
「……あぁ――」
一瞬のその光景に、兄貴分は眼をむいて唖然とした。
柔志狼はその隙に脇をすり抜け、娘の腕を掴み引きよせた。
鶏のように頭を巡らすが事態が飲み込めず、兄貴分の男は惚けたように口を開ける。
「天下の往来で下品な真似するんじゃねえよ。この田舎侍が」
男の胸倉を、柔志狼が指先で軽く突いた。
すると、男の身体は転がるように尻もちをついて地面に倒れた。
「こんなガキんちょ相手にしねぇで、女抱きたきゃ、ほか行けよ。なあぁ――」
沖田に同意を求めようとした時、柔志狼の耳元を甘く温かな吐息がくすぐった。
「里姉ぇを探して……」
耳元で、潤んだ瞳の娘が吐息のように囁いた。
その囁きはまだ幼さの残る娘とは思えぬほど淫靡で、妖絶な甘い香りを放つ。
「さ、里姉ぇ?」
こくり――と、娘が頷く。
「ね、姉さんを探してるのかい?」
柔志狼の言葉に、娘は虚ろな瞳で微笑んだ。
「ああっ!」
突然。その様子を見ていた沖田が声をあげた。
「なんだよ」
「この娘、誰かに似ているんだよ」
「誰だ?」
「思い出せない」
沖田は娘の肩を掴むと、顔をまじまじと覗き込んだ。
「やっぱり分からない」
眉間に皺を寄せ、肩を落とす。
「知り合いか?」
「思い出せない。だけど、どこかで見たことがある気がするんだ」
間違いない――と、沖田が力強く頷く。
そんな沖田を、艶やかに潤んだ瞳で娘が見つめる。
それには、流石の沖田も視線を逸らさずにはいられなかった。
「おい!ふ、ふ、ふざけるなよ!」
その声に、柔志狼と沖田が面倒臭そうに振り返った。
いつの間にか、男たちが剣を抜いて立ちあがっていた。
「わ、わしらをコケにしおって。後から出てきて横取りするたぁ。舐めたマネは許るさんぜよ」
兄貴分が威勢よく啖呵を切る。
「覚悟しぃ。叩斬っちゃる!」
「そいつを犯しまくってから、女衒に叩き売っちゃるき、邪魔ぁすんなや!」
禿頭と力士崩れも威勢よく唾を飛ばす。
男らの眼は血走り、一様に殺気立っているのが良くわかる。
はぁ――と、面倒くさそうに溜息を吐くと、
「――だって。どうするよ新撰組の沖田クンよ」
柔志狼が、にやりと嗤った。
「し、新撰組じゃと?」
その名に、男たちの間に動揺が走った。
狩る者と狩られる者――今や新撰組の名は、不逞浪士にとっては畏怖の代名詞である。
「は、はったりだ!はったりに決まっちゅうぜよ。壬生狼に、そげん優男がいるわけねぇが!」
虚勢を張るように兄貴分が吼える。
「み、壬生浪じゃろうが新撰組じゃろうが、構うことは無ぇ!」
――殺っちまえ!
――殺っちまえ!
