衝撃! 初めての看護学校、山奥の寮!!
私は准看護師の専門学校に行き、資格を取得したのち正看護師の専門学校に行きました。
というわけで、まずは今回から准看護師の専門学校に行っていたときの経験を書こうと思います。
私の入った学校は中学校を卒業したばかりの子たちが多く入る学校でしたが、当然中には社会人や自衛隊の人もいました。
ちなみに、男性はクラス人数の一割と制限されていて、四十人中四人が男子学生でした。
学校は全寮制で主婦や主夫など、どうしても寮に入れない人を除いて寮に入ってました。
寮は山奥にあって部屋にテレビもエアコンもなかったので、家から通う人をとても羨ましく思ったのを覚えています。
ちなみにテレビは食堂に一台だけありました。当然部屋に個人のテレビを持ち込むことは禁止です。
エアコンに関しては扇風機はオーケーだったので、毎年夏は扇風機で過ごし冬はヒーターで過ごす毎日。
あの当時に戻れと言われたら泣きます。
学校側も親から大切なお子さまを預かっているので、しっかりと管理していて寮管が常時寮に滞在していたし、寮から学校までかなり距離があったので送り迎えはマイクロバスでした。
学校帰りの外出をする時は、外出届をださなければいけません。
毎日十九時には食堂で終礼をするので、その時間が実質の門限といった感じ。
週末は届けを出せば家に帰れたのですが、私は家から数百キロ離れた学校に通っていたので、年に一度しか帰りませんでした。
要するに、一番青春したい時期に勉強しかできない環境に置かれたわけです。
結構つらかったですね。
でも基本先生たちも寮管さんもとても優しかったので、少し遅れてもそんなに強く怒られたりはせず、それでなんとか過ごすことができたという感じでした。
ちなみに、食事は三食付。
朝はパンと牛乳。昼は空のお弁当箱を夜に食堂に出しておくと、朝学校に行く前には詰めてくれます。そして、夕食は寮にある食堂で食べる感じです。
ところが、です。
朝食のパンは夜のうちに配られるのですが、夜中にお腹が空いてそれを食べてしまうことがよくありました。
で、翌日どうするかというと、昼までにはお弁当箱を早弁。そして、昼間はほか弁で弁当を頼むという育ち盛りあるあるな生活を送ってました。
この頃かなり太りました。
学校併設の病院には系列の施設が三施設ほどあって、寮の近くにあったのは精神科でした。
寮の窓を開けると向かいに鉄格子のついた窓が見えてる感じ。
今考えると、本当に凄い環境ですね。
「看護婦さん! トイレットペーパー持ってきて!!」
食堂に行こうとするとそんなふうに声をかけられたりするわけです。
もちろん、病院なのでちゃんとトイレットペーパーは備えてあります。なのにそんなことを言われ、最初のうちは戸惑ったものでした。
なにかしら声をかけたかったのだろうと今は思います。
最初はとんでもない場所に寮があって嫌だと思ったりもしたのですが、ちゃんと勉強するにつれてやみくもに怖がることもなくなり、気がつくとそんな環境にも慣れてしまいました。
慣れって恐ろしい。
さて、学校の方ですが、私の通っていた学校は週の三日が座学、他の三日が系列の病院で助手として働かされました。
もちろんちゃんと賃金も発生します。
ちなみに学校によっては、午前中が病院で働いて午後から学校。なんてところもあるようです。
最初の一年はそうして隔日で学校で学びながら病院で働き、まずは基礎をしっかり覚えました。
この頃はなにもかもが新鮮でした。
目の前で看護師が器具を使ったり、処置をしたり、そんなことも興味津々で見ていたのを覚えています。
そのかわり、一番下っ端なので汚い仕事はかなり押し付けられてましたけど。
当時はオムツが布でした。布オムツって再利用なので、汚物が付いたら洗濯に出す前にぶつを流して落とさないといけないんですよね。
それを洗い落とす当番があったのですが、よくやらされてました。
昔の話なので、今ではこんな病院ないと思いますが、そんな時代だったんです。
それでも、若かったせいか一部の先生や看護師さんからはとても可愛がられました。
それについてはありがたいことだったと、今思い出してもほっこりします。