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宗教

宗教


 元々記憶力が弱いうえに、どんどん記憶が薄れていきます。小学5年の頃、父が病気で亡くなったが、父の事を殆んど覚えていない。それより前の事が思い出せない。

母はいつも足が痛いと嘆いていました。大きな庄屋の屋敷に沿って路地の奥に3軒の家があり、我が家は<おんも>に近い側でした。真ん中の家の前に井戸があり手動のポンプが付いていました。中の家が向かいに作業場を増築して、屋根で繋いでいました。井戸はその屋根の下にありました。母の話では水汲みに行った母の足の上に、屋根の上から軍靴を履いた中家の主人が飛び降りて来たとの事だった。母の足先は複雑骨折をして治らず、仕事も出来なくなり、痛みも取れなくなった。

「こんなに苦しんでいるのに、隣の主人は謝る事もしない」が口癖だった。

私は事故がいつの事か、屋根がいつ付けられたのか、おそらく松葉杖の頃があったと思うのだが、全く記憶にない。記憶にあるのは、既に我が家以外は水道を使っており、我が家だけがその井戸を使っていて、高校を卒業するまで、嫌な思いをしながら水汲みに行っていた事である。

私は卒業すると大坂の会社に就職をしてその寮で暮らすようになったが、母1人その後数年その生活を続けました。

 そんな母がいつ頃からか、宗教に専念するようになりました。足が悪いにも関わらず、<お山>に登る修行をしました。その内「私が拝んでおいたから台風は逃げて行った」等というようになりました。そんな言葉が出ると私は大声を出して怒りました。

 私は昼は働いて、夜は大阪市立大学に通いました。学生間では宗教が論争になっていました。

<神が人間を作ったのか、人間が神を作ったのか>です。いわゆる唯神論か唯物論かです。私は哲学の勉強をする前に既に唯物論者でした。

少し深く掘り下げた言い方をすると<幸せとは幸せな状態が存在し、それを高度に進化した脳細胞が幸せと認識する>です。

 学費は会社に出して頂いていた為、少し余裕が出来ると未だ学生の時に寮を出て母を大阪に呼び寄せました。その後母が死ぬまで親孝行はしたつもりですが、相変わらず宗教では口論になりました。

母が死んだ後、もっと親孝行をしておけば良かったと悔やまれます。私がすべきだったことは、宗教で口論をせず、その時優しく接する事だったのです。母には宗教が必要だったのです。

<なあ~んや>は後の祭りです。



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