走り高跳びのレシピ
うーん。この間は米粉が少なすぎたかもしれない。小麦粉100gに対して米粉30gでいってみるか。インターネットでは蜂蜜多めでしっとりとも書いてあったから、蜂蜜ももう少し足してみよう。焼成時間は180℃で45分。そうして出来上がったパウンドケーキ。焼きたては、うん、ふんわりしっとりだ。冷めたときにどうなるかが問題だ。このあいだ食べた有名店に近づけるかどうかが問題だ。
お母さんが言った。「いい匂いにつられてきてみたら、一つもらうね」
「ちょっと勝手にたべないでよ」
私は母に怒ってみせるが、おいしそうに食べてくれる様子に悪い気はしない。
「今日の作品はとてもしっとりしている。パウンドケーキ作りの大会があったら優勝できるね」
大会だって??
急に現実に戻されて、テンションがやや下がる。
私は約二か月後に走り高跳びの県大会に出場するのだ。考えないようにしていたというのに、お母さんはなんていうことを言ってくれるんだろう。
――
いいか、なにかを成し遂げたいなら続けることだ。ひたすら走り続けることだ。止まっている暇はないぞ
――
私はこの父の言葉を信じていた。だけど今、挫けそうだった。
私の足は故障中だ。階段を踏み外したときに足をひねってケガしてしまったのだ。一カ月は練習に入ることができないと言われた。それに私は高校でも二番手。我が高校期待の星は同じクラスの星名さん。彼女は優勝候補であって、彼女に勝てないことには当然に私の優勝はない。彼女は背も高いし身体能力も高い。天性の才能がある。同じクラスの強力なライバルだった。
絶望的だ。どう考えてみてもこんな状況じゃあ、星名さんには勝てない。
兄がやってきて、夕食の準備をはじめていた母に話しかけた。
「どうしたの?」
妹の梨乃が憂鬱な表情をしていた。焼きあがったパウンドケーキを前にして、ダイニングテーブル一人座っていた。兄は小声で母に聞いた。「ケーキ作りで失敗でもしたの?」
母はやはり小声で兄に答えた。「知らないわよ。まぁ、恋多き年頃だからねぇ」
「そうなのか、なるほど」
兄は頷き、妹のところへやってきて言った。
「悩んでるんだって?俺でよければ話きくけど?」
「いいよ、お兄ちゃんには分からないでしょ」
「ちょっとは分かるよ。たとえば、髪型変えてみたら?」
「なんで髪型?」
「ちょっとは軽く見える。お前なんか重く見えるし」
「見えるってなによ。関係ないでしょ!?」
「まぁまぁ、で、誰?その相手というのは?いいづらいか?」
「同じクラスの星名まなみさん」
「へぇ、なんか女の子っぽい名前だな」
「女だよ?」
「え!?……でも最近はそういう話もよく聞くからな、応援するよ」
「そういう話ってなんだ。昔からだよ、普通は女だけだよ」
「そんなわけないだろ?」
「そんなわけないでしょ!」
私の大好きな父が1月前に他界した。
もともと病気を患っていたが急に悪化して、その日の夜に息を引き取った。お通夜の時、母は無言だった。仲がわるいわけではなかったけれど、父と母はときおり喧嘩していた。原因はたいてい父の仕事に関する事だった。もう何百回と失敗しつづけている世界一の器づくり。もうそんなことはやめて、工業品の器に専念したらいいのにといっていた。詳しいことは分からなかったけれど、私は母の気持ちも父の気持ちもわかるような気がした。
朝、どんよりとした曇り空で今にも雨が降ってきそうな空だった。私はいつものように電車を乗りついで私立の高校に登校する。足は怪我をしていたけれど、歩けないということではない。また階段でこけないように気をつけなくちゃいけない。
「そういえば梨乃ちゃんは最近、星名さんとは遊んでないの?」
いつも同じ電車に乗っている友達が言った。私は少し考えてから言った。
「いや、あまり話さないね。なんだか話が合わなくてさ」