ぎりりと、殺気が膨れ上がり白刃が鈍く煌めく。
「――だそうだ」
柔志狼は娘を連れ、するりと、沖田の背後に回る。
任せるぜ――と、沖田の背をポンと押した。
「お、おい!」
突然、矢面に立たされた沖田がたたらを踏む。
「優男からかぁ!」
威嚇するように、剣をちらつかせる。
「お前等、土佐者だよな」
仕方がない——と、向けた沖田の視線に、男らの動きが止まった。
「図星のようだな」
沖田の手が剣に伸びる。
「しぇからしかぁ《煩せぇ》!」
男らが襲い掛かった。
「ふん――手加減しないぞ」
沖田の腰元から白刃が煌めくと、鋭い金属音が二度鳴り響く。
「ぐぶっ」
「ぎゃん」
巨漢と禿頭が鈍い音をたて、地に転がった。
沖田は、男らの刃を抜刀と同時に弾き、すかさず刃の峰で叩いたのだ。その動きはまさに飛燕が舞うが如き。
峰打ちとはいえど無傷な訳はない。巨漢の鎖骨は折れ、肩が外れたように落ちている。禿頭に至っては、折れた腕の骨が肉を破り突き出している。
「手加減はしてあるぞ」
男らにそう言い放つと、沖田が振り返る。
柔志狼に対し、己の力を誇示するかのように、口の端を持ち上げた。
その時だった。
沖田に向かって、柔志狼が動いた。
「えぇっ!」
虚を突かれた沖田が、柔志狼に向け剣を構え直す。
だが柔志狼は、沖田を無視してすり抜けた。
「おい!」
沖田が振り返ると、兄貴分の男が無言で剣を振り上げ、襲い掛かる寸前であった。
そこへ柔志狼が踏み込んだ。
剣の柄を下から押さえると同時に、男の顔面にむかい分厚い掌が吸い込まれていく。
男の顔面は柘榴のようにひしゃげ、仰け吹っ飛ぶ。
呆気にとられる沖田に向かい、柔志狼がにやりと嗤った。
くっ――と、沖田が歯を噛みしめる。
柔志狼の手には、男の剣が握られていた。
「忘れもんだ。返すぜ」
潰れた顔で起き上がろうとする男に向かい、柔志狼は無造作に剣を投げた。
「ぎゃんっ」
投げた刀が肩に刺さると、男は犬のような情けない悲鳴を上げて転げまわった。
「手加減しないって言ったろ。なぁ、沖田ク――」
馬鹿な――と、眼を剥く沖田に、今度は柔志狼が慌てて振り返る。
そこには、肩から剣を生やしたまま、平然と立ち上がる男の姿があった。
致命傷こそ外してあるが、剣の刺さっているのは、左の胸に近い場所である。
動けるわけがない。
だが――
「へ、へへへ、痛ぇぇっきへっへへ……」
くふっ――肩から剣を生やしたまま、男は下卑た笑みを浮かべている。
「こ、こいつは、やっぱぱ、効くぜぇぇ」
肩口に刺さった刃を握ると、自ら傷を広げるようにこじり剣を引き抜いた。
血飛沫を跳ばしながら剣を投げ捨てると、傷を指でこねくり回す。その指をしゃぶると、口の周りに血を塗りたくる。
「ぇぇぇぁ――堪らんぜょぉ」
酔ったように恍惚の表情を浮かべる。
男の傷から細く黒い糸が、まるで沸き立つように現れた。
それは蟲がのたうつように蠕動すると、互いによじり合い絡み合い、瞬く間に傷口を塞いでいく。
「こ、こいつ……」
吐き気をもよおすような光景に、さすがの沖田も無意識に後退る。
すると沖田にやられた男たちも、のっそりと立ち上がる。
兄貴分の男と同じように、黒い糸のようなものが傷を覆い、異常な速度で傷をふさいでいく。
かぁぁ――
くふぁぁ――
傷を塞ぐだけに止まらず、男たちに生じた黒い糸は、まるで線虫が湧くように増殖していく。
それは蠕動するように全身に広がっていく。
「な、なんなんだよ、こいつら!」
それは蟲ではなく黒い毛だった。
黒く短い、獣毛のようなものが傷口から湧きだし、全身を覆うように包み込んでいく。
同時に、男らの身体に別の変化が現れていた。
めきめきと骨が軋み、肩を竦めるように背が折れ曲がる。頭骨が歪み鼻筋から顎にかけてが獣のように突き出す。
耳が尖り、興奮にめくれる唇からは、異様に尖った犬歯が覗く。
虚ろな眼から一転。その眼には狂犬にも似た黄色く濁った光が灯る。
「そうか、手前ぇら伏見丹を呑んでやがるな」
「ふしみたん?」
「お子ちゃまは知らねぇのか?」
