【第2話】婚約者と友人の変化
翌朝、家を出たアリスは昨日同様に驚愕に目を見開いた。
何故なら自宅の前に、昨日乗った伯爵家の馬車が止まっていたからだ。
アリスに気づいたディランが、甘いマスクに優しげな微笑みを浮かべつつ馬車からおりてきた。
朝の陽の光を浴び、ディランの金色の髪はキラキラとしており、濃紺の瞳が映えていた。
(こうして見ると、本当に王子様みたいな人ね)
それはまるで、紙の絵本の世界に描かれたものを見ているかのような気持ち。
アリスは、嬉しいというよりも、何かの作品を見ているような感覚になった。
「おはようアリス。迎えに来たんだ。一緒に登校しよう?」
するりと差し出されたディランのたおやかな手。
それを咄嗟に、少々気持ちが悪いと思ってしまう自分にアリスは気づく。
それは、生理的な嫌悪感というよりは、苛立ちとか呆れに近い感覚。
ゆるりと細められた紺色の瞳も、弧を描く口元も、爽やかに整ったその容姿も、その全てに、驚くほど心が踊らない。
今この瞬間のシチュエーションは、数ヶ月前まではあんなに憧れていたもののはずなのに、むしろどう切り抜けるべきかばかりを考えてしまう。
案外自分は、ドライな性格なのかもしれない。
「婚約解消の件でしょうか?」
「婚約解消は、しない」
薄らと笑顔の仮面を貼り付けて、アリスは問う。
しかし、秒で否定されて思わず黙る。
つまりそれは、昨日の会話が1ミリも刺さっていないということか。
「では、どういう風の吹き回しでしょうか?」
「君が急に私を避けるから、何かあったのかと心配になった」
「気にかけていただきありがとうございます。ですがご心配には及びません。何もありませんでしたので」
「ではなぜ?」
「昨日申し上げた通り、何もなかったからです」
空色のビー玉のような目で、能面のような笑顔をペッタリと顔に貼り付けたまま、アリスは淡々と答える。
遠くからディランを見つけては、キラキラした目で幸せそうに微笑んでいたアリスはもういない。
ディランはその言葉の意味を汲んだのか、うっ、とバツが悪そうな表情を一瞬だけ滲ませた。
「とりあえず学園へ行こう。馬車に乗って?」
「かしこまりました」
形式的には、正式な婚約者同士である。
男爵令嬢のアリスは、伯爵令息のディランの言葉を無下にすることはできない。
アリスはスンと表情を消し、事務的に馬車に乗った。
「それで?」
「?」
「いや、これからどうするのかな、と思って。
昨日二人で下校してから、今日、学園に来るまでの話を聞く限りでは、ディラン様に婚約解消を願い出たけどスルーされている上に、現状維持すら超えてきてるよね?」
購買で手に入れたサンドイッチのランチBOXを手に、アリスとクララは中庭で寛いでいた。
「そうね、どうしようかな。
だけど今、不思議なくらい気持ちが落ち着いてるの」
困ったように、だけど可笑しそうに言うアリスは、好きな人に構われて嬉しいという風には見えない。
クララは、おや、と思う。
「アリスは、ディラン様が好きなのよね?」
「うん。好きだったと思う」
「もう過去なの?」
「多分。昨日の馬車の中で、私の中では終わった気がする」
「なるほど。待ち続けた結果疲れて冷めたから、今更ご機嫌取りされても不気味、みたいなところね」
「……まぁ、合ってると思う」
だけどその表現はなかなかどうかと思う、とアリスが言葉を付け足して、不服そうに唇を尖らせる。
アリスはジト目でクララを見て、二人の視線が絡まり合う。
そして、ほぼ同時に思わず吹き出した。
「あー、なんかスッキリした!クララ、色々ありがとう」
「どういたしまして。だけど私は何もしてないわよ。側で話を聞いただけ」
空色の瞳にピンクブロンドの小柄で可愛らしい男爵令嬢と、琥珀のような瞳に漆黒の髪を持つスラリとした長身の子爵令嬢が笑い合う姿は微笑ましく、そして華やかで、同じく中庭にいる学友の目を引いていた。
「そうかもしれないけど、一人じゃこんな風に笑えなかったと思うから。本当にありがとう、クララ」
どこかつっかえが取れたような清々しい笑顔で、アリスは友人に礼を述べた。
その柔らかな表情に、ああもうすっかり吹っ切れたのだなと、クララは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、アリスはもう、ディラン様のことは終わりでいいのね?」
「ん、終わりでいい。自分でも不思議なんだけど、あんまり悲しくないの」
「そう。――ねぇ、本当に婚約解消になっても後悔しない?」
不意に真面目なトーンで、クララはアリスに問うた。
クララの、濃い蜂蜜を溶かしこんだような琥珀色の瞳には、どこか真剣な色が滲む。
優しい友人に感謝を込めて、アリスは綺麗に微笑んだ。
「しない。私にはクララがいれば大丈夫よ」
何の躊躇いもなく、するりと形の良い唇から紡ぎ出された言葉に、クララは思わず息を呑む。
「本当に?本気で言ってるの?」
信じられない、と思いっきり顔に出ているクララ。
それはまるでアリスが想像していた母親のような反応で、アリスは少し申し訳なくなった。
因みに、昨夜の段階では、まだ両親に婚約解消をディランに申し出たことは話せていない。
話せていないがしかし、ディランとうまく行っていない、というか、何一つ変化していないことは両親も気にしてはいた。
とはいえ、婚約をなしにすると自分が言えば、恐らくはこのようなリアクションになるだろう、というのは想像できた。