「そうなんだ、昔は仲良かったのに」
そうだったっけ。
私は授業中も上の空だった。
考えているのは走り高跳びのこと、県大会の事。怪我をした足をそっとさすってみる。痛くはない。だけど大事を見てあと2週間は様子見だそうだ。
「はぁ」大きなため息をついた。
「ねえ、どうしたの?大きなため息なんかついて」
星名さんだ、振り向いて確認する必要もない。悶々と悩んでいるうちにどうやらいつの間にか授業が終わり、休憩時間にはいっていたようだ。私が右斜め上の宙を見て気づかない振りをしていても、彼女に気にした様子はない。
「ねぇ、仲良くしようよ~」
「やだ、わたしノーマルだから。ごめんね」
「違うよ、そうじゃないよー。今度の県大会のことー」
また来た。その話はしないぞ、勉強だって、運動だって情報戦だ。たやすく馴れ合うわけにはいかないのだ。
「ごめん、今頭の中、中間試験のことで溢れそうだから、また今度ね!」
私が断っても、彼女はまったく気にした様子がない。気に入らない!幼馴染だからといって私を甘く見ているのだ。
「そういえば他県の子が日本記録を超えたそうだよ。非公式だけどね。うかうかしてられないね」
「フンッ」
私は言いながら、手にもっていたペンをぽろりと落としそうになる。マジか。またライバルが一人増えたのか。私が考え込んでいると、星名さんが言った。
「ねえ、どうしてそんなにツンとしているの?」
「え?」
私は驚いて向き直った。星名さんは少し真剣な顔つきをした。それはとても珍しいことだった。いつもは能天気な星名さんがそのような表情をしているところを見た記憶がなかった。だが、それはほんの一瞬だった。すぐに星名さんの表情はいつも通りに戻っていた。
「もしかして・・、梨乃ちゃんの飴をこの間一つ勝手に頂戴したことを怒ってる?」
「別にツンとしてないし」
「じゃあ・・この間目を離した隙に弁当のたこさんウィンナーをつまんだこと?」
「関係ない」
「じゃあ・・・わかった!本当は毎日のように隙あらばたこさんウィンナーも飴も盗み食いしてたこと?」
「してたの?」
「うん」
私は星名さんの頭を無言で小突いた。
週末。母と一緒に父と兄の職場を訪れていた。
「で、お父さんの私物はこの部屋のもの全部なの?」
私は部屋中を見渡した。本棚がたくさん配置されて、一つ一つの棚にはぎっしりと本が詰まっていた。ところ狭しと様々な工具類や私物がおいてあった。しかしながら父がつかっていただろう一つの大きな机の上には何も置かれていなかった。綺麗好きなのか、そうでないのかよく分からなかった。
「これを全部持ち出すの?大変だよ?」
私が言うと、近くにいた兄が言った。
「私物だけでいいんだよ。いるかいらないかの判断をしてくれればそれでいいから。運び出すのは俺がやるよ」
父は職場ではとても信頼されていたようだった。同僚たちが気を使って飲み物を持ってきたり、ちょっとしたお菓子をもってきたりした。
「よく、おやじさんにはくせを直せと言われたもんですよ」と職場の男性が兄にむかって言っているのを耳にした。
癖を直す。私には癖があるのかもしれない。もしかしたらその癖に自分が気づいていないのかもしれない、だからうまくいかないのかもしれない。だけど、自分で気づかない癖についてどのように知ればいいのだろうか?
「それにしても、ほんとうにたくさんの本があるのね。こんなに必要なのかな?」
誰にともなくつぶやいたのを、職場の男性がこたえてくれた。
「親父さんは熱心だったからね。日本だけの本じゃない。海外の本もたくさんある」
そういって本を少しみせてもらう。げ、全部英語だ。英語じゃないかもしれない。日本語ではないことだけはわかる。
「こんなにたくさん勉強しないと最先端を走ることはできないってことなんだ、親父さんはすごい人だったよ」
たくさん勉強?それだけ情報が必要?