柔志狼が面倒臭そうに舌を打つ。
「なんだと!」
「おい。ねぇちゃんは逃げな――」
沖田を無視して、柔志狼が振り返ると、そこに娘の姿はなかった。
「あらぁぁ?」
拍子抜けし、辺りを見回す。
「が、ガキは逃げちまったがぁ――お、おおぉめぇらには落とし前付けてもらうじぇぇ!」
三人が奇声を発しながら、一斉に襲いかかった。
「まぁいいや。こっちも手前ぇらに聞きてぇことができたしな」
柔志狼は獰猛な笑みを浮かべ、拳を握りしめた。
「待て!」
柔志狼よりも一瞬早く、沖田が奔った。
「その役目、市中警護を仰せつかっている新撰組に任せてもらおう!」
柔志狼を押し退け、飛燕の如き速度で沖田の剣が煌めく。
鎖骨を折られたはずの巨漢が、片手殴りに振るう剣を寸前で躱すと、沖田が横一文字に剣を薙いだ。
手加減はない。本身の刃が男の腹部を斬裂く。
掌に伝わる確かな肉の感触に、沖田の口角が上がる。
「口がきける奴は、一人で充分だよな」
返す切っ先が、次の獲物を求めて翻る。
だが腹を斬られた巨漢が、沖田に襲い掛かる。
「なに!」
疑問を感じる暇はなかった。
本能が咄嗟に身体をねじり、紙一重で剣を躱す。
速い――尋常ではない剣速の二撃目を、沖田は剣で受けるしかできなかった。
だが、その衝撃は凄まじく背中を塀に叩きつけられた。
「ぐぅ――」
予想以上に重い斬撃に受けた両手が痺れた。剣を落とすまいと指先に力を込める。
確かに、沖田の剣は男の腹を斬った。先ほどと違い手加減はない。とても反撃する余力などあるはずがない。
馬鹿な――と、沖田は男を見つめ、言葉を失った。
それはあまりにも常軌を逸した、奇怪な光景だった。
げひゃ、ひゃ、ひゃ――
巨漢は、沖田に斬り裂かれた傷からこぼれる腸を、自ら腹に押し戻しながら哂っていた。
「なんだ……これは――」
この世の物とは思えぬ光景に全身が粟立つ。
剣が……通じない――
沖田の脳裏に、昨夜の記憶が甦る。
足場を失い泥沼に沈んでいくような――なんともいえぬ不安感が腹の底から湧き上がる。
手足が冷たく痺れ、気が急速に萎えていく。これが恐怖というものだということに、沖田は気が付いていない。
「ぎゅ、ぎゅ。た、たたいしたもんぜょ。流石に噂の伏見丹。高いだけはあるきぃぃぃ」
唾を飛ばし、兄貴分が壊れた笑い声を上げる。
「し、しん、しんせン組だかなんナんだか、なんだかんだ、知らねねぇが、かまワねぇ殺っちまえ!」
その声に背を押され、禿頭と巨漢が沖田に襲い掛かる。
「しゃぁぁ!」
だが沖田とて、並みの剣士ではない。伊達に「天才」と評されるわけではないのだ。
身体に湧き上がる恐怖を吹き飛ばすかのように、裂帛の気合を迸らせる。
飛燕の如き沖田の剣が、この程度のことで精彩を欠く理由にはならない。
沖田が先に前に出た。
男たちの剣は空を切り、平青眼に構え直した沖田の剣が、ふたりの咽喉元を突き穿つ。
咽喉を突き破った切っ先が、正確に脊髄まで貫いた感触を、沖田は確信した。
だが、男たちの動きは止まらない。
それどころか、その動きはさらに凶暴になっていく。
異形と化した容貌と相まって、獣が爪を振るうかのようである。
その動きは出鱈目で、凄まじく速い。
「ば、馬鹿な……」
冷たい氷の爪が、沖田の心臓を鷲掴みする。
指先が冷たく痺れる。
沖田が初めて剣を志したのは、十にも満たぬころだった。
剣を持てば斬れぬものなし――そう確信したのはいつの頃であったか。
そんな沖田の剣が根底から揺らいでいた。
これが生まれて初めて感じる、恐怖という感情であることに、沖田は気づかない。
その瞬間、宙を舞う飛燕は地に落ちた。
人間離れした力で振り回される男たちの凶剣を、沖田は必至で避ける。
地を転がり、膝を着き、這うようにして避ける。
息つく間も与えず襲いくる妖異の剣に、沖田の心が無言の悲鳴を上げようとしていた。
その悲鳴を耳にしたら二度と剣を握れなくなる。
だから沖田は、必死でそれを噛み殺す。
しかしそれも限界だった。
塀に追い詰められると、剣を握る指先に力が入らなかった。
