運送業
運送業
小料理屋の店主は運送会社の社長になることを希望した。以前運送業を経営しており、荷主は沢山あるので、廃業を希望している会社を買い取りたいとの依頼だった。
私達は不動産以外の仲介はした事が無かったが、この依頼にも応える事が出来た。K氏は新しい社長に就任し、4トントラックのロングボディを10台新車で揃えた。新しい配送センターと事務所の賃貸契約も仲介した。各々の仕事に私達は手数料を貰っていたが、今度は運転手10人を世話してくれという注文であった。
「え!そんなことまで私達に頼むのか」と思ったけれども、乗りかかった船だと引き受けた。
私達は新聞で募集し、私達の事務所で面接をして10人の運転手を採用した。もうこれが最後の仕事と思っていたら、荷主が1社も現れなかったのだ。
<この社長は狂っている>と思ったが後の祭りだ。
運転手は私達の信用で入社している。今更後には引けない。K氏は私達に今度は荷主を世話してくれと依頼した。泥沼に入っていく予感がした。
それでも今までの難しい注文を全てクリアした自信もあった。私は5~6年前に知り合った社長A氏に相談した。A氏は以前私が土建業の現場管理をしていた頃知り合った建築資材の運送屋の社長だった。現場で事故に遭遇して、立場は違ったが共に問題から逃げずに解決したことから意気投合した仲だった。
A氏は言った。「この世界は昔は雲助と言って、独特のやり方をしないと前に行かない。徹底して接待攻勢をかけるしか方法が無い。しかも、上手く行っても欠員が出た時にしか使ってもらえない。私が手伝ってやるから言うとおりにするのだ」
それから毎晩A氏は中堅企業の配送係を呼び出した。殆どの場合2人組でやって来た。こちらはA氏、Uさんと私の3人だ.Uさんは運送業に関する仕事の頃から、新しく加わった営業部長である。
3人は土、日曜日も休まず毎晩新しい相手と飲み歩き午前様になった。当時、他にもう1人女性従業員が増えていた。蓄えは全く無かったが勢いがあるので何とかなると思っていた。K氏の依頼はUさん迄巻き込んで行き、私達は午前様の世界にどっぷり漬かるのであった。この頃の話は次の項で語るとして、私の知らない所で被害が出ていた。
私が毎晩午前様になっている間、毎晩小料理屋でもがいているK氏の息子が私の妻に対して毎夜悲鳴の電話をして、毎夜の様に妻を店に呼び出していたのだ。K氏の息子は<客が全く来ない恐怖><用意していた食材を破棄する恐怖>に怯えていたのだ。その事は妻が入院する迄知らなかった。妻は精神的にも肉体的にもボロボロになって私を恨んだ。私は何が有ったのか訊かなかった。妻も言わなかった。既に59歳で他界しているので、訊く事も出来ないが、当時は事件が有りすぎて何を訊いて良いかも判らない状況だった。本当に妻には苦労をかけて、申し訳なく思っている。
さて1ヶ月ほど経つと効果が出てきた。少しずつ運送の注文が来るようになったが、未だ十分ではない。結局3ヶ月ほど午前様は続いた。その結果やっと10台のトラックはフル稼動することになった。私は内心<なあ~んや、こんな事迄出来るんや。どこにこんな難しいこと迄やってのける不動産屋があるだろうか>と思った。
ところが話はここで終わらない。
「この仕事はこれで終わりにしよう。もしK社長が金を都合してくれと頼んで来ても絶対に断ろう。もう土地を売った金は底を尽いている筈だが、ここから先は絶対経営者の仕事だ」
私は営業部長のUさんに言った。
「実はもう3000万円を貸しています」
私は愕然とした。
聞くと、偶々Uさんは遺産相続を受けて金を持っていた。K氏はガードの固そうな私に内緒でUさんに金策を頼んでいたのだ。
「もっと早く注意をして置けば良かった。3カ月位のもたつきの間に資金が無くなっている事は想像できたのに」
私はUさんに謝った。
後悔してももう遅かった。
「K氏に経営者としての能力は無い。共同経営者になって金を取り戻すしかない」
私はそう言って、Uさんに運送屋の共同経営者として専念する為に退社させた。その後数年間、運送業は上手く行っている様で、彼はゴルフに明け暮れていた。しかし、それは夜の接待が昼に替わっただけの様だ。数年経って私達の会社が安定し、10人位の規模になった頃、A氏が訪ねて来た。
「運送屋は倒産して自分は4500万円の不渡りの被害を被り、その為に社長を退く事になった。自らの判断でした事だから、誰にも責任は無い。今度建設会社を立ち上げたので協力してほしい」
彼の言葉に私は協力を誓った。
ある大地主の相続人の間で、兄弟たちは各々事業者として成功する中で、1人だけ落ち毀れて行ったのだ。相続した土地を次々に売りながら、事業者の肩書きにしがみ付き、ついに何も無くなった。多くの犠牲者が出た。