私は星名さんの話を思い出していた。私の耳には他校の話なんてはいってこなかった。でも星名さんは知っていた。
今日も空は厚い雲で覆われていた。
どうして私は星名さんとうまく話せないのだろう。もしかしたら私は彼女に嫉妬しているのかもしれない。
「もう大会近いよね。でも最近星名さん、元気ないみたい」
隣に座っていた親友が言った。
「え?」
「大丈夫かな?うちのエースなのに。いや、梨乃ちゃんもエースだけどさ」
冗談じゃない。無いとは思うけど、もし私のこと調子分落としているならそれはあってはならないことだと思った。
学校の昼休み。
「梨乃ちゃん、一緒に弁当食べようよー」星名さんがいつものように凝りもせずにやってきた。だから私は言ってやった。
「いいよ。一緒に食べよう」
「え?」
星名さんは意表をつかれたのか、目をぱちぱちと瞬きさせた。それから彼女はすぐに自分の椅子をもってきた。私たちは机の上に水筒を置き、弁当を広げた。
「星名!」
「なに?梨乃ちゃん?」
「これ、食っていいぞ!スペシャルたこさんウィンナーだ」
星名さんの表情にぱっと花が咲いた。
「すごい、足だけじゃなくて目も鼻も口もついている。それに海苔で髪の毛まで再現されてる!」
彼女は箸で持ち上げいろんな角度から確認していた、まるで腕の立つ陶芸家がその器の出来を確認するようなまなざしで。それから一口で放り込んで何度か咀嚼した。星名さんはしばらくしてから言った。
「ありがとうね、本当に」
私は彼女が少し涙を浮かべていることに気が付いた。だが私は気が付かないふりをした。
「そんなに好きだったの?」
「うん」
「じゃあこれも食べてみて」
昨日作ったパウンドーケーキを私は満を持して取り出した。
「梨乃ちゃんのお手製のケーキ食べるの何年ぶりだろ!うん、すごくふわふわで、しっとりしている!」
私はレシピブックを取り出して、一通り作り方を説明した。
「すごいね、そうやって全部書き込んでるんだね。いろいろ材料を変えて、分量を変えて、実験みたいだね」
「実験?まぁそうだね」
私はそう言ってからハッとした。
それから私は手元のレシピブックをまじまじと見つめた。
県大会当日。
良く晴れた、雲一つない空。
なれない経路で目的地まで行く。陸上強豪校で施設が十分に整っている高校だ。今日はここで陸上競技の県大会が行われる。我が高校の走り高跳びの出場者は私と星名さん。
会場で私は星名さんに声をかける。
「今日はお互い頑張ろう」
私の心は空と同じように晴れ渡っていた。
私の出番はすぐに回ってきた。
最初はゆっくりとしたスタート、それから全力疾走をして最適なタイミングで跳躍する。しっかりと聞き足で踏みこみ、ジャンプをした。跳躍の瞬間、体を後ろに倒して、背筋を伸ばして脚を上げる。真っ青な空がスローモーションで視界いっぱいに広がった。
結果、私は自己最高記録だった。優勝は星名さんだったけど我が高校は1位2位を独占することになった。賞状を受け取る際、となりに立つ星名さんに言った。
「優勝おめでとう」
「ありがとう、梨乃ちゃん」
彼女はそう言って、少しの間無言になった。それは妙な間だった。
「梨乃ちゃんのおかげだよ。梨乃ちゃんがいなければ今の私はいなかった」
「いいすぎだよ」
星名さんは無言で首を振ってから言った。
「二人で一緒に全国大会目指して頑張ろう」
私は笑顔で頷いた。
その日に兄から連絡がった。
かなり興奮した声色だった。父の取り組んできた研究が実を結んだらしい。
兄は技術的な事について子細に説明をしてくれたが、私はそれが一体どれほどすごい事なのかはよく分からなかった。だが兄がこれほど興奮しているのだからきっともの凄いことなのだろう。
兄がひとしきり説明し終わった後、私は聞いてみた。
「お兄ちゃんはお父さんが残したレシピブックを引き継いだんだよね?」
おわり