その時だった。
「働き過ぎだぜ、沖田クンよ」
まさに沖田に襲い掛からんとする異形の男らの背後に、柔志狼が立った。
突然現れた仁王像のような姿に、異形の男らが反応した。
その肩に柔志狼が軽く手をかける。
柔志狼を振り払おうと、異形の男らが剣を振り回した。
だが、それよりも一瞬早く、柔志狼の身体が沈んだ。
それと一緒に、男らの身体が押し潰されるように崩れていく。
男らの身体が、地面に叩きつけられた。
こぉぉぉ――
笛のような呼気が口から迸ると、柔志狼の全身から青白い燐光が吹き上がった。
「吩っ!」
柔志狼の両の拳鎚が、もがく男たちの頭部を同時に叩くと、不可視の火花が弾けた。
異形たちは大きく痙攣すると、全身からどす黒い体液を洩らし動きを止めた。
それと同時に、全身を覆っていた黒い獣毛も、ぞぶりと抜け落ちる。
瞬く間の出来事に安堵の溜息を漏らすも、沖田は気が付いていない。
「お前の剣は人を斬るモノだ。気にするな」
柔志狼が太い笑みを浮かべた。
さて――と、立ち上がり、柔志狼は残された男に向き直った。
「人を捨てるその薬。どこで手に入れたか、ゆっくり聞かせてもらおうか?」
怖い笑みを浮かべた志狼が詰め寄る。
「お、おおぉぉ、おい……は、は橋爪ぇぇ…か、加藤ぉお、ぉお――」
震える声で二人の名を呼ぶが、男たちは死んだように動かない。
「て、てテてぇ、てめえは、ナンな、な、何者ぜょ!」
「越中富山の薬売り――」
柔志狼が口の端を持ち上げる。
「で、誰から買った?」
先ほどまでの威勢は何処へやら。異形と化した男が、柔志狼に気圧されていた。無意識に脚が後退していく。
獰猛な笑みを浮かべ、柔志狼はさらに脚を踏みだす。
男がさらに後ろに退がる――が、
「きぃぃィいい!」
突如、怪鳥のような奇声を上げ、男が前に出た。
肩に刺さった剣を引き抜くと、出鱈目に振り回し柔志狼に襲い掛かる。
既に動かぬ二人に比べ、その動きは素人そのものだった。
とはいえ、その剣速は常人のそれを凌駕している。太刀筋の読めない分ある意味恐ろしい。
それに対し柔志狼は、落ち着いて剣を躱していく。
眼前を流れていく剣を、掌で下から突き上げた。
軽く叩いただけなのに、それだけで男の剣が弾き飛ばされた。
「あぁ?」
なにが起きたのか理解できず、男の視線が泳ぐ。
柔志狼は、男の頭と顎を挟み込むように掴むと、そのまま捻るようにして、地面に崩し落とした。
地に叩きつけられた男の頭部に、柔志狼が掌底を打ち下ろすと、不可視の火花が弾けた。
びくり――と、男が震えると、全身からどす黒い体液が漏れる。
柔志狼は立ち上がると、後ろで倒れている二人を顎で示し、
「あいつらより手加減してやったんだ、口くらいきけるだろ」
と、嗤った。
「――がぁ……だ、誰がぁ――ぐぶっ!」
身を震わせ、顔を背ける男に、柔志狼がさらに掌打を叩きつける。
すると男は苦しそうに顔を歪ませ悲鳴を上げる。
なおも容赦なく、柔志狼が掌打を叩きつけると、不可視の火花に焼かれたように、黒い獣毛が剥がれ落ちていく。
すると、漸く観念したのか。
「――は、は、葉沼屋……」
男が苦悶の呻き交じりに言葉をこぼした。
「はぬま屋?」
その言葉に、柔志狼は振り上げた手を止めた。
「おい!それはいったい――」
だが突然、柔志狼が弾かれたように身を転がした。
次の瞬間。
男の顔面に刃が突き刺さった。
華美な装飾の施された直刀。見慣れぬそれは、西洋様式の短刀《》だった。
それが男の眼と眼の間――眉間のやや下方に深々と刺さっていた。
男の身体は激しく痙攣すると、全身からどす黒い体液がを吹き上げ、糸が切れたよう動かなくなった。
「危ないところでしたね」
まるで詠うような美しい声色だった。
「誰だ」
ゆっくりと、柔志狼が振り返る。
沖田も立ち上がる。
路地の入口に、闇に溶けゆく夕暮れよりも、なお黄昏る影法師がふたつ。
それは先ほど、京都所司代を連れ立って山南の前に現れた、天羽四郎衛門とその従者である武蔵だった。