「本当よ。だって、実質的には今までと何も変わらないでしょう?クララが一緒にいてくれるだけで、毎日十分楽しいもの」
アリスは、どこか照れたように口を尖らせて言う。
優しい空の色をした、大きくて真っ直ぐな目。
クララは眩しそうにアリスを見つめた。
「そう。わかったわ」
不意に、何かを決意したような、強い光を湛えた目つきになったクララを、アリスは不思議そうな顔で見つめ返す。
「クララ?」
何でもない、と言う代わりにクララは首を横に振る。
その表情は、優しい笑顔ではあったが、どこか物憂げで、切ない色を隠しきれていない。
アリスは気になりつつも、深くは聞かなかった。
「なんか、心配かけちゃってごめんね。
と言っても、ディラン様から婚約解消してくれそうな気配はないし、クララの言う通りなの。
これからどうしたらいいのかなぁ」
アリスは、ため息を吐きながら青い空を見上げた。
そんなアリスの横顔を、クララはどこか思いつめたような顔で見ていた。
*****
それから1週間、ディランとの婚約解消の兆しは一向にない。
アリスには引き続き正式な婚約者のお迎えを拒否できる合理的な理由がないため、ひたすら透明になりながら、なるべく存在感を消して、ディランに毎朝学園までエスコートされる日々を送っていた。
数日前など、ディランは3年生なのに、アリスのいる2年生の教室までついてこようとするから、それは流石に固辞した。
帰りも正門前で待ち伏せしているから、ディランを避けるべく正門ではなく裏門から下校するようになった。
学年が違うためディランと終業時刻が異なることが多いのだが、伯爵家は正門のすぐ側まで馬車をつけられるので、お付きの者に見つかるのを避けるためだ。
上記のようなルーティンの結果、アリスは目立ってしまった。
よってここ数日は、2年間で収まりを見せていた嫌がらせが、見事に息を吹き返しつつある。
正直しんどい。ディランのファン怖い。
アリスは、学園に行くのが日々憂鬱になりつつあった。
「ただいま戻りました」
自宅である男爵家の屋敷の玄関ホールを抜けようとしたところ、アリスの帰宅を知ったアリスの父が執務室から慌てて駆け下りてきた。
「アリス!大変なことが起こったんだ!!」
ワナワナと震えながら父がアリスに突き出したのは、一通の書面。
ぱっと目に入ったのは、右下のサイン。
そこには、王族に次ぐ高位貴族であるウェールズ公爵の名前があった。
(あれ?ディラン様のお父様なら、マルセル伯爵になるはずなのに?)
アリスの頭の中に、疑問符が浮かぶ。
これはもしかして、ディランとの婚約解消の書面とは別物ということか。
「今日届いたウェールズ公爵からの手紙に、
『マルセル伯爵とはもう話がついているから、ウェールズ公爵の三男との婚約を検討してほしい』
と書いてあるんだ!」
「……は?」
「しかも!明日の午前中に御本人が挨拶に来るだと!?一体、何がどうしてこうなったんだ……!」
ムンクの叫びのような状態の父。
騒ぎを聞きつけて部屋から出てきて一瞬真っ白になった母は、こうしてはいられないわ、と呟き、明日の午後の公爵家襲来に向け、使用人と共に準備に走り回る覚悟を決めたようだ。
アリスの生家である男爵家には、ウェールズ公爵家との接点はない。
だがしかし、ディランとの婚約が決まった時も、今回同様にマルセル伯爵家から突然申し入れが来た。
その時は、アリスにディランとの一応の面識はあったわけだが、今回は面識すらない。
「断れるはず、ないものね」
アリスは表情を消し、暗い光を湛えた目で床の一点を見つめ、ポツリと呟いた。
今度は伯爵家の長男ではなく、三男とはいえ、公爵家からの申し入れだ。
それは、ディラン以上に格が高い家柄ということで。
(クララ。私、ディラン様との婚約解消はできそうだけど、それと引き換えにまた婚約することになりそうよ。
しかも今度は、顔も知らない公爵家の人と)
だけど貴族とはそんなものよね、とアリスは自嘲気味に笑う。
今度はどんな人なのだろう。
身の程知らずだと、その顔と体で籠絡したのではと、ディランとの婚約が決まった際、他のご令嬢達にコソコソ言われたことを思い出す。
つい最近、またしても似たようなことをわざと聞こえるように言われ、アリスの気持ちは加速度的にますます萎えた。
確かに顔は可愛い方だと思うし、女性らしい体つきをしているとは思うけれど、別にそれを武器にディランに何かしたわけではない。心外である。
折角、表立って嫌がらせをしてくる人はいなくなったし、あまりにも変化しないディランとアリスの距離感に、だんだん誰も何も言わなくなって、最近では単なるお飾りとか、形だけとか、サラッと馬鹿にされることくらいに収まっていたのに。
(クララと話したいな)
アリスは、美しく聡明な友人を思い出した。
クララはいつも優しくて、頼りになる。
時々凄く過保護で心配性なクララは、いつだってアリスの心の支えだった。
つらい時も悲しい時も、いつも側にいてくれた。
しかしそのクララが、3日前から学園を休んでいた。
それは出会ってからこれまでにないことで、どうしても気になって、遂に今日、先生に聞くと、クララは体調不良で暫く欠席するとのことだった。
(明日の午後にでも、クララのお見舞いに行こうかな)
クララがいない学園生活は、とても寂しい。
勿論、他にも知り合いやクラスメイトはいるけれど、仲の良い友達、というには少し遠かった。
アリスは、なにかブツブツ呟いている父を残して自室へ戻った。