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女闘士の死

女闘士の死


 2007年11月女闘士が壮絶な死を遂げた。早すぎる死であった。それより数ヶ月前に妻が不治の病であると息子から知らされた。入退院を繰り返していたがいよいよ最悪状態になっている。落ち着いたら面会して貰うと言う事で、連絡を待っていた。

 妻とは別居した後、私の母の葬式の時に1日同席してくれたが、その後会っていなかった。酒店の代表者を妻にしていたが、妻の会社であった訳ではなかった。非常時であったとは言え、妻が勝手に処分して良いものではなかった。私はその事に腹を立てていたが、妻は私が家庭に責任を持っていないので腹を立てていたようだ。それまでも別居は経験していたので、お互い落ち着いたら元に戻るだろうと思っていた。

 しかし妻には2億円の連帯保証人債務が有った。2人で弁護士と相談した時は、「個人経営者の場合、慣習的に奥さんが連帯保証人になるが、補償能力が有って保証人にしているのではないので、気にしなくて良い。暫らくは請求書が郵送されるけれども、無視して置けば良い」との説明であった。しかし、別居した妻は請求書に接し、1人で悩み、無視出来ず、別の弁護士に相談した。この弁護士が正反対のアドバイスをしたと思われる。つまり、放っておいたら大変なことになるという方向である。その為妻の方からの歩み寄りの道を閉ざしてしまった。

私の方は、結局金の問題だから、金銭的余裕が出来れば、感情的問題は解決すると思っていた。しかし、その機会は訪れる事無く、病院で再開する事となった。

 別居中の15年間、妻は職場では男顔負けの働きをして、その為に2人の男性が辞めて行ったと耳にした。社会運動にも活躍をし、ボランティア活動もしていた。仕事の方ではある悪意の住宅購入者と会社の存続をかけて裁判闘争も続けていたようである。病との闘いは何時頃からしていたのか不明であった。職場では、渉外、コンピューター操作、経理、裁判等を担当していた。彼女の病気の進行が余りにも早かったので、引継ぎが出来ず大変だった様である。そもそも事務所内に引き継ぐ相手もいなかった。椅子に座る事も出来なくなった彼女を椅子の背もたれにくくりつけ、引継ぎ業務をしたとの話である。

その後入院をして、未だ指が動いている間に色鉛筆で絵を描いた。指も動かず、目の焦点も合わせられなくなって、末期患者を受け入れる淀川キリスト教病院に移った。

 

 私が会った時の彼女は既に身体は殆ど動かせる所が無く、口も殆んど動かなくなっていた。モルヒネによって幻影を見ると意味不明の言葉を呟いた。耳は未だ機能していた。付き添っていた息子が「お父さんが来たよ」と妻に言うと、判っていて、動かない身体を動かそうとした。

私が「子供達のお父さんが来たよ」と言うと「夫やろ」と元気な声で言った。妻は、学生運動をしていた頃、仲間の間で流行っていたロシア民謡が好きだった。息子が「お父さんが昔歌っていたロシア民謡を歌ってやって」と言ったので、私は「歌っていいか」と訊いた。妻はかすれ声で「いいよ」と言った。

 私はいくつか歌を歌って、息子と話をして、妻は一生懸命それを聞いていたが、音を聞き分ける為に大変なエネルギーを使ったようだ。私は帰る時に「早く元気になりや」と言ったら、妻は「ふん」とプロポーズの時と同じ返事をした。それが最後の言葉であった。

その後又病院に行った時は、もう言葉も出せなくなっていた。

 息子は結婚していて長男が生まれた。嫁と赤ちゃんが退院して来て妻に孫を見せた。孫を見た妻は安心して息を引き取った。若く結婚していた長女は未だ子供は授かっていなかった。遠方で暮らしていたが、1ヶ月近く妻の家に泊まり、そこから病院に通っていて妻の最後に立ち会った。


 葬儀は無宗教式の社葬で盛大に行われた。3ヶ月の末期的闘病中に描いた色鉛筆の絵は立派な絵本に製本されて、数百人の参列者に配られた。

 私達は15年間、連絡も取らないまま、お互い自分の人生を歩いた。妻の生活は殆んど知らないし、時々会う息子からも聞かなかった。しかし、妻は私に気兼ねする事無く、やりたい事を目一杯やったと思う。又、そうであったと思いたい。いろんな病名を持ち、生き急いだと思われるが、生きている間にやった行為は少なくなかった。母の闘病生活に1番密着して苦労した息子には悪いが、私は何もしていない。病院で再開した時も、痛みも悲しみも伝わらなかった。普通の日に戻った家族団欒の一時の様だった。

 妻が死ぬ前に残したかすれ声の「いいよ」の言葉は<エンタの神様>で人気のフランチェーンの「いいよ」に似ていた。今でも一緒に思い出す。

「なあ~んや、お父さんは呑気やなぁ」と言われそうだ。

 その後間も無く娘に長男が生まれた。まるで生まれ変わりの様なタイミングであった。



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