武蔵のその手には、男の顔に刺さっているのと同じナイフがあった。
何故だ。
柔志狼や、この男のナイフは異形の男を倒すことが出来るのだ——眼前に現れた男たちの正体よりも、千々に乱れた自尊心と喪失感が、沖田の心を掻き乱す。
「礼を言った方が良いのかな?」
そんな沖田の心中を知るよしもなく、柔志狼が嗤う。
「礼など及びません。むしろ、礼を言わねばならぬのは、こちらの方ですから」
幽鬼の如き白い影が、ゆるりと歩み寄ってくる。
三歩引いて、武蔵の巨体が付き従う。
清廉な白い華と獣臭漂う獣――なんとも対照的な二人である。
「はて? 初対面だと思うんだけどな。礼を言われる憶えはないぜ」
柔志狼が首を傾げた。
「その通りです。我々は初対面だと思いますよ」
天羽が天女のようにほくそ笑む。
「なら、どういうことだい?」
天羽が視線で示すと、武蔵が僅かに横に動いた。
「無事だったのか」
そこには、あの娘が立っていた。
「良かった……」
と言いつつも、柔志狼の顔には今までにない険が浮かぶ。
荒い息遣い。
上気した頬。
蕩けるように潤んだ瞳は、淫蕩に堕ちる欲情のそれ。
「その娘になにをした」
ぎり――と、先ほどよりも異様な娘の姿に、柔志狼が奥歯を噛みしめる。
ぞわりと、鉛のように重い殺気が、柔志狼の肉を満たしてゆく。
「この娘――蓮は私どもの連れなのです。今朝がたより行方が分からなくなり、探しておりました」
天羽が微笑した。
「見つけていただいたうえ、暴漢から助けていただいたのです。私が礼を申すのは当然のことでありましょう」
柔志狼の殺気を微風と受け流し、微笑するその顔は白蛇の如く無機質だった。
「ちっ」
柔志狼が舌を鳴らし前に出る。
それに対し、天羽を庇うように武蔵が前に出た。
猛る獣のような強烈な殺気の壁が、柔志狼に立ち塞がる。
「面白ぇ――」
それに呼応するように、柔志狼の氣も膨れ上がる。
二人の殺気がぶつかり合い、眼に見えぬ火花を散らし始めた。
じりじりと、空気が焦げ付きそうなほど高まる緊張――その時だった。
「い、いかがなされましたか――」
天羽たちの背後――路地の入口から、場違いなほど能天気な声が近づいてきた。
息を切らし、慌てて走り寄ってきたのは、京都所司代の北原だった。
「天羽殿。いか……如何がなされた。おお、お探しだった娘御とお会いできましたか」
肩で息をし、この季節だというのに顔には大粒の汗をかいている。
察するに、天羽らを見失い、血相を変えて探していたのだろう。
「やや、これはなんと!」
地に転がり、どす黒い血にまみれた男たちと、顔面に深々とナイフを突き立て死んでいる男を交互に見ると、
「貴様ら神妙にいたせ!おとなしく縛につき、お裁きを受けい!」
と、腰の刀に手をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
沖田が慌てて前にでる。
「ん?なんじゃお主は」
沖田の顔をまじまじと見つめる。
「おおぉ。これはこれは、新撰組の沖田殿ではないか。何故このようなところで?」
北原が目を丸くする。
「山南殿といい、今日は奇妙なところで新撰組の方々と出くわすもんじゃの」
「北原さん。あなたこそ、どうしてこんなところに?ねぇそれより今、山南さんといいましたよね」
沖田が詰め寄る。
「どこで会ったんです?ねぇ教えてくださいよ」
いつもなら、京都所司代の北原は苦手なのである。だがこの時ばかりは、その存在に沖田は藁をもすがる思いだった。
自覚はこそ無かったが、このあまりにも現実離れしたな状況に、沖田は疲れ切っていたのだ。そこへ、山南の名を聞き、あまりにも人間臭い北原の存在が、沖田に生を実感させたのだろう。
「北原殿。こちらの方々は、この下郎たちから蓮を助けてくださったようです」
そうですね――と、天羽の言葉に、蓮と呼ばれた娘は身を震わせ頷いた。
「そ、そうですか。だがこの状況はあまりに……」
無残にも動かぬ三人の男たちを前に、神妙な面持ちの北原は、沖田に助けを求めるように視線を送る。
