新年会
新年会
昭和年号が終了することになった1989年1月7日の事である。
私の会社は初出の日であった。私は新聞もテレビも見ずに会社に出ると、社員が「天皇が亡くなって、今日はおめでとうと言ったらいけないんだって」と言った。
私はニュースを見ていなかったので、世間の雰囲気が全く想像出来なかった。何件か取引先の社長に電話で新年の挨拶をする中で、少なくとも天皇が亡くなったのは実感できた。
そして、知り合いのコンパニオン派遣会社の女社長に電話した時、「もう大変、朝から新年会の予約のキャンセルの電話が鳴りっ放しで、女の子にキャンセルを伝えるのに必死なのよ。100人以上のコンパニオンを手配していたのよ」と、悲鳴を上げた。
「よし、私がキャンセル1つ引き受けようか?」と訊くと、「お願い、助かるわ」と言った。
打ち合わせの結果、ある有名料亭の20人用の部屋でコンパニオン4人付きの予約を引き受けることにした。
私は出社する前には、新年会の事は考えていなかったが、「今日新年会をしよう」と社員に提案した。5名いた社員が口々に「止めた方が良いですよ」と言った。
私は戦争を経験していない。しかし私達一家は戦争の被害者だと思っている。その戦争は軍部と財閥が天皇を担いで行ったと理解している。自粛せよと言っているのは天皇ではない。またぞろ天皇を利用しようとしている人達が音頭を取っているに違いない。私は子供の頃の事を思い出した。
地元から大臣が出た時にちょうちん行列をした事を。何も知らない私も日の丸の小旗を持って並んだ事を。その時の思い出が、大きくなってからテレビで見た出兵のシーンに似ていると思った事を。
私は<右にならえ>が良いとは思えなかった。
やると決めた事はやる。
私は新年会の案内をファックスで出し捲った。
6時から始める新年会への出席者が20人になったのは、出発リミットの5時丁度だった。
料亭に集まった20人の内、半分は知っている人ではあったが、いつものメンバーではなかった。半分はその人達が1人ずつ連れてきた全く知らない顔ぶれであった。スポーツ新聞社、外国の航空会社、その他、勤務先が風変わりな肩書きの持ち主ばかりだった。
「今日の新年会がどんなものになるか興味が有って来ました」
皆がこんな挨拶をした。
料亭からは新鮮な魚の食べ放題メニューが特別価格で提供された。
お上さんは言った。
「明日になると新鮮さが落ちますし、明日もどうなるか分かりませんので遠慮なく食べてください。追加は自由におっしゃって下さい」
私達は特別な話をし合った訳ではない。
只、必死に美味しい料理を食べて外に出た。すると、未だ夜の8時を過ぎただけにもかかわらず、<南>の繁華街は全く灯が消えていて怖いほど暗かった。殆んど人も通っていなかった。おそらく普通の日の深夜2時よりも暗かったと思う。
私達は2次会の出来る店を探した。するとスナックビル特有の派手な看板灯の灯や廊下灯も消してある暗いビル内の一角に灯りが見えた。ドアを開けて室内の灯りを外に漏らしていたのだ。
入ってみると10人位の女性が固まって話をしていた。私達は10名位に減っていたが、中に入っていくと大歓迎された。国籍は訊かなかったが外人の店だった。
「なんで私達こんな仕打ちされないといかんの」
彼女達の第一声だった。私達は朝まで特別価格でドンちゃん騒ぎをした。終電が過ぎるとタクシーもないと思われた。
後日、多くの人にその日の行動を訊いて見たが殆んどの人が、特別に喪に服した訳ではなく、只、何もしなかっただけとの返事であった。
「なあ~んや、何かをしたのは私達だけか」と思った。
私にとっての昭和が終わった。