「その娘さんが襲われそうになっていたので、私たちが助けに入ったんですよ。見れば分かるでしょ」
沖田が面倒臭そうに言い放つ。
「その御方が危なかったので、ナイフは武蔵が投げたものです。幸いにも倒れている二人はまだ息をしています。我らはこの御仁に感謝こそすれども、非を責めるべきはありません」
剣の柄を握る北原の手に、天羽が白い掌を重ねた。
「そ、そう、仰るなら……沖田殿、相違ないのですな」
沖田は頷くしかない。
「その方、大義であったな。もう行ってよいぞ」
渋々とではあるが、柔志狼に顎で促す。
「ふん。そりゃどうも」
納得いかぬと、口の中で呟く北原に、柔志狼は呆れたような一瞥をくれる。
「またな。沖田クン」
すれ違いざま、沖田の胸を拳で叩いた。
「――――」
次に柔志狼は、憐憫を込めた視線を蓮に向けた。
だが次の瞬間、天羽に向けられた視線には、先程にも増した殺気が籠っている。
天羽は微動だにせず、それを静かに受けている。
そのまま、天羽の横を通り過ぎようとしたとき――
「面白い技を御使いなのですね」
と、天羽が言った。
「あんた等ほどじゃない」
「宜しければ、お名前を教えていただけませんか」
怖いのですか――と、遠くを見つめ、天羽がほくそ笑む。
「葛城柔志狼だ」
ふん――と、柔志狼が鼻を鳴らす。
「憶えておいても宜しいですか」
「好きにしな」
手前ぇは――と、柔志狼が聞き返す。
「天羽四郎衛門と申します。横濱で『ベタニア商会』という貿易商を営んでおります」
お見知りおきを――と、天羽は微笑んだ。
「憶えておくぜ」
吐き捨てるように言う柔志狼に、未だ武蔵が牙を突き立てるように殺気を向けている。
「その者は武蔵。私の忠実な従者です。是非お見知りおきを」
「危なっかしい犬っころだな。きちんと縄で繋いどけ」
「二人は気が合いそうだと思うのですがね」
柔志狼と視線を合わせず、天羽は蓮の顎に指を絡める。
紅く濡れる蓮の唇を割って、天羽が白い蝋のような指先を捻じ込む。
その姿を尻目に――
「胸クソ悪いぜ」
強烈な殺気を纏い、柔志狼の背が遠ざかっていく。
沖田はそれを黙って見送るしかできなかった。
「ささ、天羽殿。もう遅うございます。蓮殿も見つかった事ですし、宿の方へ戻られませんか」
北原が促す。
「沖田殿、この場を暫しお願いできませぬか」
部下を呼んでくる――と、北原が走り出した。
「ちょ、ちょっと北原さん!」
正直、この世な場所は一刻も早く立ち去りたい。だが、沖田の返事も待たず、脱兎のごとく走り出した北原に、沖田は諦めるしかできない。
「悩み事ですか」
そこへ突然、声がかかった。
「えっ?」
沖田が顔を上げると、眼の前に天羽の顔があった。
「なにか強い迷いが御ありのようですね」
天羽が微笑する。
「あなたには関係のない事です」
腹の中を見透かされた様な気恥ずかしさに、沖田が視線を背けた。
「このような形で出会ったのも、なにかの御縁――宜しければお力になれるかもしれません」
背けた視線の先に、動かぬ男の額に刺さったナイフがあった。
「――の――を宿に、今しばらく逗留しております。宜しければいつでもお尋ねくださいませ。きっとお力になれると思います」
「えっ?」
沖田は顔を上げた。
眼の前で微笑む天羽の顔は、穢れの無い無垢な赤子のようだった。
だが、沖田は気が付いているのだろうか。
天羽の瞳――本来、黒くあるべき虹彩が白銀に輝き、白眼は墨を流したように黒く染まっていることを。
「――あ、ありがとうござ……」
天羽の浮かべる魔性の微笑に、沖田はぞろりと、引き込まれそうになる。
その時――
「――お待たせいたしました!」
北原が部下を連れ戻ってきた。
その声に、沖田が我に返る。
「い、いや、大丈夫。結構です」
毅然と言い放つと沖田は、足早に天羽の脇を通り過ぎる。
「沖田殿?」と、北原が声を掛けるが。
失礼――と、素っ気なく言い放ち、沖田は路地を後にした。
「お待ちしておりますよ――」
その背に向かい微笑む天羽の瞳は、常人と変わらなかった。




